A.Y.N.L 第5話
 陸が、アメリカに行く事になった。学生の頃に出した写真集の続編を作るためだ。
 彼が留学中に個性的なNY案内として出したその本は、とても評判が良かったらしい。当然、続編をという話は昔から何度かあったのだけれど、家族のことを優先したいからという理由で、ずっと断り続けて来た。
 そんな彼を、「もうそろそろ自分のやりたい仕事をやるべきだ」と強く説得したのが千秋だった。大河はもう小学生だし、悠だってじゅうぶん頼りになる。もう大丈夫だからと……。そこに沙希と翔一の強力な援護射撃が加わり、陸はとうとう、約10年ぶりに海を渡る決心をしたというわけなのだった。
 この人たちのこういうところが好きだと悠は思う。その時々に支えられる者が、全力で誰かの夢を支える。
 陸は長い間家族のそばから離れず、仕事を選びながら、千秋の仕事と、そして歌というライフワークを支えてきた。沙希も翔一も、陸の存在に助けられたことはたくさんあった。だから今度は自分たちが助けなくてはとみんな考えたのだ。今度は自分たちが、陸に思い切り仕事をさせる番だと。
 とはいえ、陸が決めた最初の渡米期間はたったの1ヶ月。日本でできる作業は日本でやり、向こうとこちらを何度か行ったり来たりしながら本を仕上げるつもりらしい。向こうで腰をすえて仕事をした方が効率がよさそうなものだけれど、そうしないのはやっぱり家族が心配だから……というより、彼自身ができる限り千秋と離れずにいたいからに違いないと、悠は思っている。
 だって、出発直前までの陸のナーバスな様子といったら、なかった。
 「千秋のこと、頼むな」、悠は何度そう言われたかわからない。ふつう逆なんじゃないの? と言いたくなったが、ふだんから彼は妻より娘の方がしっかり者だと信じているふしがあるから、これはまあ、許せる。
 だけど空港で人目もかまわず妻を抱きしめて離そうとしないのはいかがなものだろう。最後の方には「あー、やっぱ連れて行きてえ」と、千秋の腕を引っ張って本当に飛行機に乗せてしまいそうな勢いで、しまいには、「もういい加減にしなさい」と、沙希にほとんど蹴り出されるようにしてゲートをくぐったのだから、呆れる。
「なんか心配になってきた。お父さん、あんなんで本当に向こうできちんと仕事できるのかな」
 陸の乗った飛行機を見送りながら、悠がため息混じりに言うと、千秋は笑って答えた。
「大丈夫よ。向こうに行ったらきっと、仕事のことしか頭になくなるわ。カメラ持つと人格変わるんだから」
 確かに、いざ仕事に打ち込んだ時の父の集中力はすごい。悠は安心して「そうだよね」と返そうとしたのだけれど……。
 千秋が不意に、瞳に浮かべた笑みをわずかにゆがませて下を向いたので、仰天してしまった。
「お母さん、どうしたの?」
「やだ、千秋、まさか泣いてるの?」
 沙希も驚いたように千秋のそばに駆け寄る。
「呆れた。たったの1ヶ月よ。帰って来ないってわけじゃないのよ。どうしてそうなっちゃうのよ」
「ごめん……」
 千秋は泣き笑いのような表情で顔を上げ、とっくに飛行機が消えてしまった空の彼方に目をやった。
「なんだかいろいろ、思い出しちゃって……」
 その横顔を見て、悠は不意に思い出してしまった。2人で暮らしていた頃、千秋が時おりこんな風に、何かを探すかのように空を見つめていたことを。
 かつての長い長いお別れの時も、母は同じ場所でこうして陸を見送ったのだろうか。この青い空は今も、悲しい景色として彼女の記憶に焼き付いている? 長い時を経ても、その時の辛い気持を蘇らせずにはいられないぐらい。
 自分が役不足だったから、まだ高校生の頼りないガキだったから、千秋にふられてしまったんだと陸は言った。だけどなんだか、違うみたい。
 本当はきっと、母も辛かったのだ。誰よりも、陸にそばに居て欲しいと思っていた。なのに、その気持をこらえて彼を突き放したのは、彼が広い世界に出て行くべき人だということがわかっていたから。帰って来るあてもないまま、愛しい人を送り出すのは、どんなに辛かっただろう。
 ――お母さん、大丈夫なの?――
 陸のアメリカ行きを知った時、悠は千秋にそうたずねずにはいられなかった。もしかすると陸より千秋の方が、心のずっと深いところで陸を必要としているのではないかと思えることが、今までたびたびあったからだ。
 だけどその時、千秋は揺るぎのない笑みを瞳に浮かべてこう答えたのだった。
 ――大丈夫よ。陸は帰って来るもの――
 その言葉の意味が、悠は今、わかった気がした。どんなに遠いところに行っても、陸は必ず帰って来る……それもあるけど、単なる物理的な距離だけの問題じゃない。
 どんなに大きな仕事に取り組んでいても、どんなに撮ることに熱中していても、彼の心は必ず家族と共にある。それが信じられるようになったからこそ、千秋はこうして彼を送り出せたのだ。
 逆にいえば母はずっと心のどこかに不安を抱えていたのかも知れないと悠は思った。父が根気強く、長い時間をかけて信頼関係を築き、彼女の不安を少しずつ溶かしていったのかも知れない、とも。
 だけどやっぱり、まだまだみたい。こうして飛行機が飛び立ってゆくのを見るだけで、悲しい記憶が蘇ってしまうぐらいなんだもの。だけど沙希に肩を抱かれて涙ぐむ千秋は、なんだか恋する女の子のようで可愛かった。支えてあげなくちゃ……娘である悠ですら、そう思わずにはいられないぐらい。
 大丈夫、お父さんが帰って来るまで、私がきちんとお母さんを守ってあげるから。
 空の彼方にいる陸に、思わず心の中でそう誓ってしまったのはやはり、心配性の彼の暗示にすっかりかかってしまったせいかも知れない。


 だけど、陸のいない生活は、思っていた以上に大変なものだった。
 何しろ彼は、心身共に驚異的な強靭さを持つ男である。2人分、3人分の仕事を軽くこなして、いつも平気な顔をしている。だから、誰も気づかなかったのだ。
 自分たちがどれほど、彼に頼っていたかということに。
「ごめんね、悠。私って本当に、1人じゃ全然ダメなんだわ……」
 真っ黒に焼け焦げたハンバーグを前に、千秋が青ざめた顔でつぶやいたのは、彼が行ってしまってから3日目のこと。
 もともと料理はあまり得意ではない上に仕事の疲れが重なって、こんなことになってしまったらしい。皮肉なことにこの2、3日の間に仕事上のトラブルが続き、心労も絶えないようだと沙希が話していた。こんな時に日常の雑事を分け合い、精神的にも支えてくれる陸がいないことは、千秋にとって辛いことに違いなかった。
 以来、悠は交代にする予定だった夕食当番を、全部引き受けることに決めた。小さい頃から陸を手伝っているから料理は得意だ。毎日学校帰りに買い物をして食事の用意をするぐらい、どうってことない。掃除だって洗濯だって、弟たちの世話だって、何でもやるつもりだった。
 私だってきちんとみんなの役に立てる、そんな実感が欲しかったから。
 自分に、何ができるだろう。このところ悠はいつも考えている。自分が自分だと言えるものが何もなくても、とにかく動いていたかった。正体のない焦りのようなものが、いつも彼女を追い立てていた。
「なんか悠、疲れてない?」
 9月の連休明け早々、教室で顔を合わせた果歩にそんなことを言われ、悠は「へ?」と虚を突かれてしまう。
「ちょっと顔色悪いよ。もしかして、寝不足?」
「そ、そうかな……」
 確かに、昨夜は陸の仕事部屋にある料理本を読み漁っているうちに夜が明けた。もしかするとその前の夜も、またその前もそうだったかも。何につけ、つい、のめり込んでしまう性格なのだ。最近疲れ気味の千秋や、育ち盛りの弟たちのために、少しでも安くて美味しくて栄養バランスが取れているものを……なんてことを考えていると、あっという間に時間がたってしまう。
 そんなことを悠がぽつぽつと話すと、果歩の表情がたちまち険しくなった。
「気をつけた方がいいよ。あんたっていつも、張り切りすぎて自爆するタイプなんだから。去年学祭の実行委員長やった時、終ったとたんすごい熱出したじゃない。小学校の発表会で主役やった時も、練習しすぎて声出なくなっちゃったし、1年生の時は……」
「わかった、わかったから!!」
 なおも言い募ろうとするおせっかいな親友を、悠はあわてて制する。
 果歩はまだまだ言い足りなさそうな顔で不満げに口をつぐむ。その顔が一瞬、ぼぅっとかすんだような気がして、悠は小さく目を瞬いた。
 あれ? やっぱり、おかしい……。
「とにかく、今日は早く帰って寝た方がいいよ。1日ぐらい、誰かに食事当番代わってもらっても大丈夫でしょ?」
「う、うん……。どっちにしろ、今日は翔一くんが作ってくれる予定なんだけど――。私は帰りに大河たちを迎えに行かなきゃならなくって」
 今日、大人たちはみんな残業があって、放課後教室が終わる時間に間に合わない。学校の帰りに、同じ敷地内にある初等部に弟たちを迎えに行って、バスで15分ほどの場所にあるスイミングスクールに送り届けて欲しいと頼まれていたのだ。
「本当は、天馬が行ってくれることになってたんだけど、リハビリの予約が入っちゃったから……」
 そう言うと、果歩は「そっか……」と表情を曇らせる。
 先週、天馬は地方大会の決勝に見事勝ち残り、念願の全国への切符を手にした。
 この時ばかりは、陸以外の家族全員が応援にかけつけ、それはもう大騒ぎだったのだけれど、そう喜んでもいられないことが、後でわかった。その試合で天馬は太腿を傷めてしまっていたのだ。
 深刻な故障ではなく、1ヶ月後の全国にはじゅうぶん間に合うらしいのだけれど、当分は治療とリハビリを続けなければならない。練習も別メニュー。ベストコンディションで大会に臨むのは難しいだろう。
 悠はその話を聞いただけで、泣きそうになってしまった。だけど天馬は相変わらず……というか、恐ろしいほどに冷静だ。「焦ってもしょうがねえし……」と、淡々としている。
 その異様なほどのメンタルの強さって、いったいどこから来るんだろう。こんな時悠は、この幼なじみに畏敬の念すら抱いてしまうのだ。
「とにかく、天馬の負担にならないように私が頑張らなきゃ。別にご飯作ったり、弟の世話するぐらい、どうってことないよ」
 健気にそう言い切ると、果歩もそれ以上は言い返せないらしく、小さくため息をついた。その瞬間、ふわっと少しだけ地面が揺れたような気がして、悠はあわてて机に手をついた。

 6時間目の授業が終わる頃には、事態はますます悪くなっていた。
 頭痛がする。寒気がする。明らかに熱が上がってきているのが、自分でもわかる。
 丈夫に成長したと自分で思っていても、やはり、小さく弱い赤ん坊だった頃の名残が悠のどこかにまだ残っているらしい。季節の変わり目にはこんな風に体調を崩すことがたびたびあった。しかも果歩が指摘した通り、そんなときに限ってあれこれと無理をしてしまうものだから始末が悪い。
 認めたくないのだ、弱い自分を。誰よりも強くありたい、そう思うから、少しぐらいの不調には気づかないふりをして、つい、頑張り過ぎてしまう。
 思えば千秋にもそういうところがあって、仕事の忙しい時期が過ぎた後にはたびたび熱を出した。
「お前らってほんと、笑えるぐらい親子だよな」
 2人が同時に寝込んだ時など、(なぜか楽しげに)そんなことを言って、氷枕やらお粥の鍋やらを手に2つの部屋を行ったり来たりしていた陸のことを思い出す。
 その陸も今は海の向こうだ。頼ることはできない。
 気がかりそうな表情を残して部活に行く果歩に手を振って、悠は保健室からもらってきた大きなマスクを、ポケットから取り出した。

「ね、ねーちゃん、どうしたんだよ!!」
 顔の半分以上をマスクに包まれた悠を見て、大河と翼は表情をひきつらせた。初等部時代から悠を知る教室の先生たちも、「どうしたの、大丈夫?」と、気がかりそうに声をかけてくる。
「大丈夫です。ちょっと風邪気味なんで、うつしちゃいけないと思って……」
 にっこり笑ってそう答え、弟たちの手を引っ張って教室を出る。嘘ではないが、決して「大丈夫」ではなかった。外に出ると、秋風が寒気を誘い、また熱が上がったような気がする。頭がくらくらして、一歩踏み出すごとにまるで宙を歩いているかのようにふわふわと心もとない感じがした。
 それでも口々に話しかけてくる弟たちの相手をしながら、どうにかバスに乗り、2人の通うスイミングスクールにたどり着く。奥にある更衣室へと2人が駆けて行くのを見届けると、全身の力が抜けた。これで大丈夫。帰りは仕事を終えた翔一が迎えに来てくれる手はずになっている。
 再びよろよろとバスに乗り込んで、家に帰り着いたとたん、地面がぐらりと揺れるような錯覚におそわれ、悠はソファにへたり込んだ。喉がからからに渇いているのに、キッチンに行く力すら残ってない。これはマジでやばいんじゃないかと恐怖を感じた。
 去年の今頃、学祭準備の無理がたたって熱を出した時も、これほどじゃなかったと思う。学祭が終わって果歩と普通に話しながら帰り、門のところで「バイバイ」と手を振ったとたん、ふらふらと崩れ落ちて、果歩をひどくびっくりさせたんだっけ……。
 なんだか、情けないなあと思う。まったく、自己管理ができてない、自分の限界すらわかってない。こんなんじゃ、いつまでたっても天馬に追いつけない。私って本当にダメだ……と、いつになく弱気になってしまうのは、やはり、身体が弱っているせいだろうか。
 とにかく、水分を取ってきちんと休まなきゃ……。気を取り直し、全身の力を奮い起こそうとした時、ポケットの携帯が震えた。
 液晶に浮かび上がった名前を見て、一瞬、躊躇する。だけど心細さが本能的に着信ボタンを押させていた。
「悠、どうしてる? あいつらもう、スイミングに行った?」
 今、一番聴きたかった声……深く屈託のない天馬の声が受話器の向こうから聞こえてきて、悠は思わず涙が出そうになってしまう。
「うん……行ったよ。天馬は、病院?」
 どうにか普通に答えるのが骨だった。どうしたって声がかすれ、短い言葉しか返せない。
「ああ、待ち時間めちゃくちゃ長くてさ。ヒマだからお前の様子でも……って、お前、なんか声、変じゃないか?」
 不意に指摘され、悠は虚を突かれる。一瞬、今すぐ来てという言葉が喉まで出かかった。苦しくて、心細くて……。だけど、全国大会を前にした天馬の大事なリハビリを、邪魔するわけには行かなかった。悠は小さく深呼吸し、言葉を返す。
「そ……そうかな。そういえば、ちょっと喉が痛いかも。風邪、引いちゃったのかな――」
 一世一代の名演技……のつもりだったが、最後の方は頭がくらくらして、自分でも何を言ってるのかわからなくなった。「大丈夫か?」と天馬が気がかりそうにたずねるのを遮り、「じゃ、もう寝るから……」とむりやり電話を切ると、全身からどっと汗が吹き出し、悠は再びソファに崩れ落ちる。もう、身体を動かす力なんて、少しも残ってない。
 あ……もしかしたら私、このまま死んじゃうのかも――。
 あろうことか、そんな予感すら、胸を過ぎった。

「うわ、やっぱ、思った通りだ」
 ため息の混じった声に、ふと、意識が戻った。重い瞼を上げると、会いたくてたまらなかった相手の顔がぼんやりと目に映り、マボロシを見ているのかと思った。
 だけど、自分を抱き起こす腕の力強さも、飲ませてくれた水の冷たさも、本物としか思えなくて、夢かうつつかわからないまま、悠は、相手の名前を呼ぶ。
「天馬……?」
 天馬は何も答えなかった。ちょっと怒ったような顔が、悠を不安な気持にさせる。だけどもう、それ以上何も言えず、何も考えられなくて……。
 黙ったままの天馬に助け起こされ、いつの間に呼んでいたのか、タクシーに乗せられる。病院に向かう途中、普通に座っていることもできず、悠は天馬に寄りかかっているしかなかった。大きな肩の温もりに、ふと幼い頃の気持が蘇り、またしても、涙が出そうになってしまった。
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