Just Lovers 14 「で、いまだにきちんと返事してないってわけ?」 少し呆れたような顔で、聡恵は言った。 「彼氏、ひとりで田舎に帰っちゃったんでしょう? 何も言わずに待たせとくなんて、かわいそうじゃない」 「それは…わかってるんだけど…」 どうにも煮え切らない表情で、唯は答える。 独身者への転勤命令というのは、容赦のないもので、唯に話をしてから本当にわずか1週間後に、慌しく住み慣れた町を後にして、恭平は故郷へと帰って行った。 結局彼は、唯の返事を聞くことなく行ってしまったわけだけれど、おそらく本人にその自覚はないだろう。新幹線の駅で別れを告げるその時も、彼の様子はのんびりしたものだった。 これまでだって、ふたりの間には、わざわざ言葉にしなくても成り立ってしまう事柄がたくさんあった。だから、恭平がひとり故郷の街で返事を待ち続けているという「かわいそう」な図式は想像しにくいのだけれど。 だからと言って、自分の罪の意識が消えるわけではないことを、一番わかっているのは唯自身だった。 自分でも、これほどまでに説明のつかない情況に陥ってしまったのは、今までにないことだと思う。 あらゆることを割り切り、曖昧な気持は切り捨て、ひたすら真っ直ぐに進んで行けるのが、本来彼女の強みだった。自分のやっていること、やろうとしていることは、いつもきちんと心得ていたはずなのに…。 それが今、他の誰にも話せないようなことまで打ち明けてきた、この気のいい同僚を前に、唯は何も言えず困り果てている。 同期の聡恵は、この職場では唯一と言っても良いほど、唯がとことん心を許せる相手だった。細かいことを気にしないさばさばした性格は、どこかしら自分に似ていて、ごく自然にわかりあえる。だから、彼女は恭平からのプロポーズのこと、本当は心の奥底でずっと迷い続けていることなど、今時点では皆に明らかにできないことでも、ためらうことなくこの同僚に話せたわけなのだけれど…。 「やっぱり、ここを辞めたくないから? 唯ってば、今めちゃくちゃ仕事に燃えてるものね。去年で燃え尽きちゃったかと思って、心配してたけど、とんでもなかったわね。みんな、言ってるわよ。唯先生はやっぱりすごい、って。あんたってほんと、大した先生だと思うわ」 唯を手伝って床を磨きながら、聡恵は言った。言葉はぞんざいだけれど、その口調にはきちんと、彼女なりの尊敬がこもっていて、唯はなんだか、気恥ずかしいような、申し訳ないような気持になる。 本当にそうなら、話は簡単なのだけれど…。だけど100%それだけだとは言い切れないのが、今の唯には辛いところだった。 「でも、長く続けられる仕事じゃないって言ってたのは、唯自身じゃないの。私も正直、あんた見てるとそう思う。いつかは結婚しなきゃならないんだし、帰らなきゃならないんだったら、今が潮時なんじゃないの?」 「それも…わかってるんだけど…」 やはり、煮え切らない唯なんだった。 園庭へと続く大きな窓から、気持のいい9月の風が入ってくる。夕方、子供達はみんな園庭で遊んでいて、唯は誰もいなくなった2歳児クラスの教室を掃除していた。 休憩中の聡恵は、このところ妙にうじうじ悩みがちな同僚のことが気になって、様子を見に来たわけなのだけれど、「お帰り」の子供達や親達が時おり教室に入ってくるので、大っぴらに話はできない。唯の傍で雑巾がけをするふりなどしつつ、お互いひそひそと話していたのだった。 唯はふと、窓の外に目をやった。大小様々な子供たちが、ひしめき合うようにして走り回るその光景の中で、どうしたって、視線が吸い寄せられてしまう場所がある。 篤矢は年長組の男の子たちに囲まれ、楽しげにサッカーボールを蹴っていた。 さっきから長いこと、リフティングが続いている。子供たちが数を数える声と共に、篤矢がボールを蹴り上げるたび、歓声が上がる。彼が本格的にサッカーを始めたのは、社会人になってかららしいのだけれど、もともとが器用な性質なのだろう。そのボール捌きは惚れ惚れするほど見事で、彼を見守る男の子たちのやんちゃそうな瞳に、憧れの色が浮かんでいるのが、遠目にもよくわかる。 最後に篤矢はボールをとんでもなく遠くへと飛ばしてしまい、リフティングは終わった。周囲がどっと沸く。照れたような笑顔が、まぶしかった。年長組の担任であるあの後輩が、駆け寄ってきて、笑いながら何か話している。彼女は最近、いつも篤矢の傍にいる。 遠い遠いその場所から、唯はさりげなく視線を外した。 「大したものよね。真辺先生も…」 不意に聡恵が口を開き、唯はどきりとして顔を上げる。だけど、篤矢と、その隣りにいる後輩を見る屈託のない彼女の横顔に他意は感じられず、思わずほっとして、次の言葉を待った。 「あの子ってば、真辺先生と組むようになってから、ずい分性格が丸くなったと思わない? 去年までは、教科書で読んだようなことばかり言って、まったく融通が効かなかったのに、彼の言うことならよく聞くものね。唯の時と違って、水と油みたいな組み合わせだったから心配してたけど、真辺先生、あの子のこと上手く引っ張って行ってるみたいじゃないの」 「そういう人なのよ。真辺先生は…」 唯は笑って答えた。今さら、胸の痛みなんて感じない。 「どんな相手にだって、合わせられる。…っていうより、何としてでも合わせようとするの。プロなんだわ」 彼は確かに、ひとつの壁をきちんと乗り越えることができたのだと思う。最初の頃、みんなに噂されていた不和が嘘のように、今、笑って言葉を交わすふたりは、かつての自分達よりも親しげに見える。 その光景がひとえに、篤矢自身の努力によるものだということが、ずっと遠くから彼を見守ってきた唯にはよくわかるのだった。彼の表情には余裕が戻り、すれ違うたび感じた張りつめた空気は、すでに消えていた。 よかった…と思う。だけど、それでも縮まることのない自分たちの距離を思い、切ない気持にもなる。 自分の中にある感情が、もはやどんなものかわからなくなり、唯はあわててうつむき、ことさらにごしごしと床をこすった。 「でも、罪な立場よね」 そんな彼女の胸の内には気づかない風に、外に目をやったまま聡恵はつぶやく。 「仕事にはいつも全力投球。だけど、それってあくまで仕事だけのことじゃない? あの子、何か勘違いしてなきゃいいけど」 その言葉は、なぜだか唯自身の胸にぐさりと刺さった。鋭い…と思う。昔から鋭いところがあったけれど、本当にこの同僚は、いろんなことをよく見ている。 「だいじょうぶ…なんじゃないの?」 動揺を隠して当り障りのない言葉を返した唯を、聡恵はじっと見た。 「ねえ、彼氏と結婚する気になれないのは、本当に仕事のことだけが原因なの?」 今度こそ、心底どきりとする。とにかく何か言わなくてはと口を開こうとしたとき、開け放した窓からサッカーボールが飛び込んできた。 「す…すみません!」 息を切らしながら、ボールを追いかけてきたのは篤矢その人だった。 「うわ、掃除してたところだったんですか。申し訳ない」 教室の床に点々とついた泥の跡を見て、彼は恐縮し切ったように言った。言葉をなくして立ち尽くす唯に代わって、聡恵は何食わぬ顔でボールを拾い、彼に手渡す。 「大丈夫ですよ。その辺はまだ、これから拭くところだったから」 「そうですか…」篤矢はほっとしたように笑い、ボールを手にして「すみませんでした」と駆け出して行こうとした。その時、瞳がふと、唯に向けられる。その視線はいつものように、そのまま流れて行くかと思われたが、思いもかけず自分の上に留まったままの瞳が、なぜだか気がかりそうに曇ったものだから、唯は心臓が止まりそうになった。 「唯先生、大丈夫ですか? あまり顔色が良くないみたいですが」 思わず…といった風に、彼は尋ねた。え…?と思う。このところあれこれ考えて眠れない夜が続いていたのは確かだけれど…。 何よりも、こんな風に声をかけられるのは4月以来初めてのことで、唯は一瞬、軽いパニックに陥る。 「彼女、最近いろいろ悩んでるんですよ」 言葉が出てこない唯に代わって、またしても口を開いたのが聡恵だった。 「彼氏が転勤で、田舎に帰っちゃったらしいんです。それでまあ、元気がないっていうか…」 「聡恵!!」 思わず唯は叫んだ。聡恵はしれっとした表情のまま、肩をすくめ、口をつぐむ。 篤矢は少し驚いた様子で、しばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて気をとりなおしたように、軽く頭を下げ、その場を離れた。 「聡恵ってば、なんてこと言うのよ。真辺先生、困ってたじゃない」 「あら、別にいいじゃない。あの先生は、ああいうことを誰かに言いふらすような人じゃないもの。心配することないわよ」 とぼけた様子で言葉を返す、聡恵の真意がわからない。 「そういうことじゃなくって!!」 「そういうことじゃないなら、どういうことなの?」 しれっと言い返され、唯は返す言葉をなくした。 恋人が転勤し、田舎へ帰る。それが何を意味するかを、篤矢は知っている。そうなれば自分も一緒に帰郷し、結婚するつもりであることを、唯はいつか彼に話したことがあるのだから。 だからこそ彼女は慌てたわけなのだけれども……。 だけど考えてみれば、今さら篤矢がそれを知ったから、どうだというのだろう。唯が誰と結婚しようと、この仕事を辞めて故郷へ帰ろうと、そんなこと、今の彼にとってはどうでもいいことに違いないのだ。 何をひとりで、慌ててるんだろう。唯の胸に泣きたいような寂しさと、笑い出したいような情けなさが広がる。不意に、どうしようもなく胸が痛んで、あ…と思う間もなく、涙がぽとりと落ちた。 「ゆ…唯、どうしたのよ!!」 聡恵もさすがに驚き、彼女の肩に手をかけて、尋ねる。 「ごめん、コンタクトがずれた」 そう短く言い訳して、それを信じてもらえたかなんて考える余裕もなく、唯は教室を飛び出す。皆が出払った園の廊下は静かで、誰にも見つからず控え室に駆け込めたのは幸運だった。 だけど彼女は、しばらくそこから出ることが出来ない。もうすぐ子供たちが外から戻ってくる。この部屋にだって、すぐに誰かが入ってくる。何よりも、聡恵に迷惑をかけるわけにはいかない。こんなことで仕事を放っぽり出すわけにはいかない。 なのに、立ち上がることができないのだ。胸が痛くて、どうしようもなく痛くて…。 この痛みの正体を、唯は知ってる。本当は、ずっとずっと前から。 たったひとり、どうにか涙を止めようと虚しく格闘しながら、なぜだか胸に浮かんで来たのは、全然関係のない、ひとりの女の子の名前だった。 舞実…どうしてそうするのか自分でもわからないまま、唯は胸の中で繰り返す。舞実…ごめん。私、あなたのこと、あなどってた。どうしてもっと、真剣に、向き合ってあげられなかったんだろう。わかっていればきっと、その思いから目を逸らすことなんて、絶対に、出来なかったはずなのに…。 人を好きになることが、こんなに辛いものだなんて、知らなかった…。 |
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