Just Lovers 15



「なあ…お前さ、ほんとはまだ仕事、辞めたくないんじゃねえの?」

 何気ない会話の端に、不意にそんな言葉を繋げられ、驚いた。唯は思わず返す言葉をなくし、受話器を持ったまま、固まってしまう。
 その沈黙をさして気にする気配もなく、恭平は相変わらずの能天気な調子で言葉を重ねた。
「考えてみりゃ、お前ってずっと、仕事が命!って感じだったもんな。なんだったら、もう1年、そっちにいるか? 帰ってきたはいいけど、フヌケになられても困るしな」
「う…うん――」
 その言葉をどうとってよいのかわからないまま、唯が曖昧に返事をすると、「そうしろ、そうしろ」と、彼は何百キロも離れた遠い空の下から、明快に笑って言葉を返すのだった。

 完全に、自己完結してる。どうしてこの男は、こんなにも強いのだろう、と、思う。

 電話代が大変だから、お前は電話してこなくてもいいと言って、恭平は帰郷以来、2日か3日に一度、彼の方から律儀に連絡を寄越すようになっていた。久々に付き合いが復活した地元の友人たちの近況などを話し、いつもそう長くならないうちに切り上げる。その淡々としたまめさは、いかにも彼らしかった。相変わらず恋人の胸の内には無頓着なその様子も…。
 だけど、そうした他愛のない話の中に、ときおり事務連絡のように差し挟まれる結婚に関する話に、唯がもうひとつ乗って来ないことぐらい、いくら鈍感な彼でもどうやら気付いていたらしいのだ。
 その原因が疑いもなく「仕事」となるところは、彼の限界と言おうか、あるいは唯のキャラゆえのことと言おうか…。

「じゃあ、そういうことで…。親たちには俺が話しとくよ。電話だと、話がこじれそうだもんな」
 そう言って、恭平はさらりと話を終わらせた。話しとく…って、そんなに簡単なものなの? なんとなく慌てながらも、心のどこかでほっとしている自分に、唯は気付いている。
 ほっとしている、思いがけず与えられた猶予に…。
 そんな自分のずるさが嫌になる。

「そういえば、あいつ…舞実は、元気してる?」
 最後に恭平は、ふと思い出したようにそんなことをたずねた。
「舞ちゃん?」
 なんだかとても意外な気持になりながら、唯は言葉を返す。
「あの子とは、恭平がそっちへ帰るずっと前から会ってないけど…。恭平の方が、メール連絡ぐらいしてるんじゃないの?」
「いや、それが…」
 恭平は少し言いにくそうに答える。
「こっちへ帰るちょっと前に、なんか気まずくなっちまって…。音信不通なんだよな」
「ケンカしたの?」
 胸にかすかに重いものを感じながら、唯はきいた。そういえば、見送りに来ていた大学の仲間たちの中に、彼女の姿はなかった。急な仕事でも出来たのだろうと、さして気にしてはいなかったのだけれど。
「うん、まあ…」と恭平は言葉をにごした。そしてその理由を決して言わないのだった。あの時と同じだ、と思う。だけどこれ以上、ふたりの間にあったことを深く追求する気にはなれない。そんな資格は、今の唯にはない。

 遠い故郷へ帰ること、唯と結婚することを、彼は、どうやってあの女の子に告げたのだろう。その事実を彼女は、どんな風に受け止めたのだろう。不意に、痛いような共感の思いが、唯の胸を刺した。
 この気持はなんなのだろう。自分の彼氏の中にある何かを、今まで気付かなかった何かを、自分は今、感じ取っている?

 ねえ、「ただの友達」でいるべきだったのは、私たちの方だったんじゃないの? 
 無意識にそんな言葉がこぼれそうになり、唯はあわてた。
 本当はそうするべきだったのかも知れない。だけど今の彼女には何も言うことができない、どうすることも、できないのだった。



 10月の空は深く、透明で、見上げていると、涙がこぼれそうに眩しい。唯は机の上の日誌に再び目を落とした。子供たちはお昼寝中。ガラス窓の外からは、太鼓の音が、ときおり風に乗って聞こえてくる。年長、年中組の子供たちは、3日後の運動会を控えて組み立て体操の練習が大詰めに入っていた。
 号令をかけたり指示を出したりする篤矢の声は、常に穏やかで柔らかいものだったから、ほとんど聞こえてはこない。だけど伝えたい相手には必ずきちんとまっすぐ胸まで届くような話し方を、彼はした。そう、耳にではなく、胸に届くような声なのだった。どうすればあんな風に子供たちに言うべきことを伝えることが出来るのだろうと、そばにいて羨ましい気持になったものだ。
 大勢の子供たちを従わせるのに、彼は胸から下げたホイッスルを全くといって良いほど使わない。組立体操にはお定まりの道具となった和太鼓は、彼の傍らにあったけれど、それすら必要以上に叩かない。「だって、なんか怖いじゃないですか。太鼓の音でみんなに一斉に動かれると」そんなことを笑いながら言う体育講師が他にいるだろうか。
 そんなことを思い出し、なんだか可笑しくなる。ときおり微かに風に乗って来る、あるかなきかの声に耳を傾け、無意識にペンを持つ手が止まる。
 だめだ、仕事仕事――。彼に負けるわけには行かない。

「唯先生には悪いけど、今年の組立体操はすごいわよ」
 数日前、園長が茶目っ気たっぷりの得意げな表情で唯に言った。
 言われずとも、練習風景を見ればわかっていた。優等生タイプの多かった唯の時とは違い、今年の年長組には、生命力とパワーにあふれたわんぱくタイプの子供たちが多い。やはり、あの後輩の元でのびのびと時を過ごして来たなりの魅力があると、悔しいけれど、納得せずにはいられない。だけど、そんな彼らをまとめ、ひっぱって行くことは、不可能に近いほど至難の技であったことも確かで…。
 そんな子供たちを見事、やる気にさせ、大人顔負けの技をやってのける程までにしたのが、篤矢なのだった。昔からシャレにならないほど先生たちを手こずらせ続けたガキ大将タイプの男の子たちですら、今や子分のごとく彼を慕い、ついてゆく。いや、そんな子供たちこそが大変な練習を楽し気にこなし、皆の中心になって難しい技をやってのける。
 決して大人の権力や威圧感でもって彼らを従わせようとしない篤矢が、いったいどんな魔法を使ったのか、不思議にもなるのだけれど、唯にはなんとなくわかるのだ。彼のやったことは、「子供たちに居場所を見つけてやること」に他ならないのだということが。
 いわゆる問題児と呼ばれる子供たちほど、自分が安心して輝いていられる居場所を求めている。そんなこと、理屈ではわかっていても、誰もが実際にはどうすれば良いのかわからないのが現実。だけど、そうしたことを理屈ではなく察知し、やってのけるのが「真辺先生」という人なのだった。

 気が付けば、篤矢のことばかり考えている。しょうがない、唯はとうとう仕事を続けることをあきらめ、ノートを閉じて立ち上がる。
 窓辺に立つと、眩しい青空の下、輝いた横顔が見えた。いつになく真剣なその表情に、一瞬、見惚れた。そのとたん、胸の中にパワーが流れ込んで来る。心があたたかくなり、元気になれる。そう、見ているだけで…。どうしたって慣れないそんな感情を、唯はいまだに持て余しているのだけれど。それでも時々、目にせずにはいられないのだ。その姿を…。
 それを恋だと言うなら、もう、認めるしかない。これ以上、自分をごまかすことなんてできない。

 仕事がすべて…そう思っていた。恋愛なんて、人生のほんの一部に過ぎないと…。彼女が本当に夢中になれるものは、いつも、たったひとつだった。
 その向こうに当り前のようにあった、いつも同じ笑顔。なくしてみて、やっと気付いた。
 自分がすべてだと思っていたもの、それが仕事だけではなかったことに…。

 お昼寝から覚めた子供がくずり出し、唯は我に返った。あわてて窓辺を離れ、子供を抱き上げる。静かに話しかけながら、しばらく揺すっていると、あっという間に再び眠りに落ちてしまう。小さな子供をあやしたり、寝かしつけたりすることが、ずい分と上手くなった。どんな年齢の子供が相手でも、やはりこの仕事を好きだと思う。
 できることなら、もう少し、続けていたい。それも事実。

 ― なんだったら、もう1年、そっちにいるか? ―
 あれから、恭平の言葉を何度となく胸の中で繰り返している。その言葉に甘えるべきなのかどうか、いまだに迷っている。あと1年、仕事を続ければ、自分の中で何かが変わるだろうか。あと1年、篤矢を見ていられたら、あきらめもつくのだろうか。
 むしろ潔くここで断ち切ってしまうのが、正解かもしれない、とも思う。
 どちらにしても、恭平と別れてずっとこちらにいる、という選択肢は、初めから彼女の中にはないのだった。例え自分の思いが別のところにあることが、わかっていたとしても…。この恋と、自分の未来は、やはり別物なのだと考えなくてはならなかった。恭平にしたって、それは同じかも知れないと思うから。
 自分の彼氏の胸の中に何があるのか、今の唯にはわからない。それでもはっきりとわかっているのは、何があろうと彼は絶対に自分を裏切ったりしない、自分たちが思い描いていた未来を、投げ出したりはしないってこと。だから唯も、恭平を裏切るわけにはいかない。
 どちらかが他の誰かを好きになることなんて、あり得ない。例えそうなったとしても、そのために自分たちの未来が変わることなんて、あり得ない。
 他ならぬ篤矢に、自分が話したあの言葉が、無意識のうちに唯を縛り付けていた。

 早く決めなくては。タイムリミットは近い。今年度で辞めてしまうのなら、運動会が終わる頃には園長に伝えなくてはならなかった。
 なのに思いはずっと、揺れ続けている。
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