A.Y.N.L 第2話
 2年前に引っ越して来たこの家は、小さな庭のついた日本家屋だった。
 沙希たちの家の近くという条件で引っ越し先を探していたら見つかったのがこの家だった。千秋は緑あふれる庭を一目見て気に入り、父親の陸は、「こういうサザエさんちみたいな家に住むのも面白れーじゃん」ってことで、すぐにここに決まったのだ。マンション暮らしに慣れていた悠は最初のうちこそ戸惑ったが、今ではゆったりと時が流れるようなこの家の空気がとても気に入っている。
 「ただいま」と声をかけて入ると、家の中は静かだった。千秋は仕事、弟の大河は放課後教室。陸がいるはずなのだけれど、3日ほど前から〆切に追われて仕事部屋にこもったきり、姿を見ていない。
 まだ終わらないのだろうか。もうすぐ天馬たちが来るはずなのに、支度は大丈夫なのかな、心配になる。
 だけどキッチンに入るととても良い匂いがした。テーブルの覆いを取ると、そこにはすでにあふれんばかりの御馳走が並んでいる。
 笹に巻かれた中華ちまき、野菜がたっぷり添えられた蒸し鶏、とろけそうな飴色の豚バラ肉の煮込み。今日のテーマは中華らしい。お茶を飲もうと冷蔵庫を開けると、あとは茹でるだけの水餃子がスタンバイしていた。見るからにもちもちとした皮は、手作りだ。
 うちでは主にお父さんがご飯を作ると言うと、みんなから「すごい!」という感想が返ってくるけれど、悠にとってそれは自然なことだった。何しろ陸は手際が良い。キッチンに立っててきぱきと動く姿にまったく違和感はなく、楽しげで恰好が良い。
 大きなエプロンをかけてわずか数分で、次々と湯気の立つお皿がテーブルに並んでゆくのを、悠は小さな頃、まるで魔法でも見ているような気持で眺めたものだった。今日も仕事を終え、わずかな時間で、彼は事も無げにこれだけの料理を作ったのだろう。
 裏庭に面した縁側をのぞいてみると、思った通り、陸がいた。この場所は最近、彼のお気に入りなのだ。
 悠の幼い頃に母の再婚相手となった若い父親は、浴衣姿でうちわを片手に縁側に座り、寛いでいた。傍らには、瓶ビールと陶器のコップ、枝豆が置かれた丸いお盆。足元では蚊取り線香の煙がたちのぼり、穏やかな夕風が吹くたびに、風鈴が、ちりんと音を立てる。
 このところ、こういう和風な演出が彼のブームらしい。「こうしてると俺、なんか大文豪みたいじゃねえ?」とか言って、悦に入っている。おかしな人だ。もっとも、「絶対にこの縁側に似合うと思って」という理由だけで彼に浴衣をプレゼントした千秋も千秋なのだけれど。
 けれども実際のところ、白い滝縞が入った濃紺の浴衣は、体格の良い彼に本当によく似合っていた。少しはだけた襟から、日に焼けた胸元がのぞいている。ちょっと物憂げな顔をして縁側の柱にもたれ、お行儀悪く足を組んで寛ぐ様子は、なんていうか、絵になる。こういうところをクラスの女の子たちが見たら、またキャーとか言うに違いない。
 実を言うと、悠の友人たちの間で、天馬に負けない人気を誇るのが、この父だった。
 彼は母よりずっと年下だから、同世代の子の父親たちより確かにうんと若い。だけど、そうしたことを差し引いても、格好が良いのだとみんな言う。何かこう、見る人を惹きつけずにはいられない、たたずまいのようなもの。そうしたものが彼にはあるのだ。それは悠も認めるにやぶさかではないのだけれど。
 とはいえ、沙希の言葉を借りれば「他の女に心を奪われている男なんて腑抜け同然」。昔から今に至るまでずっと呆れるばかりのテンションで妻を愛し続けているこの血の繋がらない父親が、男に見えたことなど、正直、悠には一度もない。娘としての愛情ならば、有り余るほどではあるものの。
 となりに置いたプレイヤーからは、千秋がよくステージで歌うような古いR&Bが、小さな音で流れていた。少し湿った風の吹く夕暮れ時に、甘くひなびた感じのメロディーは心地よく、一仕事終えた彼が心からリラックスしてそこにいるのが伝わって来る。
「仕事、終わったの?」
 声をかけると、陸は悠を見て「おう」と笑った。
「なんとかギリギリで間に合った。今度ばっかは終わんねーと思ったよ」
 もう3日近くもろくに寝てないと、今朝千秋が心配していたけれど、その力のある笑顔に徹夜の疲れなど微塵も感じられない。この人はいつも呆れるほどタフだ。
 今や売れっ子のフォトライター。少し前までは家庭第一で、小さな仕事しか受けなかったけれど、最近ではそうも言っていられなくなってきた。泊りがけの取材も断り切れず行くようになったし、今回のように何日間もカンヅメになって仕上げなければならないような仕事も増えた。
 だけど彼はいつも、平気な顔でブルドーザーのようにわしわしと仕事をこなし、それが終れば、何ごともなかったようにキッチンに立っている。その上、どんなに忙しい時でも隙を見ては千秋にべたべたとくっついているのだから、始末が悪い。「しょうがねーだろ。俺は、千秋に触ってないと、パワーが出ねーんだから」なんて、ふつう、悪びれもせず娘に言う? まあ、そこが、この人の愛すべきところなのだろうけれど。
「座れば?」
 そう促され、悠は汗をかきはじめた麦茶のグラスを持って陸の隣りに座った。
「そういえばお前、天馬の試合見に行ってきたんだっけ」
 ふと思い出したように陸がたずねた。
「あいつ、勝ったろ?」
 当然のように重ねて聞かれ、悠は苦笑して答える。
「ぶっちぎり。もう、勝負にならないって感じだった。今年は全国確実だわ。せっかくクラスの子たち連れて応援に行ったのに、バカみたいだよ」
 だいたい人が心配してるのに、レース前にのんきにお弁当なんか持って来るんだから……と言いかけ、ふと思い出して悠は詫びた。
「そうだ、今日お弁当忘れてごめん。追っかけてくれたんだって?」
「ああ、良かった。天馬に会えたんだな」
「うん、レース直前に持って来てくれるもんだから、焦ったよ」
 今朝のお弁当は、どうしても仕事で手を離せない陸に代わって、千秋が作ってくれた。それを忘れてしまったのだ。しかも結局、陸にはよけいな時間を使わせてしまった。
 ごめん……と再び小さくなって謝ると、陸は愉快そうに笑って言った。
「お前って、普段すげえしっかりしてんのに、たまに抜ける時があるんだよな。なんか、逆にほっとする。もしかするとそういうとこ、千秋に似てるかも知れない」
「お母さんに?」
 なんだか意外だった。母はおっとりしていてマイペースなのだけれど、見かけによらず大きな失敗はやらかさない。自分とは正反対というイメージがあるのだけれど。
「昔の千秋に……かな。出会った頃なんて、俺の方が完全なガキだったのに、どっちが大人だかわかんねーって感じだった。何せ頼りなくってさ」
「いくつの時に出会ったの?」
 少し驚いてたずねてから、あ、これはいいチャンスかも知れないと思った。2人の昔のことを、知りたいと悠は思っていた。自分自身が恋なのだかなんだかわけのわからない熱に心を支配されるようになってから、ずっと。
 だけど沙希や翔一は「そんなことは本人に聞きなさい」とにべもないし、千秋は恥ずかしがって話してくれない。陸に聞けば喜んで話してくれるだろうことはわかっていたけれど、際限なく長い惚気話になりそうなのは困ったことだった。改まってそんなことを聞くのも、なんだか照れてしまいそうだったし。
 でも、今ならさりげなく話に入って行けそうだ。幸い、もうすぐ天馬や翔一が来るから、長い惚気を聞かされるはめにもならないだろう。
 あれ? お前知らなかったっけ……と陸は意外そうな顔をして、答えてくれた。
「俺が、17の時」
「……って、高校生だったの?」
 こんどこそ本当にびっくりしてしまった。しかも17歳と言えば、今の天馬と同じ歳だ。そんな年齢で、父は生涯のパートナーと出会ったことになる。
「で、やっぱり一目見てお母さんのこと好きになったの?」
 この人が母に恋愛感情を持たない時期があったとは考えにくかった。陸の方から一目惚れしたに違いないと、悠は以前から思っていたのだ。だけど陸は、「いんや」と笑って首を振った。
「俺は千秋のこと、完全ツレだと思ってた。あいつは28歳で、結婚してて、その結婚相手がどんな奴かなんてその頃は全然知らなかったしね。とにかく千秋としゃべってると、めちゃくちゃ楽しかったんだ。あいつになら、誰にも話せないようなことでも話せた。大親友以外の何者でもないって、ずっと思ってた。そんな年上の女がツレだなんて逆に不自然だ、おかしいって、みんなにさんざん言われたけど、それがどうした……ってね。でも結局、みんなの方が正しかったんだよな」
「いつから、大親友だとは思えなくなったの?」
 もう、すっかり話に引き込まれてしまい、悠はためらいもせずたずねた。陸は少し困った顔をしてしばらく黙り、傍のお盆に置いた陶器のビールグラスにビールを注いで、一口飲んでから、答えた。
「お前が、出来たときから……」
「私が……?」
 思いがけず自分のことを出され、悠はまたしても驚かずにはいられなかった。
 悠がお腹の中にいるとわかったとき、千秋はもう離婚していて、陸はその時初めて、彼女の結婚生活がどんなものだったかを知ったという。
 その辺りのことはは悠もおぼろげながらわかっていた。血の繋がった自分の本当の父親がどんな男であったかも。その男のことを話すとき、千秋はいつも、いいようのない恐怖の色をその顔に浮かべていたから……。
 お母さんにこんな顔をさせる人は、たとえ血が繋がっていたとしても私の父親なんかじゃない、幼いながら、悠はいつもそう思わずにはいられなかった。
 夕闇がゆっくりと降り始めていた。少し冷たくなった夜風が、庭の木々を揺らし、ざわざわと音を立てる。
「なんていうか、ほんと、不思議な感情なんだけどさ。あのとき、俺は強烈に、お前の父親になりたいって思ったんだ。まだ高校生だったのに、だぜ?」
 少し照れながら、陸は話を続ける。
「別に、1人で子供を育てて行かなきゃならない千秋に同情してとか、そういうんじゃない。あいつの人生に、本気で関わりたかった。何を犠牲にしてでもあいつと生きて行きたいって、身体が痺れるほど思った。そういう気持に気づかせてくれたのは、悠、お前だったんだって、俺は今でも思ってる。いい機会だから言っとくけど……」
 悠は一瞬、言葉を失った。なんだかとても大きなことを、今、言われたような気がして。
 自分の存在が、そんな形できちんと陸の人生に関わっていたなんて、思いもよらないことだった。正直、考えたことがある。自分とこの人を結び付けているものは一体なんなんだろうって。
 だけど、きちんと結び付いていたのだ。運命という何よりも強い絆で。何かが胸をいっぱいに満たしてゆくのを悠は感じた。もしかしてこれ、感動ってやつ? 困る……と思う。親子の間で、この感情はちょっと恥ずかしすぎる。どう言葉を返してよいかわからず、悠はコップに半分ほど残ったぬるい麦茶を飲み干した。
 悠の気持がわかったのだろう。陸は笑って言った。
「……とか、言われても困るよな。お前その時、まだ、豆粒ぐらいの大きさだったんだもんな」
「そ……そうだよ。小さいにもほどがあるよ」
 悠はほっとして答える。だけど、わかっていた。今生まれた感動は、きっと一生消えない。きっとそれは、陸にもわかっていたに違いない。

「どうしたんだよ。2人ともめずらしく真面目な顔して話し込んでんじゃん」
 不意に背後から声が聞え、悠は振り返る。
「あ、翔一くん」
 天馬の父親の翔一だった。
 沙希の再婚相手である翔一は、陸よりいくつか歳上なのだけれど、とてもそうは見えない。背丈はとっくに義理の息子である天馬に越されているし、顔立ちも華奢で、いくつになってもどこか少年のようだ。
 だけど沙希に言わせれば「本当は、一番男気があるのは翔一」。もっともそれは単なる彼女の惚気ではなく、悠を含めた誰もがそう思うところに違いない。職業は市役所の職員。沙希と出会った福祉課から、今は労政課に異動になり、相変わらず市民のためにスーパーマンのごとくバリバリと働き続けている。
「なんだよ、翔一さん」
 陸がわざと迷惑そうな顔を作ってみせる。
「せっかく悠が俺と千秋が出会った頃のこと聞いてくれて、俺、めちゃめちゃ感動してんのに、のんきな顔して入ってくんじゃねえよ」
「げっ、マジかよ」
 翔一も負けじと大げさに顔をしかめてみせた。
「知らねーぞ、悠。陸にそんな話振っちまったら、たっぷり2時間は惚気聞かされることになるんだからな」
 陸は「2時間じゃ足りねーよ」と不敵に笑い、悠を青ざめさせる。この2人はいつもこんな感じだ。
 奥の部屋では、子供の騒ぐ声が聞こえ、家の中がにわかににぎやかになった。翔一に連れられて帰って来た悠の弟、大河と、天馬の弟、翼が、一緒に遊び始めたのだろう。
 大河は小1、翼は小2。共に同じ小学校の放課後教室(といっても今は夏休みだから、1日中なのだけれど)に通う2人は、大沢家と西原家が交代で面倒を見ている。だから2人は兄弟のようなものだ。
 そう、昔の天馬と悠のように。男の子同士というのは何だかいいなあと、悠は2人を見ていると、時々うらやましくなる。
 あの2人がいるってことは、天馬も一緒に来ているのかも知れない。そう思うと少し胸がざわついたが、今はもう少し陸の話が聞きたい。悠は陸に続きを促した。
「でも、それからすぐに告白してハッピーエンド、ってわけには行かなかったんでしょう?」
 そうなっていたら、母は沙希と暮らすことにはならなかったはずだ。陸は長い間、アメリカに行っていたと聞いたことがある。でも、どうしてそんなことになってしまったんだろう。
 翔一も興味深げな顔で悠の隣に座り、陸の答えを待っていた。
「ふられたんだよ。俺じゃ、だめだってね」
 陸は小さく笑い、さらりと答えた。
「そりゃ、そうだよな。俺はまだ高校生で、本当に何もなかった。将来自分がどうやって生きて行くかすら、見えてなかったんだ。そんな頼んねえガキ、誰だって自分の子供の父親になんてしたくねえよ。要するに、ぜんぜん役不足だったってわけだ」
 そう笑って話す陸の横顔に、ほんの少し、悔しげな影が差していることに気づき、悠は驚く。彼のそんな顔を見るのは初めてだった。
「でも、あきらめなかったんだね」
 そうたずねると、陸はうなずく。
「あきらめられるわけねーだろ? そりゃもう、必死で考えたさ。どうすれば大人になれる? どうすれば千秋に相応しい男になれるだろうってね。考えて、考えて、悟ったんだ。結局、千秋に追いつくには、自分の本当にやりたいことを、死に物狂いでやるしかないって。そのことで、一度は千秋から離れなきゃならないことはわかってたけど、そうするしかなかった」
「それで、アメリカへ?」
「そう。写真とジャーナリズムの勉強に4年半。とんでもねえ遠回りだろ? 我ながら、よくやったと思うよ」
 陸は苦笑して言った。彼がどれほどの迷いと苦しみの中で4年半を過ごしたか、悠にも想像できる気がした。でも、だからこそ、今の彼がいるのだ。自信にあふれ、揺るぎのない人生を生きる、今の父が。
 それから後のことは、悠も知ってる。千秋は職場の同僚で学生時代からの親友でもあった沙希と協力し合って子供を育てるために一緒に暮らし始め、悠が生まれた。そして数年後、沙希が再婚し、2人で暮らしていた悠と千秋の元に、陸は帰って来たのだ。
 彼と初めて会った時のことを、まだ悠は5歳だったけれど、よく覚えていた。力強い瞳で笑いかけられ、思わず負けじと強い視線を返してしまったこと。目が合ったとたん、何か気持が通じ合うような、不思議な気持になったこと。それはきっとこの人が長い間、自分の父親になりたいと強く願い続けていてくれたからなのだろう。今ならわかる気がする。
 すっかり日が落ち、外は暗くなっていた。陸が新しい蚊取り線香に火をつけ、ふっと吹き消す。小さな炎に照らされ、一瞬だけ浮かび上がった横顔は、なんだか少し照れているように見えた。その横顔を悠は初めて、ほんのちょっぴりだけど、格好いいと思ってしまった。 
「まあ、一言で言えば、愛こそはすべて……ってことだよな」
 ふと、翔一が穏やかに笑って言った。普通に聞けば笑ってしまうような言葉だけれど、甘い顔立ちの彼が口にすると、不思議と説得力が生まれる。
「お前が今、カメラで食ってけるのも、悠の父親やってけるのも、ぜんぶ千秋さんを好きになったおかげだ。そういう相手に出会えて、俺たちは幸せだってことだな」
「翔一さん、何、勝手にきれいにまとめてんだよ。しかも『俺たち』とか言ってさりげなく自分も一緒にしてるし」
「当り前だ。幸せ者は自分だけだと思うなよ」
 2人はいつもの調子で大人げのない言い合いを始め、現実に引き戻されて悠は思わず深いため息をつく。ここから先、際限のない惚気合戦が始まることは、経験上わかっていた。しまった、と思う。こうした話は、翔一が来ればよけいに長くなることを忘れていた。
 奥からはお腹が空いたという弟たちの声が聞こえる。この人たちは放っておいて、とりあえず食事を出そうと悠は立ち上がった。

 キッチンには天馬がいた。流し台にもたれて立ち、ペットボトルを片手に、続きの和室で遊ぶ子供たちを見守っている。大人びたジャージ姿は、まるで体育の先生みたいだった。
 改めて間近に見ると、やっぱり素敵だなぁと思う。すっと背筋の伸びた立ち姿、清潔な感じのする首すじ。短い黒髪の似合う、すっきりと整った横顔にはどこか茫洋とした表情が浮かんでいるけれど、その瞳は誰よりも深く多くのことを見通している。
 だけどその本当の胸の内は、誰も知ることができないのだ。誰よりも近く、そして遠い幼馴染み。どうしてこんなややこしい相手を好きになってしまったのだろうと、今さらのように思う。
 天馬は悠に気づき、小さく笑みを浮かべた。そして「お前も飲む?」と手にしたミネラルウォーターのボトルを差し出してくる。
「ありがと」
 礼を言って受け取ると、かすかに手が触れ合った。飲みかけのボトルにためらいもなく口をつける。こんなことはなんでもない。昔から、何度となく、繰り返されてきたことだ。
 かつて転んで泣きそうになるたび、差し出された手の暖かさを悠は思い出していた。その手を握り返すと、あっという間に涙は止まった。そうして助け起こされるたび、強さを、勇気を、分けてもらえるような気がしていた。
 運命というものが、人と人とを結びつけるものならば、私たちは一体、どんな運命で繋がっているんだろう。それは、私が望んでいる形のものなの? いつか対等の立場で、この人と手を握り合える時は来るんだろうか。
 切なさが、ひたひたと胸に押し寄せる。
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