Just Lovers 19



 それから後の、ほんの1ヶ月ばかりの間に起こったことを、唯は一生忘れられないような気がしてる。
 もちろん良いことばかりじゃなかった。痛みも少なくはなかった。
 だけどその痛みすら、彼女には愛しいものに思えたのだった。日々の中のあらゆるものを、あれほど愛しいと思えた時期は、後にも先にもない。そんな気がしている。


 あれからしばらくして、雨は小止みになった。耳元で響いていた雨の音が遠ざかり、我に返ったふたりは、少しばかりの気恥ずかしさと共に、間近に向かい合うことになったのだった。
 あの時の篤矢の顔を思い出せば、あろうことか唯はちょっぴり、可笑しくなってしまう。今起こったことが信じられない、自分のしてしまったことが、信じられない。そんな戸惑いがありありと表れた表情を隠しもせず、彼はただ呆然と彼女を見つめていたのだから。
 おかげで一瞬ではあるけれど、唯の心に僅かな余裕が生まれた。
「先生…?」
 そうたずねる声は、やはり、少し震えてはいたのだけれど。

 唯に呼ばれ、彼はようやく我に返った顔をした。「す…すみません…」とあわてて謝るその表情には、いつもの穏やかさが戻りつつあったのだけれど、訝しげに自分を見る唯の視線を受け止め、再びその顔が赤くなる。
「いえ…その」やはり半ば呆然とした様子のまま、篤矢は言葉をつないだ。
「今の言葉を…信じて良いのかと…」
「信じて下さい」
 答を返す唯の声に、思わず力がこもった。そう答えながらもふと、子供じみた不安にかられ、問い返す。
「真辺先生こそ…さっきの言葉は、冗談だったんですか?」
「まさか…冗談であんなことは言いません」
 少し慌てたような声で彼は答えた。
「ただ、彼のことは――。本当に良いのかと思って…」」
 そう問われて、わずかでも胸に痛みを感じなかったといえば嘘になる。だけど答はもう、はっきりと決まっていた。唯は篤矢の瞳を真っ直ぐに見て、言った。
「彼には私から、話します。どっちにしても言うつもりだったんです。好きな人ができたから、戻れない…と」
 篤矢の表情に、隠しようもなく感動の色が広がった。彼はしばらく、言葉もなく唯を見つめていたが、やがて、照れたように笑って言った。
「わかりました、信じます。こうなったら一生、俺は唯先生についていくつもりでいますから」
「一生…ですか――」
 久しぶりに聞くその言葉に、なんだか、泣きたいような、可笑しいような思いにとらわれながら、唯は問い返す。
「当然、そうでしょう」
 彼は答え、再び笑顔を見せた。まったく、泣きたいほどに懐かしい、力強い笑顔だった。



 「話がある」と電話で告げた唯に、恭平はただ短く「わかった」と答えた。少なくともその場では、彼女の胸の内を問うことはしなかった。
 既に彼の胸にはある程度覚悟が生まれていたのか、あるいはいつものように、物事を深く受け止めてはいないだけのことなのか…。
 不安を胸に、唯はひとり故郷へ向かった。どちらにしても、話さなくてはいけないのだ。恭平がその事実をどう受け止めようと、同じことなのだと、自分の胸に言い聞かせながら。


「だいたい、予想はついてたよ」
 唯の話を最後まで黙って聞いた恭平は、軽いため息と共にそう言った。
「けっこう長いこと、ほっとかれたような気がしてるから…。さすがにな」
 その半ば放心したような表情に、唯の胸が激しく痛む。
「恭平…ごめん」
 そう、繰り返すしかなかった。
「言っとくけど、全然、平気なわけじゃないんだぜ」
 わずかに語調を強くして、彼は言う。
「お前となら、ぜったいに何もかもが上手く行くと思ってた。正直、お前がいなくなったら、俺はどうしたらいいかわかんねえ。俺の人生台無しにしたそいつを、できることならぶん殴ってやりたい。でも…」
 彼の表情が、ふっと緩んだ。
「俺にはよくわかんねーけど…人を好きになるってのは、そういう、どうしようもないもんなんだろ? 俺は、そういう奴をひとり知ってる。そういう奴を、ずっと見てきたような気がしてるから。お前の気持は、悔しいけど、なんだかよくわかるんだ」
 それって、舞実のこと? そうたずねれば、少しは気が楽になれたのかもしれない。だけど唯にはできなかった。傷ついた表情を浮かべ、彼らしい不器用な正直さでそんなことを話す彼から、そんなことで、アドバンテージを取りたくはなかった。
 それに、こうなったのは決して、あの女の子のせいではないのだ。

「なあ、ひとつだけ頼みがあるんだけど」
 唯の実家の門の前、車から降りようとする彼女に、彼は言った。
 さすがに涙ぐみたくなるような寂しさを感じながら、唯は「なに?」と問い返す。
「これからも時々、お前んちに行っていいか? お前のばーちゃん、俺に会うの楽しみにしてくれてるみたいでさ。急に行かなくなると、寂しがると思うんだ」
 本格的に、泣き出しそうになるのを慌ててぐっとこらえながら、唯は「もちろん」と、答えた。
 どうにか笑顔を見せて、別れを告げる。だけどその時、彼女はいいようのない安堵と共に、確信したのかもしれなかった。
 恭平とはきっと、遠からず友達に戻れる。誰ひとりとして代わりのいない、生涯最高の友達に…。
 お前となら、上手く行くと思っていた…そう彼は言った。本人は気付いていただろうか、彼は決して「好きだった」とは言わなかったのだった。


 新幹線を降りてきた唯の片頬が、わずかに赤く腫れていることに敏感に気付き、篤矢はその笑顔を曇らせた。
「彼じゃありません。父です」
 聞かれる前にと唯はあわてて説明する。説明してしまってから、それが篤矢にとってはなお悪い事実であることに気付き、さらにあわてる。
「一発だけ…それもかなり手加減してくれたみたいです。やっぱり、父としてはどうしても腹に据えかねるものがあったみたいで」
 生まれて初めて親に殴られた。だけど実のところ、唯自身はそれほどショックでもなかったのだった。父の、親たちの気持を考えれば、仕方のないことだと思う。
 彼らにすれば、そう…。何年も娘の帰りを待ち続け、ようやく…と喜んでいた矢先のことだった。それも長年の付き合いである恭平を裏切って、他の男に走ったともなれば、父のような年代の人間にすれば、まったく仁義にもとることと激怒したくなるのも無理はない。彼が恭平をひどく気に入っていただけに、なおのこと。
 だけど唯には、何をどうすることもできない。ただ、淡々と事実を話し、あわてる母や祖母を後に、彼女は実家を出てきたのだった。
 もし、彼らが篤矢に会えば、そうした怒りや絶望すべてがあっという間に帳消しになるだろう。父は恭平以上に篤矢のことを気に入るに違いない。そう確信していたからこそ、唯は落ち着いていられたのかも知れなかったのだけれど。
 今はまだ、その時期ではない。

「そうですか……」
 篤矢は、そう短く答えたきり、それ以上多くを問うことはしなかった。だけどその痛ましげな表情から、彼がただ唯の痛みを自分自身のものとして受け止めてくれていることを感じ、彼女はそれまでの張りつめた気持がいっぺんに解けてゆくような心地がした。
 困った、なんだか子供のように泣き出してしまいそうになる。あわててうつむいたとたん…。
 驚いたことに、篤矢はこの雑踏の中、唯を抱き寄せ、強く抱きしめたのだった。
 大人びた彼が、人前でそんなことをするとは思いもしなかった。唯は驚きと共に、そのぬくもりをただ、黙って受け止める。
 それは、これまで彼女が感じてきたすべての痛みを、愛しいと思えた最初の瞬間…だったかも知れない。
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