A.Y.N.L 第3話
 今でも、何度も思い出すシーンがある。悠が始めて自分の気持に気づいた時のことだ。
 まだ小学6年生だった。初等部の制服を着てベレー帽をかぶり、ランドセルを背負った子供っぽい格好で、学校帰りに忘れ物を思い出した悠は、猛スピードで元来た道を引き返し、近道をして、破れたフェンスの隙間から、学校の敷地に飛び込んだ。ちょうど入ったところは中等部の校舎の裏手になっていて、そこで彼女は見てしまったのだ。
 天馬が、ジャージ姿の女の子を抱きしめているところを。
 いや、正確には抱きしめていたわけじゃなかった。女の子の方はもう周りも見えないような感じで、完全に天馬の胸に頭を預けて泣きじゃくっていたのだけれど、天馬の両手は所在なげな感じでその子の背中に触れない辺りで止まっていて、その体勢が彼の意志によるものではないことは、すぐにわかった。
 だけど、悠にとってはじゅうぶんに衝撃的な光景で……。
 すっかりかたまって立ち尽くす悠に、天馬はすぐに気づき、一瞬「しまった!」という顔をした。そして今度は、もう笑うしかないといった風に小さく苦笑を浮かべたのだった。
 もう忘れ物を取りに行くことすら忘れてしまって、そのまま家に駆け戻った悠は、おそらく相当に引きつった顔をしていたのだろう。出迎えた陸が、「悠、どうした?」とひどく驚いた様子でたずねた。返事もせず、自分の部屋に飛び込み、ひとりになったらなぜだか急に涙がぽろぽろとこぼれ始めたことを覚えている。
 どうしよう、これは恋だ、私は天馬のことが好きなんだと、唐突に、何の脈絡もなく悟り、なんだか不思議に合点のゆくような気持になってしまったことも……。
 それまで、ずっと不安だった。小さい頃から当り前のようにそばにいた幼なじみが、にわかに遠く、大人になったように感じられて。
 中学校に入って陸上を始めて以来、天馬はすっかり走ることに熱中していた。もともと日常のあらゆることに対して執着心がなく、情熱というものをあまり感じさせない男の子だったのに、まるで人が変わったみたいに、熱いところを見せるようになった。そのくせ、グラウンドを離れてしまえば、淡々として穏やかでひどく優しい、いつもの天馬に戻るのだ。そのギャップが本来彼が持っていた超然とした空気を際立たせ、つまりは彼を、誰から見ても素敵な男の子に成長させていたのだった。
 そんな天馬の魅力に、他の女の子たちも気づかないはずがない。中1のバレンタインデーに彼がもらったチョコレートの数は、ちょっと驚いてしまうほどだった。悠はその年、幼なじみとして毎年彼にあげていたチョコを、渡すことができなかった。なんだか気後れしてしまって。
 あの頃から、複雑な思いは胸の中に広がっていたのかも知れない。昔からこの幼なじみに対して抱き続けていた無邪気な反発心や屈託のない親しみは少しずつ影をひそめ、何か別の感情がふくらみつつあることに、悠は心のどこかで気づいていた。
 このところ、天馬に会うと胸が痛いのはどうしてだろう。彼に子供扱いされるたび、今まで以上の寂しさと苛立ちが生まれるのは? わけのわからない、もやもやとした感情を胸に抱き続けていた彼女だったのだけれど。
 とうとう、わかってしまった。その気持の正体が。できればわからないままでいたかったと思う。見てしまったことへの後悔が胸にあふれ、よけいに彼女を悲しい気持にさせたのだった。
「ごめんな、悠。びっくりしたろ? 彼女、副キャプテンになったばかりですげえプレッシャーかかってたみたいなんだ。俺もキャプテンだからやっぱフォローしなきゃと思って、いろいろ話聞いてるうちに泣き出しちまって、ちょっと、放っとけなかった」
 あの日、悠の様子がおかしかったことを、陸から聞いたのだろう。天馬は後から謝ってくれた。
 心配してくれていたのだ。そう思うと胸が勝手にじーんと熱くなってしまう。だけどそんなことで感動している自分がすぐに悔しくなって、
「なに言ってんの。あんなことでびっくりなんてするわけないじゃん。平気だよ」
 強気に答えた悠だったけれど、心の中は、ぐらぐらと揺れていた。
 これから先、ずっとこんな風に本当の気持を隠し、無邪気な幼なじみを演じ続けなけらばならないのだと思うと、悠はまだ子供だというのに、ずっしりと重い荷物を背負わされたような気がしたのだった。

 あれから3年。悠は往生際悪く、何度も自分の気持を否定してみた。だって相手は兄妹のように育った幼なじみ、しかも自分じゃなくったって、誰もが憧れてしまうような男の子だ。あまりにも安易過ぎる。
 ただ単に手近な相手に恋したいだけじゃないの? あるいは、子供じみた独占欲。それとも、家族のような愛情を恋と勘違いしてる? 
 だけど天馬の顔を見たとたん、そんな理屈はいつも風のように消え去ってしまう。悔しいけれど、やっぱり、好きという気持しか残らない。幼なじみとか、格好の良い男の子だからとか、そんなこととは関係なく、もっと心の深いところで彼を求めている。そんな風に思えてならないのだ。
 夏休みの終わりに、1日だけ登校日があった。果歩たちと学食でアイスクリームを買い、高等部のグラウンドの脇を歩いた。
 よほど集中しているのだろう、天馬は悠に気づくこともなく、何度もスタートの練習を繰り返していた。まだまだ残暑の残る昼下がりだというのに、その姿はまるで暑さを感じさせない。あまりにもストイックで、遠く、眩しい。
 同じグラウンドには、あの日天馬の胸で泣いていたあの女の子もいた。彼女が友達に過ぎないことはもうわかっていたけれど、やっぱりこうして遠くから見ていると、胸が痛む。自分がどんなに頑張っても手に入れられないものを、彼女は手にしている、そんな気がするから。
 好きな相手に追いつくには、自分の本当にやりたいことを、死に物狂いでやるしかない……。いつかの陸の言葉がずっと、胸を離れない。
 私の本当にやりたいことって、何? 悠はその答えを見つけ出せずにいる。どんなに勉強を頑張って優等生になっても、皆から頼りにされるしっかり者になっても、ただ、それだけで彼女は天馬に追いつけない。
 思えば、天馬も、陸も、まわりの人たちにはみんな、自分にはこれしかないと思えるようなことがあるのに……。
 私にはどうしてそれがないのだろう。悩みは、尽きない。
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