Just Lovers 20 最終話



 「あ…」
 大きなガラス窓の向こうに白く舞い落ちるものを見つけ、唯はピアノを弾こうとしていた手を止めた。
 この冬最初の雪。教室の中で、思い思いに遊んでいた子供たちも、珍しげに窓のところへ集まり始める。
 この雪が、子供たちの記憶に残る生涯最初の雪になるのかもしれない。そう思うとなんだかうれしくなって、唯は立ち上がった。外に出ようと声をかけると、皆それぞれ大慌てで上着の置いてあるロッカーに突進し、教室の中は大騒ぎになる。
 4月には、ただ泣いてばかりの赤ちゃんだった子供たちも、頼もしいもので、今では自分の身の回りのことぐらい難なくこなせるようになった。だけど裏返った袖に往生したり、同じデザインのジャージの上着を引っ張り合ってケンカになったり、皆そろって外に出られるようになるまでひと騒動であることには変わりない。
 雪が止んでしまう前にと、唯は大慌てで子供たちの間を飛び回り、準備を手伝う。気が付けば、彼らといる時間もそう残されていないことを思うと、やはりこの大騒ぎも愛しいと思えてきてしまう彼女なのだけれど。

 風邪気味の子供たちをふたりの後輩に任せて、外に飛び出そうとしたら、屈託のない笑顔と共にこんなことを言われた。
「先輩、なんだか最近、張り切ってますね」
「そ、そうかな…」 我知らず顔が赤くなる。


 不思議なものだと思う。恭平と離れ、安定した未来を手離して以来、彼女はむしろ、自分自身の人生をその手に取り戻したような気がしている。もちろん、その未来が決して楽なものではないことは、わかっているのだけれど。
 だけど、篤矢と共に在る人生を選んだ時点で、彼女の心にははっきりと決意が生まれていたのかも知れなかった。どんなに大変でもいい。辛い思いを何度重ねることになってもいい。大好きなこの仕事を、ともかく、出来うるかぎりどこまでも続けて行こうと…。
 そう決めてしまうと、不思議なほど心は軽くなった。思い迷う気持は、跡形もなく消えた。張り切っている…確かにそうかも知れない。もう、後何年ここにいられるだろうなどと案じなくてもいい。そのことが思いがけずうれしかった。どんな形になるにせよ、自分が子供たちと関わることをやめられるはずもないことを、今でははっきりとわかっていたから。
 近い将来、篤矢が独立して幼児向けの体操教室を開く話が、園長との間で本格的に進み始めていることを、彼自身の口から唯が聞いたのは、そんな折のこと。「プロポーズには早過ぎるんだけれど」と少し照れながら、できることならその夢を、唯とふたりで育てて行きたいと、篤矢は彼女に告げたんだった。
 そのときかもしれない、彼女の目の前に、思いもかけなかった未来が鮮やかに広がったのは。
 この人の持つ志を、自分自身のものとして、どこまでも真っ直ぐ歩いて行こう。それはまた、心のどこかでずっと、彼女が願い続けていたことなのかも知れなかった。
 こんなに近くにいられるようになった今でも篤矢は、唯が尊敬してやまない、どこまでも追いかけて行きたい相手であることに変わりはなかったから。

 もうすぐ、体操の授業が始まるらしい。花びらのように舞い散る雪の中、歓声を上げて飛び出してくる年長組の子供たちに呼ばれ、篤矢が園庭に姿を見せた。
 すっと伸びた背筋、寒さを全く感じさせない立ち姿。思いがけずその胸に在るものを知り、恋人どうしになった今でも、こうして少し離れて見るその姿は、ひどく眩しい。
 どんなに気を付けていても、こうして真っ先に視線は吸い寄せられてしまうのだけれど、それは相手も同じであるらしかった。すぐに唯の姿を認めたその瞳が、こちらが焦ってしまうほど無防備に輝く。彼は素早く唯に笑顔を送り、子供たちを追いかけて、駆け出して行った。
 降りしきる雪に、残像が残る。胸の中があたたかくなる。その瞬間、唯は完全に寒さを忘れた。


 運動会の夜、篤矢に唯を送らせたのは、何かが起こるだろうと予想しての確信犯的な行動だったのだと、聡恵が唯に打ち明けたのは、12月も半ばを過ぎた頃のことだった。
「聡恵ってば、何か知ってたの?」
 唯は驚いて訊ねる。あの翌日、実は付き合うことになったと電話で告げた時の、この同僚の大げさな驚きぶりを思い出し、半ば呆れながら。
「今ならもう、時効でしょ」
 聡恵は悪びれず答え、「事の真相」を教えてくれた。彼女が恭平の転勤のことを口にしたあの日以来、篤矢は、元気のない唯を心配して、何度となく聡恵に唯のことを訊ねていたのだそうだ。
 その様子はといえば、いつもさりげなさを装いながらも、隠し切れないひたむきさがありありと滲み出ているといった感じだったので、しまいに彼女は、恋愛相談を受けているような気持になってしまったという。
 もちろん彼が、自分の気持を口に出すことは絶対になかったそうなのだけれど。
「でも、彼があんたにベタ惚れなのは、顔見てりゃすぐにわかったわよ。あんたはあんたで、真辺先生のこととなると泣き出してしまうほどの取り乱しようだし…。まあ、私としては人肌脱ぐしかないって、思ったわけよ」
 聡恵は笑って言った。
「感謝しなさいよね。あれからあの子のことなだめるの、本当に大変だったんだから」
 そう言われて、唯はあの運動会の夜のことを思い出した。唯が帰ると言ったとたん、迷いもなく立ち上がって篤矢のところへ行った聡恵のこと、そしてその隣で不満げな表情を隠しもしなかったあの後輩のことを。
 なんだか聡恵には、頭が上がらない。そんな気持になる。
「あの子、今年度いっぱいで辞めるらしいわよ」
 だけど聡恵は屈託のない調子で話を変え、言った。唯は驚いて彼女を見る。
「うそ、どうして?」
「別に、珍しくもない話じゃないの。結局、彼女には合わなかったってことよ。もっと自分に合った職場を探す、って。まあ、あの子にはそれで良かったのかもね」
 彼女は彼女なりに、いろいろと悩みもし、考えてもいたのだ。そう考えるとわずかに胸が痛む。だけど、本当に利己的なことなのだけれど、そんな痛みよりも何よりも、大きな安堵に思わず肩の力が抜ける心地がすることに、唯は自分でも驚いていた。
 今だって、共に仕事をするふたりを見るたび、泡立つ胸の内をなだめるのに苦労する。篤矢を好きだという気持を隠そうとしない女の子の存在を、今ではどうしても認めることができないのだった。間にいるのが篤矢である以上、もう、何があっても他の誰かと彼を共有する気持になんてなれない。篤矢と恭平は、それほどまでに違う存在なのだと今さらのように気付き、唯は何だか恐ろしいような気持にもなる。
 もう、大人の顔をしてすべてを達観することなんて、出来なくなってしまったのだ、篤矢に関する限り…。 彼は、女の子が放っておくような男の人じゃない。これからは、きりきりと胸を噛む痛みや、自分の中の我儘や醜さと向き合ういたたまれなさを、何度となくやり過ごさねばならないのだろう。そんな強さが、自分にはあるのだろうか。そう…あの女の子のように。
 
 だけど、今となっては思えてくるのだ。相手が舞実だったからこそなのかも知れない。恭平との間にあった様々なことを、さして気に病まずにいられたのは。
 舞実に関しては、今ではあまり心配はしていなかった。彼女がこのまま、自分や恭平の前からいなくなってしまうことなんて、ありえない、なぜだかそんな気がしていたから。
 そろそろ何か連絡があるかも知れない。そう思い始めた矢先、本当に電話がかかってきた。


「恭平から聞いた。どうしてなの? 唯さん」
 言葉を交わすのは本当に久しぶりだというのに、挨拶もそこそこに、戸惑いの隠せない調子で舞実は問いを投げかけてきた。その声を聞いて、あろうことか、唯はまたしてもなんだか申し訳ない気持になってしまう。
 まったく、何があってもこの子には勝てない。宿命みたいなものだわ…苦笑したい気持を抑え、唯は言葉を返した。
「たぶん、聞いた通りだと思う――恭平と、話したの?」
 舞実とは転勤以来ずっと音信不通になっているという恭平の言葉をふと思い出し、唯は訊ねた。
「カノジョと別れたっていう噂が大学の仲間うちで流れてて、嘘でしょ?って思って、電話したの。まさか本当だとは思わなかった。恭平ってば、電話でもはっきりわかるぐらい腑抜けてたよ。唯さんに好きな人が出来たって、どうやらめちゃくちゃ好きな相手らしいって…」
「恭平、そんなこと言ってたの?」
 唯は思わず問いをはさんだ。驚かずにはいられなかった。「めちゃくちゃ好きな相手」だなんて、彼女自身はそんなこと一言も言わなかったし、そうと悟られるような言葉も口にしなかったはずだ。もちろん、事実はそうに違いないにしても。
「すっごく思いつめたような顔してて、その顔見てたらわかったって。あんな唯さん見るの、初めてだったって言ってた」
「そう…」
 短く相槌を打ちながら、我知らず頬が熱くなるのを感じる。舞実のさらなる言葉が、唯の動揺に追い討ちをかけた。
「それでも私、信じられなかったの。唯さんが恭平と別れることなんて、絶対にないって思ってたから。でも、今唯さんの声を聞いてわかった。恭平の言ったこと、本当だったんだわ」
「声を、聞いて…?」
 唯は思わず絶句する。
「なんて言ったらいいか、わかんないけど、なんだか唯さんの声じゃないみたいなんだもの。本当に、すごく好きな人ができたんだな、って…」
 参ったなぁ…唯は内心深くため息をつく。私ってば、「篤矢が好き」っていう印を全身にくっつけて歩いているようなものなんだろうか。篤矢とのことは、職場では聡恵以外の誰も知らないトップ・シークレットだというのに。この調子では、ばれる日も遠からず来るに違いない。
 それにしても、気まずい状態のまま1年近くも話をしていなかったというのに、舞実は意外なほど饒舌だった。だけど彼女にしても、何を言って良いのかわからないまま話し続けていることが、唯にはわかった。
 その証拠に、ほどなく静けさが訪れる。
 何かを言わなくてはならない。話すべきことならたくさんあるような気がするのに、言葉にしようとすると、すべてが適当でないように思えた。ただ唯一リアルに思えたのは、「ごめん…」という言葉。これまでのこと全てを、そして自ら降りてしまったことを、舞実のこれまでの葛藤や思いすべてを無にしてしまったことを、唯はただ、謝りたかった。
 だけど実際、口にしてしまえば、これほど滑稽な言葉もないだろう。

 受話器を片手に、少し思い迷う。だけど、沈黙を破ったのは唯ではなかった。

「唯さん、わたし、行ってみようと思う」
 唐突に舞実は言った。わずかに張りつめた空気が、受話器の向こうに流れるのが、唯にはわかった。
「恭平のところへ?」
 少し考えて、唯は問い返す。しばらくの間のあと、舞実は「うん」と、答えた。
 舞実は好きだったことを、唯は知っていたことを、初めてカミングアウトした。長い長い三角関係にピリオドが打たれた、歴史的な瞬間。
 お互いに、許し合うことが出来たことに気付く。我ながら驚くほどに、両肩が軽くなる。

「頑張れ」

 唯は少し笑って、低く静かに、ただひとことそう返した。

 恋なんて、人生の一部分に過ぎない。だけどそんな小さな存在であるはずのものが、人生を変えるほどの力を持つことに、今では唯も気付いてしまった。
 同じ、気付いてしまった者として……。
 あの、一途な女の子の行く末に倖多かれと、本気で願ってる。


 受話器を置き、窓から空を見上げた。細い細い三日月が、暮れかけた空に、はかない姿を浮かべている。
 ほっとしたような、気の抜けたような、なんだか寂しい気持。好きな人の声を聞きたい…と、唐突に思った。
 再び受話器を取り上げ、篤矢の携帯の番号を呼び出す。まだまだお互いに遠慮がちなところが抜けない関係。不意の電話に、彼は驚くだろう。
 だけど彼女は聴きたかった。「唯……」と自分を呼ぶ、穏やかで柔らかい声を。そして、大切な友達を失わずにすんだことを、彼に話したかった。
 今なら何もかも、話せるような気がする。


 優しい夜が、すべてを包み込んでくれるから。



- END - (2005.2.8)
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