A.Y.N.L 第4話
「やだ、可愛い、美味しそー。悠ってば、腕を上げたわね」
 悠が持ってきたケーキの箱を開けた沙希は、女の子のようにはしゃいだ声を上げた。
 中には、色とりどりのフルーツが乗った小さなタルトが並んでいる。手作りの生地をカリカリに、それでいてしっとり感を残して焼き上げ、下にはとろりとしたカスタードクリーム、表面はゼリーでコーティングして宝石のようにキラキラに仕上げた悠の力作だ。
「お茶入れるわね。紅茶よりもハーブティの方が合いそう。カモミールでいい?」
 悠がうなずくと、沙希はにっこり笑ってカウンターキッチンに入った。
 午後の光があふれるこのリビングは、悠にとって昔から馴染みのある場所だ。幼い頃、幾度となくこの場所で天馬と一緒にゲームをしたり、本を読んだり、ご飯を食べたり、眠ったりした。沙希たちが暮らすこの家自体、彼女にとっては第二の我が家のようなもので、多い頃には月の半分ぐらいはここに泊まっていた。
 今では泊まることはないけれど、ここにみんなで集まってご飯を食べることは、相変わらずの日常だ。そして沙希の仕事が休みの日には、悠はいつもこうして手作りのお菓子を持って訪ねて行く。お茶を飲みながら沙希と話すのは、本当に楽しいことだったから。
 この陽気でパワフルであねご肌の母の親友と、悠は昔からとても気が合った。性格も似ているとよく言われる。千秋と3人でいると、沙希の方と親子に間違えられることもたびたびだった。 
 「だって、私も悠も、沙希に拾われたようなものだもの」と、千秋はときおり冗談で言う。実際、離婚したばかりの時に妊娠がわかり、途方に暮れていた千秋に、沙希が声をかけたことで2人の同居生活は始まったらしい。
 それから悠が3歳になるまでの3年間、いや、正確には彼女が陸という父親を得るまでの長い間、沙希は悠にとってもう1人の母親であり、父親の代わりでもある存在だった。だからその影響力は計り知れない。だけど千秋が再婚したとき、「もう親の役は降りた。あんたはこれから私の親友よ」と、まだ小学生だった悠を友達扱いするようになり、以来、不思議な友情にも似た関係が続いているのだった。
 リンゴに似た良い香りのするお茶を飲みながら話に花を咲かせていると、小さなタルトはあっという間になくなってしまう。また全部食べちゃった、カロリーが……と沙希が騒ぎ出すのもいつものことで、だから悠はいつも彼女と食べるお菓子は小ぶりに作っておく。
 沙希を手伝って、空になったカップやお皿を片付けていると、沙希の携帯が鳴った。彼女は屈託のない様子で電話に出たが、相手の名前を聞くとわずかに険しい表情になり、身振りで悠にことわって、隣りの部屋に消えてしまった。
 誰なんだろう。基本的にフレンドリーな沙希が、あんな顔をすることはめったにない。
 少し不安な気持になりながら、洗ったお皿を拭いていると、隣りでぼそぼそと続いていた声のトーンが一段階上がった。
「知りません。もしこちらに来てたとしても、あの人が私に連絡することなんてありえないと思いますけど」
 怒りの滲み出た、固い声……。あ、もしかしたら、と思う。この電話、沙希が昔結婚していた相手の実家からなんじゃないだろうか。
 ということは、天馬の血の繋がった父親の? 悠の胸に小さな緊張が走る。
 沙希の元夫は彼女と離婚後、ずっと四国の実家で暮らしているはずだった。沙希よりいくつか年上だったが、いまだに定職につかず、実家の世話になりながら毎日ぶらぶらしていると聞いたことがある。
 そして困ったことに、この男がたびたび失踪をするらしいのだ。ふらりと出かけて行って、数ヶ月、時には1年以上も……。そのたび、心配した親たちから、なぜか縁もゆかりもなくなったはずの元嫁、沙希のところへ電話がくるらしい。
「あまりストレスになるようなら携帯の番号を変えた方がいいって言ってるんだけど、沙希さんも、そこまではできないみたいでね。変なところで義理がたい人だから」
 いつか翔一が苦笑しつつ、そう話してくれたことがある。
 じゃあ、またしてもその男……天馬の父親がいなくなったのだろうか。盗み聞きはいけないと思いながらも、どうしても気になって、汗の滲み始めた両手で布巾とお皿を握りしめつつ、聞き耳を立てていると、
「何度言われても同じです!! 天馬をそちらへやる気は、まったくありませんから」
 と、怒りもあらわな声が響き渡って、悠は、お皿を取り落としそうになった。
 どういうことなの? 天馬が……? すっかり動揺してしまった悠のところへ、電話を叩き切ったらしい沙希が戻って来る。
「悠、ごめん、長くなっちゃって……」
「ね、ねえ……どういうこと? 天馬がどこかへ行っちゃうの?」
 悠は思わず立ち上がり、たたみかけるように沙希に聞いた。どうしてこんなに冷静さを失ってしまうのか、自分でもわからないまま。
「本当のお父さんのところへ行かなきゃならないの? どうしてそんなことになるの?」
 涙目になって問いを重ねる悠を見て、沙希は驚いた表情で立ち止まっていたが、やがて、力が抜けたようにため息をつき、小さく笑みを浮かべた。
「悠、落ち着いて。とにかく座りなさい」
 肩をぽんと叩かれ、再びソファに座らされて、落ち着きを取り戻した悠は、少し恥ずかしくなる。そんな彼女の隣りに座り、沙希は穏やかに言った。
「私は大事な息子を手放したりなんかしないわよ。それに、考えてもみなさいよ。仮にそうするとしても、あの子がおとなしくそんな話に従うと思う?」
 考えてみればそうだった。天馬は子供じゃない。まだ高校生ではあるけれど、下手をするとそんじょそこらの大人より強い意志を持った、一人前の男なのだ。例え本当の祖父母や父親が束になって彼を連れて行こうとしても、涼しい顔をして蹴散らしてしまうだろう。
「で……でも、どうしてそんな話になったの? 天馬をどこかへやるなんて……」
 多少冷静にはなれたものの、自分を襲った嵐の正体がどうしてもつかめず、悠はたずねた。
「天馬の……本当の父親のことは、知ってるわよね」
 少しためらいつつ、沙希が聞いた。悠はうなずく。
「その両親……つまり、天馬の祖父母なんだけど、その人たちが、天馬のことを跡取りとして引き取りたいって言ってきてるの。最近あの子がいろいろ活躍してるのを、新聞なんかで見てるみたいで」
 衝撃だった。だって、天馬の口から父方の祖父母の話なんて聞いたことがない。つまり、彼らは孫に関してはずっと無関心を通してきているはずで、それを、どうして今さら……。
「つまりは、あの男の親たちは、仕事にもつかず、再婚もせず、失踪を繰り返しながらふらふらと生きてる自分たちの息子に見切りをつけたってわけよ。一方、離れて暮らしている孫は、ずい分と優秀らしい。それで、天馬を、ってわけなの。天馬はもともとこの家の跡取りとして生まれた子だし、それに、息子があんな人間になってしまったのは、元嫁であるあんたのせいだ。だから、代わりに天馬を寄越しなさいって……」
「ひどい、本当にそんなことを言ったの?」
「本当に、そんなことを言ったのよ」
 目を丸くしてたずねる悠に、沙希は苦笑して答えた。
「それで、思わず私も切れて怒鳴っちゃったってわけ。でも心配いらない、さっきも言ったけど、私はあんな人たちのところへ天馬をやる気は全然ないから。ごめんね。びっくりさせて」
 いたわるように沙希に謝られ、悠は首を横にふる。
「こっちこそ、ごめんなさい。なんか、取り乱しちゃって……」
 半端ではなく動転していた、ついさっきの自分を思い出し、悠はにわかに恥ずかしくなった。どうしてこうも、天馬のこととなると冷静ではいられなくなるのだろう。
 我知らず赤くなってしまった悠を見て、沙希は可笑しそうに笑った。
「驚いたわ。あんたってば、本当に本気で天馬のことが好きなのね」
「え……?」
 今、何だかすごい爆弾を落とされたような気がした。悠は思わず顔を上げ、目を瞬かせて沙希を見る。
「沙希ちゃん、今、なんて……?」
「本気で惚れてるんでしょ? あの子に。あんたのことは赤ちゃんの頃から見てきてるんだから、何だってわかるわよ」
 したり顔で言う沙希を見て、悠は観念した。完全に、ばれてる。この鋭い母の親友に隠し事なんて、どだい無理なのだ。でも……ってことは。現金にも悠の胸に小さな期待が生まれる。沙希が小さい頃から見てきているもう1人の、しかも正真正銘の子供、天馬のことは?
「あ、言っとくけど天馬の気持は知らないわよ。あの子は母親の私にも、何考えてるんだかよくわからない子なんだから」
 悠の気持を読み取ったかのように、沙希はしれっと言った。まあ、確かにそうなのだろうけれど……。期待に膨らんだ心がぷしゅっとしぼんだような気がして、悠は軽くうなだれてしまう。
「沙希ちゃん、もしかして私のこと、からかってる?」
 思わず恨めしげに沙希を見上げて聞くと、沙希は笑ってかぶりをふった。
「まさか。ほんとのところ、私は嬉しいのよ。あんたが天馬のことを好きになってくれて。だって私はずっと、千秋のことが好きだったんだもの。もし自分が男だったら絶対に結婚してた、っていうぐらい」
「それは、知ってるけど……」
 昔から沙希は、酔っ払うたびそんなことを言ってた。
「だからあんたたちがくっついてくれたら、これほど嬉しいことってないの。そうよ……考えてみれば、そうなると私たちの共通の孫ができるってことよね。うわあ、なんだかわくわくしてきた」
「さ、沙希ちゃん!!」
 悠はあわてて沙希のとんでもない暴走をさえぎった。そして、少しうつむいて言葉を繋ぐ。
「残念だけど、沙希ちゃんの思ってるようにはならないと思う。だって、私が天馬を好きになるのは、何だか間違ってる。そう思うもの」
「間違ってる?」
 よくわからないといった顔で沙希は言葉を返した。
「間違ってるっていうのは、単なる幼なじみに過ぎない相手に恋してしまってるってこと?」
 重ねて問われ、悠は「うん……」とうなずく。
「だって、誰が見てもそうでしょう。私と天馬の間に、何かがあるとはとても思えない」
 沙希は、「それはわからないわよ」と苦笑を浮かべた。そうしてすっかり落ち込んでしまった悠の肩を慰めるように抱き、しばらく思案するように黙っていたが、やがて、口を開いた。
「ねえ、悠……」
 不意に、改まった調子で呼ばれ、悠は「何?」と沙希を見る。
「これは、千秋にも話したことがないんだけれど、私はずっと『天馬』っていう名前が好きになれなかったの」
 あまりにも唐突で、そして思いがけない話に、悠は一瞬言葉を失ってしまう。
「で……でも、その名前、沙希ちゃんがつけたんじゃないの?」
 ようやくそうたずねると、沙希は首を横に振った。
「前のダンナがつけたの。私が出産したばかりで動けない間に、黙って届けを出しに行ってね。『俺の家の跡取りなんだから、俺がどんな名前をつけようと自由だろう』ってキレられて、それ以上私も、何を言う気にもなれなかった」
「そうだったんだ……」
 ただ、そう言うしかなくて、悠はちょっと厳しい表情を浮かべた沙希の横顔を見た。
 最近、気づいたことがある。この家の大人たちはみんな、今の姿からは想像できないような、辛い過去を背負っているってこと。だからこそ、今をハッピーにしようと誰もが必死なのだ。お互いが、相手に対してとてつもなく優しいのもそのせい。
 そして私はそろそろ、その笑顔の下に隠された何かを知るべきなのかも知れない、悠はそう思い始めていた。沙希は、淡々と話し続ける。
「そんなことがなかったら、良い名前だと思えたのかも知れない。だけどダメだった。離婚してからも、天馬の名前を呼ぶたび、つけた男のことを思い出しちゃって、本気で名前を変えさせようかと思ったぐらいよ。まるで、呪いでもかかってるみたいだった」
 もしかして、それってすごく辛いことなんじゃないだろうか。だって、子供の名前を呼ぶのは、親の仕事みたいなものだ。そのたびに辛い気持が蘇るなんて……。
 悠はそんな経緯を知らなかったから、単純に天馬という名前が好きだった。ちょっと大げさな響きの名前ではあるけど、そこがまた、あの超然とした空気を持つ男の子にはぴったりだと思っていたのだ。彼が本当に空を飛ぶような走りを見せるようになってからは特に。
 だけど沙希はいまだに、この名前が好きになれないのだろうか。そう思うと、悠までがちょっと辛くなってしまう。
「でも、その呪いを解いてくれた人がいるの」
 なのに沙希は、そんな悠の胸の内も知らず、さっきまでの固い表情を嘘みたいにほころばせてそんなことを言うものだから、悠は思わず気が抜けてしまった。それが誰かは、聞かずともわかっている。
「翔一くんでしょ?」
 沙希がこんな顔をして話すことといえば、翔一のことに決まっていた。
「そろそろ結婚しようかっていう頃、翔一が言ったの。『翔一』と『天馬』って、並べると本当の親子みたいな名前だって。俺は、あいつの名前を呼ぶたび、本当の父親になったみたいで嬉しいってね。そう言われればそうなのよ。漢字の意味が、どことなく繋がってる。知らない人は、父親に合わせてつけた名前だって思うかも知れない。そう思うと、不思議よね。この名前が大好きになったの」
「要するに、翔一くんは偉大だって話なのね」
 悠はちょっと呆れて言った。どうしてみんな、何か話をすれば最後には惚気ずにはいられないのだろう。だけど沙希は真面目な顔で、首を横に振った。
「それもあるけど、それだけじゃない。私、その時、翔一とあの子は何か深い絆で繋がってたんじゃないかって思えたの。そういうことってあまり信じない方なんだけど、それだけは信じられた」
 沙希の言おうとしたことがわかって、悠はちょっとだけ、どきりとする。陸も前に同じようなことを言ったような気がするから。自分と悠は繋がってるって……。
 そう、運命だ。またしても運命。2人ともそんな言葉は使わなかったけれど、要するに、運命という絆で繋がった親子がここに二組いるってこと。じゃあ、その子供どうしである私たちは? 自分と天馬の間にも、何かがあるのだろうか。にわかに胸がドキドキし始める。
「沙希ちゃん……」
「何?」
「ありがとう、何だか、ちょっとだけ、勇気が出てきた」
 沙希は「どういたしまして」と笑い、「これからも何だって協力するわよ」と続けた。だけど、
「あ、でもそんなに大したことはできないわよ。あの子は、母親の言いなりになんてなる子じゃないから」
 と言って、またしても悠の心をぷしゅっとしぼませたのだった。
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