Just Lovers 8



 仕事…仕事はもちろん、大好きだった。唯をこの場所へ呼び寄せ、今のところここに引き止めているのはもちろん、天職と思えるこの仕事、保育士という仕事への思いに他ならない。いくら自分の時間を費やしても、ありったけの思いをかけても足りないというぐらい、その気持は強いものだったけれど…。
 だけど、それが強いものであるほど、長続きさせるのは難しいことを、寂しいことだけれど、今の唯は知っていた。
 この3年間、何人もの先輩たちがこの職場を辞めてゆくのを見送ってきた。適当な言い方ではないのかも知れないけれど、これは「恋」と同じようなものかも知れない、と思うことがある。子供たちひとりひとりに恋をしているような気持にならないと、やってゆけないこの仕事を、今と同じようなテンションで、この先ずっと続けるのは、多分、無理だ。身体がもたない、心ももたない。まして、結婚して自分自身の子供を育てながら続けられるような仕事では、到底、ない。
 細く長く続けてゆける職場があるように、しかるべき時期に自分の全てを賭けられる場所があってもいい。少なくとも唯は、背負うものがなにもない今の年齢で、この職場に出会えたことを幸せだとおもっている。たぶん、こうして全力を尽くせるのは「今だけ」だからなのだ。
 もちろん、いつか「その時」が来たとき、自分自身がどんな思いで、どんな風にここを去ることになるのか、今の彼女には想像がつかない…というよりも、今のところは、あまり考えたくないことなのだけれど。

「でも、なんだか想像がつかないな。この仕事をしていない唯先生というのは…」
 屈託のない口調で、篤矢が言った。今考えていたことを見透かされたような気がして、唯は一瞬、どきりとする。
「なんていうか、もったいないです。俺としては、結婚しても仕事自体は続けていって欲しいですが」
「さあ…どうでしょう」
 曖昧に彼女は答えた。
「のめり込みやすい性格なんで、両立は無理かと…。子育てが一段落したら、地元の保育園か幼稚園にでも雇ってもらえたらとは思いますけど…」
 そうすらすらと答えながら、唯は我ながらなんだか可笑しくなっていた。計画的にもほどがある。自分がここまではっきりと、自分自身の未来を思い描いていたなんて、こうして篤矢にあれこれと質問されるまで、気づかなかった。
 たぶん、恭平がいるからなのだ…唯は思う。実家の庭で、彼と雪を眺めていたとき、何年先も何十年先もふたりしてここに居ることが想像できるような、不思議な思いにとらわれたことを思い出した。恭平といると、容易に未来を想像することができる。多分それは、お互いがお互いの人生に、すっかり組み込まれた存在になってしまっているからなのだろう。
 それが良いことなのか、悪いことなのか…少なくとも唯はそれで良いと思っているし、恭平もおそらくそうだと思う。
 その気持は、例えば舞実が考えるような恋とは、かなり色合いが違うものであるとしても…。


 「あの日」以来、ずっと、小さな棘が胸のどこかに刺さったままでいる。
 その痛みの正体が、あろうことか「罪悪感」という感情であることに気づいたのは、あの夜、心配した恭平が彼女に電話をかけてきた時だった。
「どうしたんだよ。舞実のやつ、すっげえ、気にしてたぞ」
 あんたに言われる筋合いはない!!と突っぱねてもよかったはずなのに、できなかった。悪いのは自分だ、そんな気がしたから。
 この複雑な三角関係の中に、舞実を閉じ込めてしまったのは、結局のところ唯自身に他ならなかった。彼女が舞実のことを、恋敵ではなく、友達として扱い続けたりしなければ、あの女の子もそれほど深く自分達と関わることもなかっただろうし、拓との間が壊れることもなかっただろう。抑えきれない思いを再び募らせている舞実を見たとき、唯の胸を痛ませたのは、決して嫉妬心なんかじゃなくて、いたたまれないような罪悪感だったのだ。
 どうして、こんなことになってしまったんだろう。
 こんな風に、この女の子に辛い思いをさせるつもりなんて、なかったのに。

 舞実の思いと、自分の思い、どちらが強いものなのだろうと、あれから唯はたびたび考えずにはいられなかった。舞実が抱いているような熱さを、唯は自分の彼氏に対して持ち合わせてはいない。だからこそ「勝てない」と感じることも、これまで何度となくあったのだけれど…。
 だけどもし、恭平がいなくなったら、唯は自分の未来を見失い、途方に暮れてしまうことになるだろう。あの、何年も何十年も一緒にいられるだろうという安心感、故郷で過ごす穏やかな時間、そして家族の笑顔、あらゆるものを失い、自分の人生をまた初めから作り直さなくてはならなくなるのは、考えるだけでもきついことだった。
 舞実はといえばたぶん、「今の」恭平しか見ていない。たった今、振り向いて欲しいという切実な思いはあればこそ、彼といっしょにどんな未来を生きてゆくかなんて、想像もつかないことだろう。
 先のことを考える余裕なんてない、それが恋というものだ。自分の考えていることは打算だと言われれば、そうかも知れないと答える他はない。だけど唯は、「好き」という気持だけで結婚したふたりが、恋以外の問題で、その気持をお互いに駄目にしてゆく様を、そう長いとは言えないこれまでの人生の中でも、既に何度も目にしてきた。人生観、生活観の違い、経済的な問題、お互いの家族の問題。そういったものが恋を押しつぶすのは、案外、簡単なものだ。そんな錯覚にも似た思いに、どうして人は、自分の人生を託せるものなのだろう。
 舞実の気持は痛いほどわかる。だけど唯には唯の、譲れない事情がある。それに、この複雑な関係も、そう長くは続かないはずだった。遠く離れた故郷に帰れば、いくら舞実でも、それ以上思いを募らせることなどできない。その日が来るまでの間、あのふたりが友達として付き合い続けることを、誰も、おそらく舞実自身も、止めることはできない。
 結局のところ、どうにもならない。なるようにしかならないのだ。
 だけど、このことで自分が恭平を失うことなど、今さら、あり得ない。唯にとって一番辛いのはむしろ、舞実との友情が壊れかけていることなのかも知れなかった。

 そんな彼女の、複雑な気持や事情まで、もちろん篤矢は知るはずもない。
 なのに唯の言葉に対し、彼はひとこと「堅実ですね…」とつぶやいて、彼女を落ち着かない気持にさせる。
 そしてさらなる質問で、彼女を一瞬、どきりとさせた。

「何があっても、その予定は、変わりませんか?」

 突っ込んだ問いに、唯は思わずその真意を量りかねて再び顔を上げる。彼はてきぱきと忙しげにハサミを動かしていて、彼女の視線に気づきもしない。単なる話の流れに過ぎない質問であることを悟り、なんとなくほっとし、笑ってわざと断定的に答えた。
「絶対、変わりません」
「どちらかが他の誰かを好きになってしまったとか、よくあるじゃないですか。そういうことがあっても?」
「あり得ないですね」
 篤矢にしては通俗的な発想に、なんだか笑ってしまいそうになりながら、唯は答えを重ねる。

 だけどその言葉に、ことさらに強い思いを込めてしまったことに、唯は自分で気づいていた。他の誰かを好きになることを「あり得ない」と言っているんじゃない。これは、例えそんなことがあっても、そのために自分達が未来を変えることはあり得ない、という意味なんだってこと、篤矢は理解しただろうか。
 おそらく、理解したのだろう。目を上げてこちらを見た篤矢の瞳には、賞賛とも苦笑ともつかない色が浮かんでいた。
「負けました…。強いですね。先生は」
 そう言って、作業を終えた紙束をきちんと重ねて唯に手渡す。勝った…と一瞬わけもなく思った唯なのだけれど…。

「でも、まあ、人生何があるかわからないじゃないですか。万一計画が変わったら、いつでも戻ってきてくださいよ。俺はここに骨を埋めるつもりでいますから」
 冗談なのか、本気なのか、篤矢はにっと笑って言った。唯は返す言葉をなくす。

 骨を埋める…大げさな言葉だけれど、彼はおそらく本気なのだろうと思えた。この職場にずっと居るという意味ではないにしろ…。彼の目指す未来は、どこまでも真っ直ぐで、曇りがない。何にもとらわれず、ただ自分自身の志のためだけに、生きている。
 羨ましかった。どうしようもなく…。さっきまでの余裕が、一瞬にして崩れた。強いのは自分ではなく、この人の方なのかもしれない。胸の内に広がった痛いほどの羨望を持て余し、唯は、切なくなった。
Just Lovers 7へ
Just Lovers 9へ

Novel topへ
メールフォーム