Just Lovers 16 運動会当日のグラウンドは、まぶしいお陽さまの光にあふれていた。台風を目の前にした、奇跡のような晴天。どこかしらぼんやりとした気持を抱えたまま、遮るもののない青空の下を忙しく走り回っていると、そのあまりの眩しさに、時おり眩暈がしそうな心地になる。 Tシャツ1枚でも暑さを感じるほどの、10月とは思えない陽気。それでもたまに吹き過ぎる風は透明で冷たく、ふと唯を立ち止まらせ、少しばかり寂しい気持にさせた。 何かが、少しずつ変わり始めているのかもしれない。 今朝、目が覚めて、カーテンの隙間からのぞく青空にほっとした時、どうしたわけか唐突にそう思えた。 それが何なのかわからないまま、唯はずっとその気持をひきずり続けている。 何かが、変わり始めている。何かが、彼女の人生を、大きく変えようとしているのかもしれない。 「唯先生、それ、俺が運びます」 後輩とふたりで、玉入れの玉がいっぱい入ったカゴを運ぶのに往生していると、そんな声と共に、大きなカゴがひょいと持ち上げられた。 「す…すみません」 軽々とカゴを運んで行く篤矢の後姿に、唯は恐縮して礼を言う。職員総出で、慌しく運動会の準備に追われた昨日と今日、そんな場面に何度となく出会って、唯は少しばかり、戸惑っている。 なにしろ、彼と言葉を交わすこと自体、本当に久しぶりのことなのだから。 もちろん、唯だから…というわけではないのだ。準備がおしてくると、担任だの担当だのに関わらず、とにかく手の空いた者が忙しいところを手伝う、というのは当然のことで、よくよく見ていると、彼はそんな風にしてあちこちに気軽に声をかけ、主に力仕事を手伝っている。唯だって手が空いた時は同じようにしているのだから、何がどう…ってことでもないのだけれど…。 それにしても、篤矢はといえば、まるで屈託がなかった。半径1メートル以内のところに彼が近づいて来ただけで、どうしようもなくどきどきしてしまう自分が、なんだか情けなくなってしまうほどに…。あれこれと手伝いながら、他の同僚に対するのと変わらない風に、自分に話しかけてくる篤矢と向かい合っていると、この半年間の空白が、彼には何の意味も成さなかったことがよくわかる。 ただ単に、ずっと目の前の仕事のことしか見えず、余裕がなかった。この半年間、仕事上の関わりのない唯のことなど、彼には見えていなかった、それだけのことなのだ。その気持は、唯にも身に覚えのある感覚だけに、自分のことのように理解できてしまった。だから、寂しいというよりも、今の自分が情けなくなる。篤矢の屈託のない笑顔を目の前にするたび…。 ほんの1年前までは、同じ場所に立っていた。さして意識することもなく、当り前のように向かい合っていた相手だというのに。 気が付けばなぜ、この人は、こんなにもまぶしく、こんなにも遠く前を歩いているのだろう。 かなわない…と思う。彼はいつも超然としている。いつもまっすぐ前を見て、迷うことがない。気が付けば迷いばかりを胸に抱え、立ち止まっている自分自身を何とかしたいと、本気で思う。 もはや追いつくことは無理なのかも知れない。だけど、いつまでも、この人だけを見て、追いかけながら生きて行けたら、どんなにいいだろう。 この2日間、何度となく、そう思わずにはいられなかった唯なのだった。 注目の競技、組立体操は午後一番に始まった。慌しい時間にようやくひと区切りつけることのできた唯は、職員席のテントの下で、その様子を見守ることになる。 二歳児クラスの子供たちは、午前の部が終わると帰って行った。 親たちに連れられ、「唯先生、バイバイ!」と手を振る小さな子供たちの、それぞれに輝いた笑顔を思い出せば、ふと胸はあたたかくなる。自分の中の迷いや屈託を振り切るように、彼らといる時はただ、彼らのことだけを考えていようと努めていた唯だった。多くの子供にとっては生まれて初めてになるこの運動会を、ひたすら楽しいものにしようと、あれこれ考え、工夫を凝らした。そのことが彼女自身にとっても、ずいぶん救いになっていたと思う。 穏やかな日常を好む幼い子供たちにとっては、ともすれば「楽しい」どころではなく、プレッシャーになってしまいがちな、こうした大きなイベント。例年、皆の前で大泣きしてしまう子供も決して珍しくはないのだけれど、努力の甲斐あって、唯の子供たちの表情が曇ることは、決してなかった。ほんの半年前までは、登園して来るだけで泣きわめいていた彼らだというのに…。唯が後輩達と縫った小さな青いハッピに凛々しく鉢巻を締めて、最後まで笑顔で踊った彼らの成長振りを思えば、思わず胸にじーんと来るものもあったのだけれど…。 感動に浸っている場合ではない。大きな拍手とカメラのシャッターの音の中、組立体操が始まる。 篤矢がここへ来て以来、去年も一昨年も評判になり、話題になった競技だった。小さな子供たちを中心に、のんびりと続いてきた午前中のプログラムとは違い、いっぺんに会場の空気が変わる。 親達も皆、笑ってしまうぐらい真剣で、決してお義理ではない拍手が何度も起こる。園長が嬉しそうに「宣言」しただけあって、今年の組立体操は誰の目から見てもすごかった。どこにでもいる普通の子供たちが、これだけのことをやってのけるなんて、信じられない。それも、砂だらけになって頑張る彼らは決して辛そうではなく、心から楽しげなのだった。 それは、今、彼らの前に立っている篤矢が、身体を動かすことの楽しさ、自分の壁を乗り越えることの楽しさを何よりも大切に、伝えようとしてきたからなのだろうと思う。 唯はといえば、どうしたって篤矢ばかりを目で追ってしまう自分を、止められないでいるのだけれど…。 テントのかげにいる彼女から、彼の立つ場所はひどくまぶしく見えた。その動作、その表情の変化ひとつひとつに浮ついてしまう気持を抑えて、そばにいる同僚達と何気ない会話を交わすのにずいぶんと、苦労した。 参ったなあ…半ば苦笑しながら、彼女は思う。 いつまでも見ていたい…気が付けばそう、願っている。真剣な横顔を、ぱっと輝く笑顔を、あの真っ直ぐな瞳の目指すものを、ずっとずっと、見ていたい。 1年の猶予期間になんてまるで意味がないことに、今、唯は気付いてしまった。 その瞬間、恭平とのことは、あっという間に遠く霞んだ。それがどれほど身勝手なことか、わかっている。だけど、あんなにも大切に思っていた未来、約束された人生は、唯の意志を超えたところで捨てられようとしているのかも知れなかった。 その代わりに彼女が手にするのは、何とも心許ない未来。だけど舞実、あなたならきっと、そうするでしょう? 微かに胸を刺す不安と共に、唯はかつての恋敵の名前を呼ぶ。 届かない思いを抱き続けることに長けたあの女の子なら、きっとそうするはず…。不思議なものだ。恋愛なんていう不確かな感情に振り回される彼女のことを、かつてはひどく子供だと感じていたものだった。きちんと未来を見据えている自分の方が、よほど、大人だと…。 何のことはない。コントロールできないこの気持を知ってる、あの子の方がずっと、大人だったんだわ。迷子の子供のように心許ない気持で、唯は彼女のことを思い出しているのだから。 可笑しいような、泣きたいような、不思議な気持になる。 「唯…?」 隣りに立つ聡恵の、自分を呼ぶ不審気な声に、我に返った。気が付けば競技は終わり、唯は慌てて皆と一緒に拍手をする。 なんだかぼんやりしてしまって、子供たちの熱演をきちんと見てあげられなかったのは、残念なことだった。だけど退場ゲートへと駆けて行く彼らの、輝いた表情からは、皆それぞれに新しい宝物を胸にしたことが見て取れた。本当はそれが一番、大切なことなのだと唯は思う。彼らの心に何かが残るということが…。 「やっぱり、すごいわね。真辺先生は」 意味ありげととれなくもない笑顔を見せて、聡恵が言った。 「うん…」 深い共感を込めて、そう短く答える以外、今の唯に何ができただろう。ほんの短い間に、いろいろなことが起こり過ぎたような気がしている。 ゆっくりと歩いて、篤矢は戻って来た。あまりにも集中し過ぎたせいなのか、いまだ夢半ばといった表情をしている。 その、まだ熱気の残る瞳で、真っ先に見つめられ…。 唯は我を失った。 同僚たちのほとんどがそこにいて、拍手で彼を迎えたというのに、なぜかその視線は真っ直ぐ、唯のところに来たのだった。偶然かも知れないし、気のせいかも知れない。だけど一瞬、しっかりと目が合い、篤矢の方も少しばかり慌てたような、初めて我に返ったような顔をした。取りつくろうかのように唇が開かれ、彼が何か言おうとしたことはわかったのだけれど…。 唯は思わず、深くうつむいてしまう。 誰も気づかないような、ほんの一瞬のこと。篤矢は結局何も言わず、他の同僚たちと言葉を交わしながら、自分の場所へと戻った。狭いテントの中、体温が伝わるような距離ですれ違い、彼女は思わず身を固くする。 情けないほど、動揺している。自分でも心臓の音が聞こえるほど、どきどきしている。いったい、何が起こったんだろう。 「唯先生、次の準備お願いします」 後輩たちに声をかけられ、あわてて立ち上がる。走り出す前に、ちらと振り返ると、篤矢は皆から少し離れた席に座って、まっすぐにグランドを見ていた。 その横顔は、いつになく、厳しいものに思えて…。 案ずる気持をどこかへ追いやり、唯は持ち場へと駆け出した。 |
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