L.N.S.B [ Story - 6]
「そろそろ帰らないと。これ飲んだら出るから、チェックお願い」
「そっか、俺もじき上がりだから、いっしょに帰ろうよ」
 千秋はちょっぴりどぎまぎしながらうなずく。最近、どうもこういうことが増えたような気がする。
 仕事が終わってここへ立ち寄る時間が、たまたまいつも陸のバイトの終わる時間と重なっているだけ、単なる偶然といえばそうなんだけど。ほんとにいいのかしら、と思ってしまう。なにが、ってわけじゃないのだけれど、彼のような男の子といっしょに街を歩けること、それからまたびっくりするほど無頓着に彼が誘ってくれることが、とてつもなく贅沢なことのような気がして……。来る時間をずらしたほうがいいのかも、なんてばかなことを考えたりしている。
 だけど帰り支度をする陸を外で待っている間、じわじわと胸に暖かいものが広がっていくのを千秋はどうすることもできないのだ。この気持ってなんなのだろう。
 さっき陸が口にしたなんでもない言葉を、彼女は無意識に噛みしめている。「いっしょに帰ろう」という言葉。
 ずっと昔、その言葉は千秋にとって特別な意味を持っていた。憧れていた先輩が、片思いの男の子が、ちょっぴり気になる男友達が、ちょっとした偶然から口にする「いっしょに帰ろう」という言葉は、奇跡のプレゼントだった。肩を並べて歩くことが当たり前になってしまった相手からはもらえない、うれしさのあまり受け取ることを躊躇してしまうようなプレゼント。
 天にも上るようなうれしさと、戸惑いの入り混じったあの気持、もうすっかり忘れてしまっていたそんな気持を、28歳になった今、千秋はなんとなくもてあましている。それは知らない間に乾ききってしまっていた彼女の心にあまりにも簡単に沁み込んで、歳相応に感情を抑えることを、ともすれば忘れさせてしまいそうになるものだから。
 だけど厄介なのは、この気持こそが彼女に元気を与えているということなのだった。危うく仕事に行くことすら出来なくなりそうだった今朝のことを思い出す。この男の子の存在が胸の中になければ、あのまま彼女はいつまでも無気力の中に閉じ込められていたかもしれない。
 ほどなくカラン、とドアベルが鳴り、色あせたパーカーとジーンズに着替えた陸が顔を出す。後ろ向きにかぶった帽子が可愛くて、こちらを見たときにぱっと輝く笑顔がまぶしくて、千秋は我知らず表情を引き締める。
 余裕の表情で手を振りながら、自分に言い聞かせるのだ。こんな気持を簡単に色恋沙汰にもっていくほど、わたしは子供じゃないんだからと。

 ざわめきの消えた裏通りを、千秋と肩を並べて歩きながら、陸は機関銃のようにしゃべりつづける。彼女と会うといつもそう、話したいことが次から次へと出てきて困ってしまうのだ。
 彼女の話を聞くのも好きだし、要するにいっしょにいると楽しい。だから帰りの時間が近いと、つい誘ってしまう。彼女から見ればどう考えたってがきんちょの、この妙になれなれしい男を、千秋がどんなふうに思っているのか、彼だって気にならないでもないのだけれど。
「お前さー、変なガキとか思ってねえ? 俺のこと」
「どうしたのよ急に。変なガキだと思うけど?」
「やっぱそうかあ。なんか千秋といると、いろいろしゃべっちまうんだよな。言っとくけど、彼女といるときは、こんなんじゃないんだぜ」
 そんなことを思わずぽろりと口にしてしまったのだけれど、千秋はさして驚いた様子もなく、笑って聞き返してきた。
「へーえ、あんたにも一人前に彼女いるんだ。可愛い?」
「言っちゃあなんだけど、すっげえ可愛い」
「写真を見せなさい」
「へ?」
「持ってるんでしょ? 見せなさい」
 まいったなあ、とつぶやきながら、まんざらでもない苦笑いと共に陸はポケットから定期入れを引っ張り出し、中の写真を千秋に手渡した。最近ではさすがに、しょっちゅう取り出してにまにましながら眺めるなんてことはなくなってしまったけれど。

 そんな陸の様子にほほえましさを覚えながら、千秋は写真に目を移した。彼女ぐらいいるのが当然だと思っていたから、さほどショックでもない。ただ、自分とは無縁の輝きの中に陸も、彼女だというその女の子もいるのだと思うと、わずかな羨望の痛みが胸を刺す。
「たしかに可愛い、陸と並ぶと、雛人形みたいになりそうだわね」
「なんとでも言え。とにかく3年では一番可愛いんだ。そんなに見たいならツーショットも見せてやるよ」
「3年?」
 その言葉の妙に懐かしい響きに、思わず疑問符つきでつぶやきながら、陸の渡したもう一枚の写真を見て、千秋は気が遠くなりそうになった。
 どこから見てもお似合いの、まさに雛人形のようなふたりは、制服を着ていた。紺のブレザーに、チェックの入ったモスグリーンのパンツ。ふたりしてピースサインなんかしちゃって、はしゃぐ姿は、ちっともその服装に違和感がない。
「高校生、だったの?」
「なーに言ってんだよ今さら。俺のこといくつだと思ってたの?」
「20歳はぜったい越えてるって……」
 そう言いながらも、千秋はブレザー姿の彼の写真と、目の前にある陸の無邪気な笑顔を見比べて、思わず納得したようにうなずいてしまう。それってせめて20歳を越えていてほしいという、彼女の無意識の願望だったのかもしれない。
「高3ってことは18歳?」
「高3だけど17。俺、3月生まれだから」
 17歳……その言葉の輝かしさに思わずくらっときて、歩道を踏み外しそうになってしまう。陸は千秋の腕をつかんで支えながら、笑って言った。
「またやってるよ、この人は。精神年齢はあんまし変わんないんじゃない?」
 このところ、こんなことが増えた。ふだんの彼女は決して、あわて者でもおっちょこちょいでもないのに、陸といるときに限ってバカみたいなへまをやらかしてしまう。
 なんていうか、変に緊張してしまうのだ。ともすればティーンエイジャーのように浮ついてしまう心を抑えて、いつも大人のふりをしているものだから、どこかにムリが出るのだろう。職場ではしっかり者で通っているのに、沙希がこんなところを見たら大笑いだわ、きっと。
 それに引き換え、まあなんてこの男の子は、年齢に似合わない落ち着き振りを時として見せることだろう。彼は初めから千秋の歳を知っていたのだから、ずっと11歳という年齢差を知りながら、彼女と接していたことになる。それだけじゃない、あちらは高校生で(当たり前だけど)独身、こっちは社会人で結婚している。立場の違いを考えただけでも、本当に遠い隔たりがふたりの間にはある。
 ああそうか、だからなんだわ。千秋はちょっと淋しく思った。あまりにも遠すぎる、要するに恋愛対象になりえない相手だからこそ、彼は落ち着いていられるのだ。腕をつかまれたことで、まだどきどきしている自分がなんだか悔しく、気を取り直して千秋は他愛のない話を続けた。
「彼女も、同じ年なのね?」
「うん、でももうじき誕生日だった。プレゼントくれってうるさいの」
「今どきの子だわね。何が欲しいって?」
「何でもいいって言うんだけど、実はすっげえ期待してるみたいでさ。プレッシャーかかりまくり」
「うわ、一番困るパターンだわ」
「あー、頭痛くなってきた。やなこと思い出させてくれたよな」
「そうやって悩むのもまた、楽しいものでしょ?」
 いつもの余裕を取り戻し、千秋は笑いながら言う。彼女の誕生日プレゼントのことぐらいでこんなに悩めるなんて、なんて贅沢で幸せなことなんだろう。
「千秋覚えてねえ? 俺らぐらいの頃にもらって、うれしかったものとかさ」
「ずっとずっと昔のことだもの」
「冷たいこというなよー、なんか、あるだろ?」
 若い子をいじめるのもまた、楽しみってものだわ。だけどそんな余裕の気持は、陸の次の一言で見事に吹き飛んでしまう。
「そうだ、千秋に選んでもらおう。今度の土曜ヒマ? 買い物付き合ってよ」
 もう改札の前だった。千秋はカバンから出したばかりの定期入れを落としたのにも気付かず、言葉をなくして陸を見つめた。
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