Just Lovers 13



  もう、絶対に立ち直れないだろうと思っていた。情熱なんて、これっぽっちも自分の中には残っていないと…。この寂しさを胸に抱えたままで、これからの1年を乗り切る自信なんて、到底、なかった。

 だけどあの頃、呆けたり腑抜けになったりしている暇など、唯には許されていなかったのも事実。
 保育園には春休みなどというものはなく、地獄のような年度末の忙しさが過ぎると、その翌日からすぐ、新しい日々がやって来る。
 4月、唯が新たに担任となったのは2歳児のクラス。いまだに心のどこかが麻痺しているかのような、半ば夢の中にいるような、ぼんやりした気持のまま、教室の扉を開けた彼女を待っていたのは…。
 この世の終わりのように泣き喚く、たくさんの小さな子供たちの群れだった。

 園長に言わせると、どうしたわけか今年度は2歳児の「当り年」であったらしい。
 実にクラスの半数以上が、これから初めて集団生活を経験する新入園児。初日の朝ともなれば、母親と離れるのを嫌がって泣き出す子供が続出するのは当然の成り行きだった。
 そんな困難な状況が予想されたからこそ、唯が担任に選ばれたわけで…。
 とはいえ、予想はしていたものの、園での生活に慣れたはずの在園児たちさえもが、この光景に脅えて泣き出すほどの、予想以上の事態…。わけもわからず泣き続ける子供たちを前に、心はいっぺんに、現実に引き戻された。どうにかしなくては、と半ば本能的に、唯は自分に言い聞かせる。
 それまで当り前だと思っていた日々を失うことの辛さなら、唯も今、痛いほど知ってる。環境の変化は大人にだってこんなにも辛い。2歳の子供にとっては、もっともっと辛いものだろう。何としてでも、彼らに笑顔を取り戻させてやらなくては。それが出来るのは、自分しかいないのだから…。

 それは、燃え尽きるかと思われた彼女の心に、新たな火がついた一瞬…だったかもしれない。

 日々は再び慌しく回り始めた。奮闘の甲斐あって、1ヶ月も経たないうちに全ての子供が笑顔で朝を迎えられるようになり、誰もが何年も前からここにいるような顔で、園の中を走り回るようになった。親達には「日曜日まで登園したがって困る」と苦笑混じりに言われるほどで…。
 もう立ち直れないと思っていたことが嘘のようだと思う。この1年を、どうにか無難に乗り切る自信すらなかったというのに…。パワー全開で泣き、笑い、ちょこまかと走り回る小さな子供たちを相手にあたふたしているうちに、彼女はあらゆることを忘れてしまったんだった。
 あれほど離れがたかった過去は遠ざかり、ただ、目の前で起こる嬉しいこと、困ったこと、楽しいこと、大変なことを受け止め、追いかけることに、気が付けば夢中になっている。
 そんな風にして、半年が夢中に過ぎ、唯は、今目の前にいる子供達に、新たな強い思いを無理なくかけることの自分に気付いていた。つくづく自分はこの仕事が好きなのだなあと、苦笑したいような気持にも、なるのだけれど。

 だけど本当はわかっていたのだ。自分が燃え尽きずここまで走り続けて来られた本当の理由…。
 それが、未だ胸の中にぽっかりと残る、大きな空白のせいかもしれないということも。

 忙しく園の中を走り回る日々の中、時おり篤矢とすれ違うことがある。
 彼とはもう、仕事上の接点もなく、言葉を交わす機会もなくなっていた。ばたばたとお互いの仕事をこなしながら偶然顔を合わせる短い時間の中ですら、篤矢が唯のために足を止めることはもはや、なかった。
 少し前までの親密さが信じられないような、冷淡なその様子を、寂しいと思ういわれはないのだと思う。それはまったく無自覚なもので、彼の心は100パーセント、新しい仕事や新しい人間関係に向けられていて、かつてのパートナーを省みる余裕など、まったく残されていないことがよくわかったから…。
 今年度の年長児の担任は、去年何度も唯と衝突した、あの後輩だった。相変わらず、子供達にはのびのび自由に、決して無理をさせたくないという考えを持つ彼女は、早くも副担任である篤矢とは意見が合わなくなっているという話を、最初の頃、唯は他の同僚から聞いた。
 気持の上では例え篤矢を好きでも、だからと言って仕事上の信念を曲げようとしない彼女の姿勢は、いかにも、彼女らしい。だけど、だからこそ感情的になってしまう部分もあるに違いなくて、彼女の胸の内を理解できない篤矢は、さぞやりにくいことだろうと想像できた。彼には昔から、そうした感情に鈍感なところがある。
 でも、だからこそ、そんな相手だからこそ篤矢は、どうにか歩み寄ろうと痛々しいほどに気をつかい、努力を重ねるであろうことも、唯にはわかっていた。自分自身のプライドよりも何よりも、大切にすべきものを、大切にする、彼はそういう男だったから。
 篤矢もまた、今までにない困難にぶつかっている。彼とすれ違うたび、ピリピリとした余裕のない空気を感じて、胸が痛くなった。どこかしら上の空な笑顔が、切なかった。

 「おはようございます…」と、他人行儀な笑顔と挨拶を残し、心ここに在らずといった風に歩み去って行くその後姿を、彼女もまた、足を止めて見送ることはない。立ち止まってはいけない、振り返ってはいけない。胸の中を噛む微かな痛みを持て余しながら、いつも、無意識の内にそう心でつぶやいている。
 この人にだけは、これ以上、失望されたくない…そう思うから。
 篤矢と共に仕事をした最後の日々のことを、唯は時々、苦い思いと共に思い出す。寂しいという感情に溺れ、まるで仕事にならなかった。最後まで、彼の冷静さに甘えっぱなしだった。最後の日に教室を出て行った彼の、唐突な沈黙と、何ともいえない表情……。もう、いい加減疲れていたんだわ。彼でなくったって、疲れるだろう。とっくに見限られてしまったとしても、仕方がないと思う。
 過ぎてしまったことはどうにもならない。だけどもうこれ以上、同じ仕事をする者として、駄目な奴なのだとは思われたくない。彼にだけは、軽蔑されたくない。そんな思いが胸にあるからこそ、彼女はひとりで頑張って来られたのかもしれない。

 頑張って、私はあなたの味方だから…。
 振り返って見ることのないその後ろ姿に、唯はいつも心の中でそう、呼びかける。その声が、決して篤矢の胸に届くことがないのは、いかにも寂しいことであったけれども。



 そんな複雑な思いを抱えながら、淡々と続いていた彼女の日常に、ある日、爆弾が落とされた。

「え? 今…なんて?」
 うれしそうににこにこと笑いながら、恭平がたった今口にした言葉が、にわかには飲み込めなかった。
「だから、転勤が決まったんだって」
 恭平はその笑顔を崩すことなく、繰り返した。唯は返す言葉をなくし、その言葉の持つ意味を、頭の中で何度も反芻する。 
「田舎に……帰るってこと?」
 決して短くはない沈黙の後、半ば呆然としてつぶやいた唯の反応を不審におもったのか、恭平はさすがに訝しげな顔をした。唯はあわてて笑顔を作り、言葉をつなぐ。
「そ、そっかあ。やっと決まったんだ」
 恭平の転勤願いが通ったら、故郷の街へふたりして帰り、結婚する。自分達の間にあった「暗黙の了解事項」を決して忘れていたわけではない。
 だけどそれは何となく、ずっとずっと先のことだと思っていた。

 9月も半ばを過ぎていた。運動会を控え、唯は相変わらず忙しい日々を送っていた。思えば、毎日のように篤矢と残業して、衣装を作ったり振り付けを考えたりしていたあの頃から、もう1年が過ぎたんだわと、ふと、不思議な感慨を覚える。
 自分自身の意志とは関係のないところで、時が流れて行くような心もとなさを感じる。だけど、何となく、このまま日々は続いて行くような気がしていたのだ。この半年間、ずっと目の前のものしか見えないまま、走り続けてきたせいかもしれない。
 気持を切り替えなくては。唯は目を閉じ、目の前にいるこの見慣れた男の子との未来を、改めて胸に描いてみようとする。
 それは、簡単なことであったはずなのに…。

「いっしょに、帰るだろ? お前は3月まで仕事、辞められないだろうから、俺が先に行くことになるけど」
「いつ、行くことになるの?」
「1週間後。一応、辞令はそうなってるから」
「うそでしょ?!」
 仮にも、何年も過ごした街を離れることになるというのに、この落ち着きぶりは一体、なんなのだろう。唯にとっては青天の霹靂としか思えないことが、恭平にとっては当然の成り行きなのだった。でも、それはそうかも知れない。彼は、ずっとずっと待ち続けていたのだから、自分の人生が、ひとつのところに落ち着くのを…。そのための帰郷で、そのための結婚だった。彼はそうしたことを大切にする男の子だったから。
 実家の親や祖母たちの喜ぶ顔が、目に浮かぶ。担任なんてほっぽっといて、すぐに帰って来なさい、なんて言われそうだ。もともと、そのつもりでこちらへ来たのだ。これで、いいのかも知れない。
 相変わらずの、ほんわかとした笑顔を浮かべて、恭平は唯が何か言うのを待っていた。ああ、と気付く。これって一応、プロポーズなんだわ。初めから答えは決まっている、お気楽なプロポーズ。唯にだって異存はないはず。彼と共に居ることの安定を、彼女は何よりも望んでいたはずなのだから。
 なのに…。

 はっきりと、答を返すことができなかったのは、どうしたわけだったんだろう。
Just Lovers 12へ
Just Lovers 14へ

Novel topへ
メールフォーム