Just Lovers 18 「俺が、唯先生のことを、迷惑だと思ったことなんて、一度もありません」 まだ少し驚きの残る表情のまま、篤矢は言った。 雨混じりの強い風が、吹き続けている。ふたりとも立ち止まったまま、再び歩き出すことを忘れていた。 「むしろその逆です。あの頃、唯先生の力になれることが、本当にうれしかった。あれほど無防備に涙を見せてくれたことも、俺を頼りにしていてくれたことも…。自分なりに、できるだけのことをしたいと思っていました。俺が先生のそばにいて、支えてあげられるのは、多分、これが最後だと覚悟していたから…」 唯は思わず、「え?」と伏せていた目を上げる。 誤解を解こうと焦るあまりか、篤矢は自分の言葉の熱さに、まったく気付いていなかったらしい。 当惑の混じった唯の瞳に出会い、初めて彼は自分が、今話すべきではない調子で話してしまったことを、悟ったようだった。その顔に、かすかに困ったような色が浮かぶ。 「すみません…」うつむきがちに小さく謝る声が、風に吹かれて消えた。それでも彼は、覚悟を決めたかのように息をつき、今度はまっすぐ唯を見て、言った。 「今から俺が話すことは、すぐに忘れてもらえませんか?」 その言葉の意味がわからないまま、唯はうなずいた。ただもう急に速くなった心臓の音が、耳元にまで聞こえる心地がするだけだった。もうどんなに風が吹いても、心の熱は去って行かない。 胸が熱くて、何も考えることができない。何が、起こったんだろう。何が、起ころうとしているんだろう。 それでもしばらくの間、言葉を探すかのように黙っていた篤矢は、再び小さく息をつき、問いを重ねる。 「以前、先生が、いつかは彼と結婚して故郷に帰るつもりだ、その予定は何があっても変わらないと言われたことを、覚えていますか?」 「ええ…」半ば呆然としながら、問われるままに唯は答える。 「ええ、覚えてます」 「あの時に、悟りました」彼は小さく笑って言った。 「俺がこうして、唯先生の近くにいられるのはこの3月限りだと。先生は、こうと決めたことを絶対に曲げる人じゃない。誰かを好きという気持なら、変わることもあるかも知れないけれど、この人が決意したことは、絶対に変わらない。俺に勝ち目はないと思いました。どんなに……」 そこで彼はいったん言葉を切り、数秒のためらいの後、思い切ったかのように言葉を繋いだ。 「どんなに…好きだったとしても――」 信じられない…。あの時の篤矢のことを、唯は思い出していた。子供っぽい負けん気にかられて、大げさなほどに強く言い切った彼女の言葉を、笑って軽く受け流したかのように見えた彼のことを…。後ですぐ、自分が小さく思えてきて、唯の方がいたたまれない気持になったものだった。 あの時の彼が、胸の痛みと共に在ったなんて、唯には信じられないことだった。ましてその痛みを与えたのが、他ならぬ自分自身だったなんて…。 「真辺先生…」 何を言えば良いのかわからないまま、とにかく黙っていられない気持にかられて口を開いた唯を、篤矢は軽く遮って話を続ける。 「だから…迷惑ばかりかけていたというのは、唯先生の誤解です。俺は、この毎日が1日でも長く続けばいいと思っていました。終わってしまうことが辛くて仕方なかった」 淡々と、それでも言わずにはいられないといった風に、彼は話し続けた。 「先生と離れてからは、ひたすら吹っ切ろうと、仕事に打ち込んできたけれど、それも無駄な抵抗だったかもしれない。先生が、遠くへ行ってしまうかもしれないと聞いて、自分でも嫌になるほど動揺してる。とっくに、覚悟もできていたつもりだったのに…。なんていうか、ショックで…。本当にショックで……。」 繰り返す声が、微かに震える。 「出来ることなら、行かないで欲しい…。それが、本音です」 うつむいた彼の瞳を、風に乱れた髪が隠した。そのせいだろうか、今の篤矢は信じられないほど、心許なげに見える。唯は胸を突かれ、言葉をなくした。 いつもいつも、ただひたすら真っ直ぐに前を向いている人だと思っていた。その瞳が自分に向けられることはもちろん、こんな風に伏せられることなど、決してないのだと。その弱さをいったい彼は、今までどこに隠し持っていたのだろう。 そして…どうしよう…。篤矢のそんな弱さを、唯は今までにも増してどうしようもなく、愛しいと思い始めている。 だけどそれは、ただ一瞬だけのことだった。再び風が彼の髪をさらい、その表情をあらわにした時、篤矢はいつもの篤矢に戻っていた。 見慣れた穏やかな笑顔。だけど唯はなぜか、その大人びた表情をとりつくしまもないと感じ、僅かに傷ついてしまう。 「行きましょう。雨が強くなってきた。勝手なことを言って引き止めてしまって、すみませんでした」 彼は静かに言って背を向け、歩き出そうとした。だけど唯の足はどうしても動かない。不意に、取り残されるような理不尽な心細さを感じ、何を考える暇もなく、必死に、その後姿に言葉を投げかけていた。 「勝手なこと、なんかじゃありません」 振り向いた瞳が、驚きに見開かれる。 再び頬に集まるどうしようもない熱を感じながら、それでも彼女は、わずかにうつむいて、繰り返した。 「勝手なことなんかじゃ…ないわ」 もうそれ以上、篤矢の顔を見ることが出来なかった。心臓の音が、大きく響く。言葉が、足りない。何か言わなくてはと思うのだけれど、言葉が見つからなかった。それでもどうにか口を開こうとしたとき…。 さっきからぽつり、ぽつりと降り続いていた大粒の雨が、突然勢いを強めた。あっという間に辺りはカーテンを降ろしたような土砂降りとなる。 「え?」と思う間もなく、ためらいなくのばされた篤矢の大きな手が、唯の手を掴んだ。彼に強く手を引かれ、呆然としたまま唯は走り出していた。 脇道の路地に入り、シャッターを下ろした店の軒先へと駆け込む。狭いその場所で突然立ち止まり、バランスを失った彼女を、篤矢は抱きとめた。 そしてそのまま、強く深く抱きしめられる。 「唯……」 静かに、名前を呼ばれる。 「唯……行くな…」 その言葉は、驚くほど自然に、唯の胸に響いた。 本当に驚いた…この人はこんなに、深くて熱い声をしていた、こんなにも大きくてあたたかい腕を持っていたんだわ。ずっとずっと、知らなかった。 知ってしまった今、何があっても、この腕を手離すことなんて、とうてい出来ない。 「行かない…」 温かく濡れたTシャツの胸に頬をつけ、唯は何時の間にか、そう答えていた。その瞬間、この温もり以外のあらゆるものが、遠く小さくなった。恭平と過ごした故郷の静かな庭。この先10年も20年も同じ場所に居られるという安心感。それまで捨てかねていたあらゆるものが、本当に…。 何を失ってもいい。いつまでもこの腕の中に居られるのなら。 その思いを確かめるかのように、唯は再び強く繰り返す。 「絶対に…行かない…」 |
Just Lovers 17へ Just Lovers 19へ Novel topへ メールフォーム |