Just Lovers 17



  後片付けをすべて終え、今日のために借り切った近くの小学校のグランドを後にする頃には、すでに辺りは真っ暗になっていた。
 今日はこのまま解散、ということになるのだけれど、宴会好きな園長の誘いで、近くの居酒屋に有志が集まり、打ち上げとなるのは毎年のこと。あくまで有志であるにも関わらず、そして皆くたくたに疲れているにも関わらず、例年参加率は高い。園長の人柄が成せる技とも言えるし、ただ単に酒好きが多いだけとも言える。
 でも何よりも、「祭りの後」の寂しさが、皆を何となく帰りがたい気持にさせるのかも知れない。

 風が、吹き始めていた。運動会にぶつかるのではないかと心配されていた台風も、ずいぶんと歩みを遅めてくれているらしく、本格的にこちらへ来るのは、明日の昼頃になるらしい。
「でも、今日は早めにお開きにした方がいいかもしれないわね」
 皆を連れて店へと歩きながら、園長が言った。唯は少しばかり、ほっとする。毎年のことだからと付き合いで参加したものの、今日はあまり、持ちそうにもない気がしていた。
 疲れのせいじゃない。毎年、疲れ切っているからこそ、その後のビールがこたえられないと、嬉々として打ち上げに参加する、タフで親父な彼女だった。思えば無邪気なことだったと、なんだか笑えてきてしまう。
「唯、ほんとに大丈夫なの?」
 聡恵が気がかりそうにきいた。よほど疲れた風に見えるらしい。笑顔でうなずきながらも、そう人から改めて言われると、さらに自信がなくなってしまう。
 長いこと、あまり眠っていないことも確か。でも、何よりも心が力をなくしている。
 あまりにも、いろんなことがあり過ぎて…。
 風が少しずつ、強くなる。これが最後の「運動会の打ち上げ」になるのだろうかと、ぼんやり、考える。


 案の定、酔いは早く回った。自分では精一杯セーブしていたのだけれど、後輩たちが次から次へとビールをついでくれるものだから、飲まないわけには行かなかった。
 それにしても、妙に慕われてしまったものだわと、うれしいような、困ったような気持になる。
 二歳児クラスの担任は、唯の他に二人いた。いずれもこの4月に入って来たまったく新人の女の子たちで、唯は言わば、後進を指導する中間管理職のような役割を負うことになったわけだ。
 去年までは篤矢のアシストを得てひたすら突っ走ってきた唯も、今度ばかりはそうも行かなくなったわけで、最初のうちは戸惑いもしたし、苦労もした。だけどもともと一匹狼な性格だった自分が、誰かに頼られるという経験もまた新鮮で、元来の生真面目さもあってあれこれと慣れない気を配っているうちに、気が付けば二歳児クラスの3人組は鉄の結束を誇るようになっていたのだ。
 後輩たちがまた、さっぱりした性格の、気持の良い女の子たちだったのも良かったのかもしれない。厳しくなりがちな唯の指導にきちんとついて来てくれ、いつしか「私、どこまでも唯先生について行きます」なんて、どこかの誰かみたいなことを言うようになって、皆にうけていたりもする。まったく、どこへ転んでもそういうキャラなのかと、唯としては頭を抱えたい気持にならなくもないのだけれど。
 その彼女たちは、初めての運動会という大イベントを乗り切った感激のせいか、少しばかり興奮気味だった。2人して唯のそばを離れず、今日の子供たちのことや、準備の苦労話などをあれこれ話しながら、替わる替わるに有無を言わさず唯のグラスを満たしてくれる。
 3人で飲みに行ったことも何度かあり、唯がそこそこに「いける口」であることを知っていてのことだろうだし、調子が悪いからと無粋に断るわけにも行かない。こうしたことに慣れていない彼女は、こんなとき、どうしようもなく不器用だった。

 半ば自棄になって話は弾む。話題は4月、彼女たちが入って来た頃のことにも及び、思い出話の末に、ひとりがふと、しみじみと口にした言葉には、不覚にもじーんときた。
「私、唯先生がいなかったら、この仕事をここまで続けることなんて、出来なかったと思います」
 なんだか胸が熱くなって、あわてて視線をそらす。その先には偶然にも、篤矢がいた。彼の隣りには、年長組担任の後輩がぴったりくっついていて、誰をも寄せ付けない空気なのだった。
 お互い、それぞれにいろんなことがあった。まったく違う道を、歩いてきた。そんな気がする。唯は唯で、立ち止まることなく歩き続けてきてよかったとは思うものの…。
 ふたつの道が、再び交わることはもう、ないのだろうか。それでも自分は、彼を追いかけていたいと思えるのだろうか。
 ふと、気持が揺らぐ。

 後輩たちが同期に呼ばれて唯のそばを離れ、ようやく解放された。なんだか力が抜けてしまって、ぼんやりと壁にもたれていると、その様子を心配したのか、聡恵が来て、彼女の隣りに座った。
「唯ってば、ぜんぜんいつもの唯らしくないじゃないの? ほんとに大丈夫なの?」
 半ばぼんやりとした気持のまま、唯はうなずく。
「まだ、迷ってるの?」
 声をひそめて彼女は訊いた。唯は少し考え、それでもきっぱりと、首を横に振る。
「ううん、もう、迷ってない」
 その真意がどこにあるのか、聡恵は探るように唯の瞳を見たが、何も読み取れなかったらしく、小さくため息をついて、手にした烏龍茶のグラスに口をつけた。
 唯自身にだって、よくわからないのだ。迷ってないことは確か。だけど、あれこれ考えることが、今は少しばかり辛くなっている。
 外に出て頭を冷やした方がいいかもしれない。聡恵に断り、立ち上がろうとして、ふらついた。再び座り込んでしまった唯に、聡恵は、心配そうに声をかける。
「大丈夫? 今日はもう、帰った方がいいんじゃない?」
 渡りに船の言葉だった。眩暈が残って顔を上げることができないまま、唯がうなずくと、肩に置かれた手が外され、聡恵が立ち上がる気配がした。

 不審に思って唯がどうにか目を上げると、彼女は篤矢のところへ行って、なにやら話している。
 彼がこちらの方をちらっと見てうなずき、立ち上がるのを目にして…。
 唯は思わず、逃げ出したくなった。
 してやられた…と、思う。

「大丈夫ですか? 唯先生。駅まで送ります」
 その気がかりそうな表情を間近に見て、あろうことか、唯は泣き出したい気持になる。真っ直ぐ自分に向けられたその視線、その声をこんなにも近くで受け止めるのは、考えて見れば本当に久し振りのことで、よけいに眩暈がひどくなるような心地がして、困った。
 断ることなどできるはずもなく、どうにかうなずいて立ち上がる。部屋を出るとき、振り返って聡恵に目をやると、涼しい顔でVサインを返された。



 店を出たとたん、吹き付ける風が、ほてった頬の熱をさらった。風はさっきよりも少し、強くなってきているようだった。
 篤矢の隣りをうつむきがちに歩きながら、唯は少し、不思議な気持になってる。こんなにも気持が凪いでゆくのは、心の熱を吹き飛ばしてくれる、この風のせいだろうか。
 遠くから見ていたときは、ただ視線が合うだけで、あんなにドキドキしていたのに、こうして肩を並べて歩いていると、それがとても自然なことのような気がしてくる。
 もっと不思議なのは、隣りを歩く篤矢もまた、同じ気持でいるように感じられることだった。当り前のように向かい合って一緒に仕事をしてた、あの頃の空気が戻ってきたような気がする。なんだか可笑しい、そんなこと、あるはずもないのに。よっぽど、酔っているんだわ…。

「大丈夫ですか?」
 少し歩みを緩めながら、篤矢は再び聞いた。ほら、自分に向けられたその瞳を見上げるだけで、やっぱり頬は熱くなる…。唯は何も言えず、ただ、うなずいた。
 彼は少し笑って、言葉を繋ぐ。
「少々飲んだぐらいで、酔うような人じゃないのに…。少し、疲れていらっしゃるんじゃないですか?」
「そう、見えますか?」
 参ったなあ、と思いながら、どうにか無難に聞こえる答を返す。篤矢は再び笑って言葉を重ねた。
「唯先生はいつも、自分のペースを考えずに突っ走ってしまう人だから…。一緒に仕事をしていた頃は、いつもはらはらしていました。今のクラスになってから、あの頃以上に無理をされているようで。今となっては俺がストップをかけるわけにもいかないし…。ずっと心配していたんです」
 思いがけず優しい言葉をかけられ、一瞬、心は揺れた。だけどそれは考えてみれば、いかにも篤矢らしい優しさなのだった。悲しいような、切ないような、なんともいえない気持になって…。
「無理なんか、してません。何度も燃え尽きそうにはなりましたけど…」
 思わず本音が出てしまう。だけど篤矢は笑って、唯が驚くような言葉をさらりと返してきた。

「燃え尽きそうだったのは、たぶん、俺の方です」
 一瞬、聞き間違いかと思う。だけど、彼の横顔に何とも言えない表情が浮かんでいるのを見て、そうではないことを悟った。唯は、半ば呆然として、問い返す。
「真辺先生が…ですか?」
 篤矢は、何も答えなかった。

 吹き付ける風は、湿った雨の匂いを含んでいる。篤矢の髪が、強い風に乱れる。日に焼けた横顔は、ちょっと厳しい感じがして、唯の胸は、どうしようもなく高鳴った。
 この人、こういう表情をする人だったっけ。久し振りに間近で見るその横顔は、なんだか、違う人のように思える。
 いつもにこにこと笑っている。その笑顔が、子供たちを前にすると、どれほど輝いたものになるか、唯は痛いほど知ってる。今日も、眩しくて仕方がなかった。その姿を、もう少し長く見ていたい。たとえ視線を返されることはなくても。その思いは唯の人生を変えてしまうほどの力を持ちうるものだったのに…。
 この人に限って、「燃え尽きる」なんてこと、絶対にありえない。信じられない思いで、暫しの沈黙に沈み込んでしまったその横顔を見つめる。

「すみません。俺はずっと、唯先生のことを避けていました」
 長い静けさの後、あまりにもさりげなく、彼が口を開いたものだから、唯は思わずその言葉を、意味もわからないまま聞き流してしまうところだった。
 え? と思い、再び彼を見る。真っ直ぐに前を向いたその表情は変わらない。
「一緒に仕事をしていた頃が、あまりにも楽しかったから…。先生の顔を見ると、あの頃のことを思い出してしまう。何か話せば、弱音を吐いてしまいそうになる。女々しい話だけれど、何もかも忘れて、なかったことにしなければ前に進めないほど、ずっときつい状態でした。気を悪くされてたんじゃ、ないですか?」
「いえ……」半ば呆然としながら、唯は答えた。驚きのあまり、再び思わず本音が出る。
「真辺先生は、呆れていらっしゃるんだと……。私、最後の方はボロボロで、全然仕事にならなくて、迷惑ばかりかけてましたから…。怒ってらしたんじゃなかったんですか?」

「まさか……」 彼はといえば、唯の何倍もの驚きらしかった。思わず立ち止まり、じっと彼女を見る。
「本当に、そんな風に思ってたんですか?」
 唯は黙ってうなずく。

 吹き付ける風に、ぽつり、ぽつりとわずかに雨が混じり出す。
 立ち尽くすふたりは、そんなこと、気づきもしないようなのだけれど。
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