Just Lovers 12



 早くその日が来て欲しいような、いつまでも来て欲しくないような…そんな複雑な唯の思いに関わりなく、淡々と時は流れる。子供たちにとっては最後の行事、サッカー大会の日は、あっという間にやって来た。

 その日、試合そのものにも様々なドラマはあったのだけれど、結果だけを言えば、女の子のチームは見事に優勝、男の子達は健闘したものの、時間切れ最後の瞬間にゴールを決められ、惜しいところでの準優勝となった。
 30近いチームの中での準優勝なのだから、それでも大したものだったと思う。だけど、ぎりぎりのところで負けてしまったことがよほど悔しかったのだろう。唯のところへ戻って来たとたん、彼らは次々に泣き出した。
 その泣き方ときたら、こんなに小さいというのに、皆きちんとした「男泣き」で…。
 彼らを順番に抱きしめ、小さな肩や背中をたたいて健闘を称えながら、唯はなんだか、思いっきり泣き笑いしたくなるような、妙な気持になった。やがて、側にいた女の子たちももらい泣きを始め、周囲は涙の大合唱となる。
 胸が…熱い。
 すぐ横に立っていた篤矢を見る。彼もまた、泣き笑いのような、なんとも言えない表情に笑顔を浮かべて、唯に視線を返し、うなずいた。いつも穏やかで冷静な彼が、こんな顔をするのは初めてのことで…。

 自分たちが子供たちに、最後の、そして何よりも大きな宝物を残せたことを、唯は悟った。



 それから後の日々は、唯にとっても宝物のような大切な日々に違いなかったけれど、日に日に大きくなる寂しさに、胸が押しつぶされそうな痛みに耐えなくてはならない、辛い毎日だった。
 1日、また1日と、3月のカレンダーが残り少なくなるごとに、気持が不安定になってゆくのが自分でもわかる。毎日の何気ないふとした瞬間にも、これが最後なのだと思うと不意に泣き出しそうになってしまって、困る。
 あまりにも思いをかけすぎたのだ、この子供たちに…。
 「そんなに一生懸命やってると、後が辛いわよ」とは、彼女の働きぶりを見ている先輩や同僚達に、昨年あたりから何度も言われた言葉。確かに辛いだろうとは思っていたけれど、正直、こんなに辛くなるとは思わなかった。
 そばにいる篤矢が、内面はどうあれ、淡々と穏やかな態度をくずさず、仕事を続けてくれているのが救いだった。自分がこの大切な日々を、どうにか冷静さをなくさずに乗り切ることができたのは、ひとえに彼のおかげだったと唯は思う。その反面、同じ仕事をするものとして、そんな自分が情けなくもなったのだけれど。



 絶対に泣くものかという決心と共に眠りについたというのに、朝、いきなりぽろぽろとこぼれる涙と共に目を覚まし、さすがに自分が恐ろしくなる。年長組担任としての唯の最後の1日は、そんな風にして始まった。

 少し前にあった卒園式を思い出す。あのときからして、もうすでにぼろぼろだったのだ。保育自体は3月いっぱいまで続くから、彼らと過ごす時間はこれが最後という訳でもなかったのに、子供たちひとりひとりの名前を呼んでいるうちに、涙があふれて止まらなくなった。彼らの練習の成果である歌や「お別れの言葉」は、きちんと見てあげなくてはと、どうにか涙を堪えて見ていることができたけれど、式が終わったとたん、後のことを篤矢にまかせて、トイレに駆け込まねばならなくなった。
 先生がそうなのだから、子供たちもみんな、号泣状態。親たちに頼まれて撮った写真は誰もが泣き顔ばかりで、例年にないほど涙、涙の卒園式は、後々の語り草になってしまったほどだった。

 あの時あれだけ泣いたのだから、もう、涙なんて残ってないだろう。後の日々は、どうにか普通に乗り切ることが出来るかも知れない…それが彼女の希望的予測だったのだけれど。
 それは、あまりにも希望的に過ぎる予測だったかもしれない。

「お…おい、大丈夫か?」
 隣で寝ていた恭平が目を覚まし、唯の泣き顔を見て、仰天した。どうやらこの能天気な男は、ここしばらく自分の彼女がどれほどナーバスになっていたか、まったく気付いていなかったらしい。機械的に出勤の準備をこなす間も涙がなかなか止まらず、どうにか外に出て行ける顔を作るのに苦労している唯を見て、これはタダゴトではないと気づいたらしいものの、わけがわからないといった様子で、おろおろしている。
 それはまったくいつも呑気な彼らしくもない取り乱しようで…。
 そんな彼を見て、唯は逆に、少し冷静になれた。だから恭平には感謝すべきだったかもしれない。
「お前そんなんで、ほんとに大丈夫なのか? なんだったら、職場まで送ってくぞ。今日は別に、会社休んでもいいし…」
「な…何、言ってんのよ。そんなことで会社休まないでよ」
 心配のあまりか、とんでもないことを言い出した彼氏に、慌ててそう答を返した時には、例え一時的にせよ涙は止まっていたのだから。
 

 教室の扉を開け、先に来ていた篤矢と顔を合わせた瞬間、なぜだか急に激しく胸が痛むのを唯は感じた。この痛みは一体、なんなのだろうと考える間もなく、既に集まっている子供たちの前に立ち、彼女は最後の1日を始めることになる。
 もう、すっかり馴染みになったいくつもの小さな顔。この同じ教室で、初めて彼らを前にした時のことを思えば、本当に皆それぞれ、大人びた顔つきになったと改めて思う。本当に自分は、ひとりひとりの成長を、悔いなく見守ることができただろうか。ここから先はもう、変わってゆく彼らを見ることはできない。
 彼らがどう変わろうと、もう、唯の手には届かない…。一瞬、様々な思いが胸にあふれて、彼女は小さく息をついた。
 皆の後ろから、気がかりそうにこちらを見守る篤矢と目が合い、どうにか持ち直す。
 宝石のように大切な、この最後の時間を、ともかく笑顔で乗り切ろう。そう覚悟を決める。

 覚悟は決めたものの、その日はやはり、唯にとって試練の一日だった。
 朝の挨拶、外遊び、給食。いつも通りの日課のひとつひとつを、いつも通りに過ごそうとするのだけれど、ことあるごとに涙ぐんでしまうのを止められない。さすがの篤矢も今日は寂しさを隠せない様子で、これではいけないと途中ふたりで話し合い、後半はどうにか楽しく過ごすことが出来たのだけれど…。

 3時を過ぎ、仕事を終えた親たちが順々にやって来て、子供たちが帰ってゆくのを、ひとりひとり、見送るのは本当にきつかった。
 彼らが唯の子供たちとして、ここへやって来ることは、もう二度とないのだ。
 ひとりひとりを最後に抱きしめ、別れを告げ、見慣れた制服姿の背中が門の向こうに消えて行くのを何度も見送り…。
 すべてが終わったとき、唯は自分が空っぽになってしまったような気持に襲われた。


 子供たちのいなくなった教室で、片づけをしながら、唯はやはり、ぼろぼろと泣き続けるのを止めることができない。子供たちや他の先生たちの前ではぎりぎりのところでどうにか取り繕っていたけれど、もう、だめだった。この年長組の教室も、もう、自分の教室ではなくなる。そう思うとよけいに泣けてくる。
 教室にいるのは、唯の他には篤矢だけだった。この1ヶ月で彼女の泣き顔にはすっかり慣れてしまったらしく、彼がさして気にしないでいてくれるのが、ありがたかった。
「こっち、終わりました。何か手伝うことはありますか?」
 いつもと同じ、穏やかな声が、唯にたずねる。彼女はどうにか顔を上げ、首を横に振った。
 その泣きはらした顔を見て、篤矢の表情に、さすがに気がかりそうな色が浮かぶ。
「大丈夫ですか?」
 ティッシュの箱を手渡しながら、彼は聞いた。
「大丈夫です。すみません。迷惑ばかりかけて…」
 涙をふきながら、彼女は謝る。ふいた先から、またじわりと涙が滲む。

「この仕事、ほんとに私に向いてるのか、わからなくなってきました」
 どうにか笑おうと努力をしながら、彼女は言葉を続けた。冗談のつもりで口にした言葉だが、あながち冗談でもないような気がしてくるから、始末が悪い。
 この時期はいつも辛いのだけれど、今年は特に辛い。思いをかければかけるほど、辛くなる。こんなに辛い思いを、これから先、何度繰り返さなくてはならないのだろう。仕事は仕事として割り切ることの出来ない自分は、本当はこの仕事に相応しくないのかもしれない。
 そんな思いにとらわれる。

「向いてるのかどうかは、俺にもわかりません」
 少し笑って、篤矢は答えた。「でも…」と言葉を切って、彼は唯を真っ直ぐに見る。
「この1年間、ほんと、楽しかったですよ。俺は…。唯先生といっしょに仕事が出来て良かった。他の先生とじゃ、こうは行かなかったと思います。俺にとってもたぶん、この1年は、宝物…だと…」
 不意に言葉が途切れる。彼女をじっと見つめるその瞳から、一瞬、いつもの笑みが消えた。

 篤矢はわずかにうつむいた。それ以上、言葉が出てこないようだった。
 だけど、それは一瞬だけのこと。

「すみません、先に出てます。もうすぐ職員会議が始まりますよ」
 すぐに落ち着きを取り戻し、彼はいつものように穏やかに言った。
 「お疲れ様でした」と、背を向けたまま続けられた言葉が、わずかに震えたような気がした。急に静かになった教室に、唯はひとり、残される。
 どうしたのだろう。今の篤矢は、いつもの篤矢じゃなかった。彼にとってもやはり、今日は辛く長い1日だったのかも知れない。
 甘え過ぎていた…今さらのように、唯は自分が情けなくなる。
 俺は、とことん、唯先生について行きますよ…あの言葉をもう一度聞きたい。そういう自分でありたいと切実に思った。
 だけど、それはもうかなわない。

 明日からは、彼が「ついて行く」相手も、もう唯ではなくなるのだった。そのことに気付き、彼女は取り返しのつかないものを失ってしまったような寂しさに、再びとらわれた。
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