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薄暗い通路を抜けて、競技場の観客席に出たとたん、きつい真夏の日射しが照り付けてきた。 目の前に広がる鮮やかな赤とグリーンのトラック&フィールドも、陽炎にゆらゆらと揺れるような陽気。今日は、とりわけ暑い1日になりそうだ。大沢悠は思わず目を細め、あわてて帽子をかぶりなおす。 「信じらんない。まだ午前中なのに、何? この暑さ」 「うわー、椅子むっちゃ熱くなってる。やけどしそう」 悠の後からぞろぞろと出てきた女の子たちは口々に文句を言いながら、それでもどこかうきうきした様子で、1番前の座席に横一列になって落ち着いた。 「あ、100mのトラックが真ん前だよ。ここならすっごくよく見えるね、西原先輩が走るとこ」 誰かがはしゃいだ声で言う。逆に近すぎて見えにくいのではと思ったのだけれど、悠は黙っていた。後ろを振り向くと、客席の半分以上がすでに埋まっていて、ゆるやかな熱気が座席の傾斜を下って、どっと押し寄せてくるような気がする。 今日は高校陸上選手権県大会。全国に行くにはまだ、地方大会というワンクッションがあるけれど、地区予選を勝ち抜いてきた高校生たちが集まる、それなりに大きな大会だ。もっとも天馬にとっては、これも絶対に通り抜けなければならない通過点に過ぎないのだろうけれど。 悠たちの通う学園の高等部2年生の西原天馬は、昨年、100m走で地方大会に出場し、惜しいところで全国を逃した。それでも1年生にして部の歴史始まって以来の快挙。今年の注目度と期待度は相当なものだ。彼とは何の関わりもない中等部の女の子達が、こぞって見に行きたいと言い出すほどに。 今日は100m走と400mリレーの予選、そしておそらくは両方の決勝に出場する。つまりは彼の走る姿を今日は、たっぷり見られるのだ。ああ、やっぱり来てよかった、なんてことを悠が思っていると、 「でもびっくり。悠って、すっごい西原先輩のファンだったのよね。ぜんぜん、そんな風には見えないのに」 と、隣の女の子が話しかけてきた。 「え?」 「だって、今日の応援ツアー、悠の企画だったんでしょ? さすが委員長。もうファンクラブ会長って感じじゃない」 誤解も甚だしい。悠はあわてて首をぶんぶんと横にふる。 「違うの、私は天馬のお母さんに、応援に行って欲しいって頼まれただけで……」 「西原先輩の、お母さんに?」 いぶかしげな顔をする彼女に、反対側の隣りにいた悠の初等部時代からの親友、果歩が代わって説明してくれた。 「悠と西原先輩って、幼なじみなんだよ。お母さん同士が親友で、兄妹みたいに育ったのよね。小さい頃は一緒に住んでたんでしょ?」 果歩の言葉を聞いて、その事実を知らなかった女の子たちがいっせいに色めき立つ。 「うそ、あの西原先輩と一緒に住んでたの?」 「悠ってば、そんなこと、どうしてずっと黙ってたのよ」 いや、一緒に住んでたと言っても、ぜんぜん覚えてないほど小さい頃のことだから……としどろもどろに言い訳しながら、悠は胸の中でため息をつく。 こういうリアクションになるから、ずっと黙ってたんじゃないの……。 元はと言えば今日も、悠は果歩だけを誘って2人で行くつもりだったのだ。天馬の母親、沙希から「その日はどうしても仕事を休めないの。悠、あんたが行って、しっかりあの子を応援してきてやって」と頼まれた時は、まさかこんな騒ぎになるとは思ってなかった。 なのに、果歩がうっかり口をすべらせたばかりに、「私も行く」「私も連れてって」と、他のクラスの女の子たちまでが騒ぎ始め、結局、総勢10名の「西原先輩応援ツアー」が組まれることになってしまったのだ。中等部ではさすがにそれほど名前は知られていないだろうと思っていたのに、しっかり、隠れファンがいたらしい。 あの幼なじみは、いつの間にこんな人気者になっちゃってたんだろう。おかげで、自分が彼の幼なじみだってこともそうそう気軽に言えなくなってしまったし、その走る姿を気兼ねなく見守ることもできなくなってしまった。まったく、窮屈で仕方がない。 「あ、西原先輩が出てきた」 端に座っていた女の子の声に、みんな、いっせいに視線をめぐらせた。トラックの脇、おそろいのチームジャージを来た数人の中に、一際目立つ長身が見える。 「あぁー、やっぱ素敵……」 女の子たちの間に、小さなため息が上がる。悠も軽い胸の高鳴りと共に、ウォーミングアップを始めた天馬の姿を見守った。 青いチームジャージに包まれた背の高い身体は、スプリンターらしくしなやかで、こんな風にゆっくり走っているだけでも人目を引く。短い黒髪にきりりと端整な顔立ち、独特の大人びたたたずまいが、彼を特別な男の子に見せている。 悔しいけれど、本当に格好いい。そして、本当に遠い。 悠が人知れずため息をついた時、会場に小さなざわめきが走る。電光掲示板が100m予選開始の時刻を告げていた。スタートは30分後。いよいよ、始まるのだ。 ふとトラックに視線を戻すと、天馬の姿は消えていた。その一画だけ光が褪せてしまったように悠には感じられた。ちょっぴり、がっかりしてしまう。 そう、結局のところ、悠も天馬を見ているのが好きなのだ。幼い頃からすぐ近くで飽きるほど見てきた姿であるにもかかわらず。とりわけ彼の走る姿を見るのが好きだ。もっとも、それは悠ならずとも誰もが思うことに違いないだろうけれど。 その名のごとく、天馬はまるで空を飛ぶように100mを一瞬で駆け抜ける。ただ速いだけでなく、陸上のことをあまり知らない悠が見惚れてしまうほど、そのフォームは美しかった。 ライバル達をぶっちぎって彼がゴールラインを駆け抜けた後、一瞬の夢を見たかのような、名残惜しい気持がいつも悠の胸に残される。 あれほどの走りを見せるためには、途方もない集中力を必要とするに違いなくて……。試合の時間が刻一刻と近づいてくるに従って、悠の心臓もまた、自分のことのようにドキドキし始める。 今頃どうしてるのかな。大好きなコブクロの『DOOR』を聴いて気持ちを研ぎ澄ませているか、身体をほぐすために軽くストレッチをしているか、あるいは独りでじっと精神を集中させているのかも知れない。何にしても今は、これからのレースのことで頭がいっぱいのはずだ。 がんばれ!! 天馬……。心の中でそうつぶやいて、ぎゅっとこぶしを握りしめたとき……。 「悠――」 聞き覚えのあり過ぎる声が背後から聞こえ、悠は驚いて振り返った。 「て……天馬――」 レース前の、極限の緊張状態にあるはずのその人が、そこにいた。 「よかった。客席になんかお前みたいなのが見えたから、あわてて走ってきたんだ」 「走ってきた、って……」 そんなことに、体力使っちゃっていいの? っていうより、どうして天馬がここに……? 面食らう悠の前で、天馬は軽く右手を掲げてみせた。その手にあるのは、あろうことか、赤いチェックの布に包まれたお弁当箱。まさかこれは……。 端整な造りの顔に、屈託のない笑みを浮かべて天馬は口を開く。 「お前、弁当持ってくの忘れただろ? 陸が猛スピードでお前を追っかけてるとこに出くわしたから、代わりに持ってきてやったぞ」 そ……そうだ。競技場の周りにはお昼を食べる適当な場所がないと聞いて、悠はお弁当を作ってもらっていたのだった。それを、間抜けなことに持って出るのを忘れてしまっていたらしい。しかも、仕事の忙しい父が、追いかけてくれてたなんて……。 悠はいたたまれない気持になったが、「ほれ」と包みを差し出す天馬ののん気な表情を見て、さらにあわててしまう。 「レ……レースはどうしたのよ。今ごろこんなところにいて、大丈夫なの?」 「ああ……もうじきだけど?」 こともなげに天馬は答えた。なぜ悠がそんなにあわてるのか、わからないという顔をしている。 「失格になっちゃったらどうするのよ。何も今来なくても。こんなの、後でもよかったのに……」 「でも、このレースが終ったら昼飯の時間だし、後にしたら忘れちまいそうだしな……あ、コーチが呼んでる。そろそろ戻るわ」 トラックの脇であわてたように両手を大きく振っている人影に、天馬はゆっくりと手を振り返した。 「そうだ、俺、今日の夜お前んちに行くわ。母さんも千秋さんも今日は残業だから、久しぶりに陸がご馳走してくれるってさ。うちの父さんも翼連れて、行くって言ってるから、よろしくな」 そう言い置いて軽やかに客席の階段を駆け上って行く後ろ姿を呆然と見つめる悠の背後で、「きゃ――!!」ともの凄い嬌声が響く。 「すごい!! 西原先輩ってば、レースよりも悠が最優先なんだ」 「信じられない。悠、あんた、どれだけ大事にされてるのよ」 何ごとかと足を止め訝しげに振り返る天馬に、悠はあわてて「なんでもない」と手を振ってみせる。 そして、その大きな背中が消えるのを見届けた後、冷や汗の出る思いで、口々に騒ぎ立てる女友達たちに向き直った。 「もう……そんなに大騒ぎしないでよ」 「だって、ねえ」 こうした騒ぎにはすっかり慣れてしまっている果歩が、笑って言った。 「なんだかんだで、西原先輩って、いつも悠の世話焼いてるんだもの」 「え? そうなの」 驚く女の子たちに、悠のことを昔から知っている友人たちが同調する。 「そうそう、この間あんたが自転車の鍵落としたときも、見つけてくれたの西原先輩よね」 「生活指導の先生に絡まれたときも、さりげなく助けてもらってたし……」 「あんたにしつこく言い寄ってた高等部の男に話つけてくれたこともあったし……」 家族の間では「親よりもしっかりしたムスメ」で通っているのに……そう言い立てられると、我が身に起きたトラブルの多さを改めて自覚し、悠はなんだか情けなくなってしまう。 「ねえ、あんたと西原先輩って、本当に単なる幼馴染なの?」 改めてそう聞かれ、悠は「決まってるじゃない」と、迷うことなく答える。迷うことなく答えられる自分が、ちょっぴり、痛かった。 みんなと別れて、果歩と2人、電車に乗る。空いた座席に並んで座ると、思わず、ふうーっと、深い深いため息が出た。きつい陽射しを浴び続けた頬が、いまだに熱を持っている。今夜はきちんとケアしないと大変なことになるに違いない。 もっとも、この熱は、何か他のもののような気もしているのだけれど。 「格好良かったね。西原先輩」 果歩が言った。「うん」と悠は短く答える。 天馬の走る姿が、頭から離れない。あの100m予選、試合直前に戻ってコーチにこっぴどく怒られていたにも関わらず、何事もなかったように見事な走りを見せ、余裕の1位で決勝に進出した。その後はもう、ぶっちぎり。どのレースも惚れ惚れするようないつもの走りで会場をわかせ、きっちりと結果を出した。 結局のところ、試合直前に悠のところに来るぐらい、天馬にはどうってことなかったのだ。大抵のことは、彼にとってはどうってことない。わかってはいたことなのだけれど……。 また、天馬の背中が遠くなる。走っても、走っても、追いつけない。彼と一緒に走る人たちは、きっとこんな気持なんだろうな。悠は、同じ気持を小さい頃からずっとずっと味わい続けてきた。 いつかその背中は追いかけられないほど遠くなり、そして消えてしまうだろう。どうせなら、早くそうしてくれればいい、とも思う。今日みたいに中途半端に振り返って待ったりせずに……。 「でも悠、今が夏休みでよかったね。そうじゃなきゃ、今日のこと、きっとすごい噂になってたよ」 不意に果歩が可笑しそうに笑って、そんなことを言い出す。 悠は苦笑した。笑うしかない。 「ぜんぜん、みんなが大騒ぎするようなことじゃないんだけどな」 みんな、見なかったのだろうか。自分に弁当箱を差し出した天馬の、あの事も無げな、淡々とした表情を。 天馬が自分のことを何くれとなく気にかけ、世話を焼くのは、決して皆が言うような愛情からじゃない。言ってみれば、習慣。幼い頃からずっと続けてきたことを、彼は今も続けているに過ぎないのだ。 悠は、未熟児として小さく小さく生まれた子供だった。人生最初の数日間は保育器の中で過ごしたし、その後もなかなか育たず、たびたび熱も出して、母親の千秋や、当時千秋と一緒に暮らしていて親同然の存在だった沙希を、ものすごく心配させた。 だけど千秋にも沙希にも仕事があり、生活があった。互いに離婚したばかりで、誰にも頼らず日々の暮らしを立てていかねばならなかった二人は、ずっと悠のそばにいたくてもそれがかなわない状況にいたのだ。 だからなのだろう。沙希は自分の息子の天馬に、いつも言い聞かせていたという。 あんたが悠を守ってあげなさい。いつもきちんとあの子を見ていて、何かあったらすぐに助けてあげるのよ……と――。 悠よりもたった2つ年長に過ぎない子供だった天馬だけれど、何かといえば熱を出してぐずぐずと泣く、弱々しく小さな生き物は、子供心にも守ってやらなければならない存在として感じられたのだろう。彼は母親の言い付けを忠実に守った。 保育園ではたびたび自分のクラスを抜け出して悠の様子を見に行く天馬の姿が見られたらしい。少しでも悠がの機嫌が悪いと、そばを離れようとしないので、保育士たちがなだめすかして彼を教室に帰した……というのは、今でも家族の間で繰り返し語られ、本人を憮然とさせる笑い話だ。 3歳になる頃には、悠も人並み以上にに丈夫で元気な子供に育っていたのだけれど、その後も天馬の過保護は続いた。大人たちはとっくに悠を必要以上に心配することはやめていたのに、彼の無意識に刷り込まれた習慣はそう簡単に消えなかったらしい。本来器用でそつのない性格のくせに、妙なところで融通がきかないのだ。 小学校の行き帰りもいつも一緒。転んだら、泣き出す暇もなくすぐに助け起こされたし、誰かにいじめられそうになると(悠としては対等にケンカしているつもりだったのだが)、直ちにその背にかばわれた。公園でも、学校でも、自分の目の届くところにいる限り、彼はいつもさりげなく悠を見守り、何かあるとさっと手を差し出してくれた。 そうしたことを彼はいつも、使命感に燃えて、というのでもなく、だからといって嫌々というわけでもなく、ただ何かのついでといった風に、淡々とやってのける。実際、子供の頃からどんなことでも難なくこなせた彼にとって、自分のことのついでに悠の面倒を見るぐらい、本当にどうってことはないらしいのだ。 だけどその無造作で事も無げな様が、成長するにつれ、悠のプライドをいたく傷つけるようになる。 いつの頃からだろう。彼女が、この2つしか歳の変わらない幼なじみに子供扱いされまいと、じたばたするようになったのは。 少なくとも保育園の頃には、忙しい沙希や千秋からすっかり頼りにされるようになっていたし、小学校の時には「お前、チャック開けたら中に大人が入ってんじゃねえか?」などと、たびたび冗談でもなく父に言われていた。中3になった今、自慢じゃないけれど成績は常にトップクラスだし、悠といえば家族でも、友人たちの間でもしっかり者で通っている。何もかも、天馬に追いつきたい、妹みたいに守られるだけの存在にはなりたくないと、頑張ってきた結果だった。 なのにどうして、肝心の天馬の目にだけは、そう映らないのだろう。そして自分も、どうして彼の前だけでは子供の頃のように頼りなくなってしまうのだろう。実際、果歩たちが騒いでいたように、親も気づかない悠の窮地をいち早く察知し、救ってくれるのは、いつも彼だった。めったにやらないヘマをやった時に限って、なぜだか見つかってしまう。 それだけあの幼なじみはいつもきちんと悠を見守ってくれている、ということでもあるのだけれど。 だけどそんなことは、私の望んでることじゃない、と悠は思う。私は、天馬ときちんと肩を並べて歩きたいのだ。一人前の、対等の人間として認めて欲しい。そして自分だって、なんでもいいから彼の力になりたい。 「じゃあね、また遊ぼうよ。連絡する」 果歩はそう言って、悠とは反対側の駅の階段を、手を振りながら駆け下りて行った。悠もまた駅を出て、西日のさし始めた商店街の道を、自分の家に向かって歩き出す。 そういえば今日は天馬がうちに来るんだったっけ。 どんな風におめでとうを言おうか、悠は思案する。それとも、この言葉は全国に出場するまで取って置いた方がいいのかな。 ちくしょー、やっぱりうれしいぞと思った。天馬の颯爽と走る姿を見られたことが、そして、彼が夢への一歩を踏み出すところを、きちんと見届けられたことが。 この気持を、世間の人はどんな名前で呼ぶか知ってる。だから余計に厄介だ……と、古びた我が家の門をギギッと開けながら、悠はため息をつく。 |
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