Just Lovers 11



  どうにか感情を抑え、冷静さを取り戻すと、今度は気恥ずかしさに居たたまれない気持になってくる。あれこれと言い訳を考えながら、唯はゆっくりと立ち上がった。
 篤矢は篤矢で、どう声をかけたら良いのかわからないらしく、少し困ったような顔で立ち尽くしていたが、やがて思いついたように、口を開いた。
「もしかして、気にしてるんですか? 今日の職員会議のこと」
 そう言われて、ああ、と思い出す。そういえば、あれも今日のことだったっけ。いろいろあって心が弱っている。だからこそ余計に拓の言葉が胸にこたえたのかもしれない。
 このところ、なんだかさえないことばかりだわ。内心苦笑しながら、唯は首を横に振った。
「すみません。何でもないんです」
 そっけなく答えて笑顔を作る。言い訳にも何もなっていないのはわかっていたけれど、それが今の彼女にできる、精一杯の反応だった。この、もやもやとした気持を、とことん複雑になってしまった自分たちの関係を、どう説明することもできない。
 そして、誰かに話したところでどうなるわけでもないのだ。訝しげな篤矢の視線を避けるように、唯は「帰ります」と言って、教室を出ようとしたのだけれど。

 不意に「唯先生…」と呼び止められる。
 振り返ると、いつもと同じ穏やかな笑顔のまま、彼はたずねた。
「今日、これからの予定は?」
 まるで、仕事の話の延長のようにさりげない物言いだった。唯は思わず、「いえ、何も…」と、正直に答えてしまう。
「じゃあ、飲みに行きましょう。こういう時は、ぱーっと飲むのがいちばんです」
 彼はそう言って、にっと笑った。その言葉と笑顔の持つ奇妙な説得力に、唯はつりこまれるようにうなずいてしまったんだった。


 「こういう時は、飲むのがいちばん」と篤矢は言ったけれど、結局ふたりとも、それほど飲んだわけではなかった。とにかく話をするのに忙しくて……。
 こうして仕事を離れた場所で、時間を忘れて篤矢とサシで向かい合うことなど、考えてみれば、初めてのことなんだった。最初のうちこそ、同情を買うような形で彼に誘わせてしまったことに対する後ろめたさで、なんとなく無口になっていた唯だったのだけれど……。
 そんな感情は、最初に運ばれてきたビールのジョッキで乾杯をしてから、5分と立たないうちにすっかり消えてしまった。

 とは言っても、彼と話すことといえば、仕事のこと以外になかったのだけれど。だけどそれが彼女にとっていちばん大切なものだったのだ。恋愛よりも、何よりも…。
 年長組の担任としての日々は、あとわずかになっていたけれど、その分、これまでやってきたことの思い出話は尽きなかった。子供達に対する思いも深いものになっていたし、残りの時間の中でやってあげたいことはといえば、それこそ数え切れないほどあった。
 そしてこの1年を共にしてきた篤矢も同じ気持でいたから、このふたりの間には、いくらでも、話すことがあったのだ。園児たちひとりひとりの名前を挙げてあれこれ話をしているだけで、時間がいくらあっても足りないような気がした。
 そうすることで、すっかり救われている自分に、唯は気付いていた。そう、彼女にとって、恋愛はいつも小さな2番目。拓のことも、舞実のことも、恭平のことも、取るに足りないことのような気がして来た。それに、くよくよしたって何にもならないことじゃないの。人の気持なんて、どうにもならない。すべてはなるようにしかならない。それなら、自分のやれること、大切なことに全力を尽くそう。恋になんて、ひっかかっている場合じゃない。

 そんな気持を取り戻せたこと、そして、取り戻させてくれた篤矢に、唯は心の中で密かに感謝した。

「そうだ。サッカー大会のことですが…」
 最後にふと思い出したように、篤矢は言った。
「どうせなら、優勝を目指しましょう。得意な子にも、そうでない子にも、120%の力を出してもらいましょう。その経験は絶対に、子供達にとって一生消えない宝物になるはずだから」
 唯は一瞬、言葉を失って彼を見た。どうして…?と思う。どうしてこの人は、自分の言いたいこと、やりたいこと、目指したいものを、こんなにもわかってくれるんだろう。
 半ば呆然として彼を見つめる唯の気持を読み取ったかのように、篤矢は笑って言葉を重ねた。

「俺は、とことん、唯先生について行きますよ」

 その笑顔の力強さ、まっすぐに自分を見る瞳の強さに、思わず、どきんとした。別に目新しいことを言われたわけじゃない。半ば冗談のように、これまで何度となく彼が口にしてきた、耳慣れた言葉だったのに。
 今日ほどそれが、切実に胸に響いたことはなかった。
 ただ単に仕事の上だけのことじゃない。唯という人間すべてを、今彼はその言葉でしっかりと受け止め肯定してくれたような気がして……。

 なんだか、やけに顔が熱い。頬に血が上っていることを悟られはしないかと、唯は慌ててうつむいた。


 それから後の日々、吹っ切れたように唯はひたすら走り出した。子供たちと過ごせる時間は、もう、ひと月も残されてはいなかった。あの後輩に言われなくても、園生活最後の日々を少しでも楽しく過ごさせてあげたいという気持があり、一方で、全力を出し切った…自分自身の可能性を越え、120%の力を出すことが出来たという思いを、どの子にも最後に経験させてあげたかった。
 これからの短い時間の中で、それだけのことをするのは、不可能なことのようにも思えたのだけれど…。
 誰に何と言われようとも、唯はもう、迷わなかった。何よりも、目の前にいる子供たちの笑顔が救いだった。彼らを見ていると、勇気が湧いてくる。ただ単に、自分の思いを押し付けているわけじゃない。彼らの小さな胸の内は、いつだって、誰よりも気にしている。その瞳が、少しでも曇るようなことがあれば、それ以上の無理はさせない。
 だけど、得意な子は得意な子なりに、苦手な子は苦手な子なりに、今の自分では満足できないという思いを、誰もが秘めているものなのだ。自分自身の殻を破りたい…その欲求は、日々ダイナミックに成長している小さな子供であるほど、強いものだと思う。
 だからこそ、その手助けをすることに唯はいつも夢中になってきたし、自分には無理だと思えたことを、見事にやり遂げた子供たちの笑顔を、何よりもの宝物にしてきたのだった。

 もしかしたらこの人も、自分と同じ思いを胸に、この1年間を過ごしてきたのかもしれない。自分の隣に立ち、サッカーボールを追いかける子供たちひとりひとりの名前を、大きな声で呼んで指示を出す、篤矢の楽しげな横顔を見ながら、唯は今さらのように、そんなことに気付いている。
 彼は今や、唯以上に張り切っていた。体操を専門とする彼にとっては、サッカーの指導もまた得意分野で、むしろ唯の方が引っ張って行ってもらっているような具合だった。子供たちそれぞれに120%の力を出してもらう…その言葉は、本気だったのだ。
 …にもかかわらず、不思議なことに、彼の表情にはいつもどこかしら余裕が見られる。唯はといえば、熱心さが過ぎて、つい余裕をなくしてしまうこともたびたびだったのだけれど(その辺りをあの後輩にも突っ込まれたりもするのだけれど)、篤矢にはまったく、そんなところがない。彼が少しでも声を荒げたり、子供たちに厳しく接したりするところなど、唯は一度も見たことがなかった。
 なのにきちんと、子供たちは篤矢についてくるのだ。いったい、どんな魔法を使っているのだろうと不思議になるのだけれど、彼を見ているとわかるような気もする。この仕事をしていることが、子供たちと接することが、楽しくて仕方がない……そんな空気が、自然に彼らをひきつけるのだ。

 改めて見ていると、この1年間、行動を共にし、唯のサポート役に徹してきてくれたこの人は、まったく大した男なのだった。短い期間に、驚くほどの上達を遂げてゆく子供たちを目の前にして、彼女はそのことを実感せずにはいられない。
 ―俺は、唯先生について行きますよ―
 その言葉の重さを、今さらのように、ひしひしと感じている。



 そして、恭平の居場所はといえば…本当に申し訳ないことなのだけれど、もはや今のところ唯の胸の中に、あまり残されてはいないのだった。
 もう、彼がいつ舞実と会っていようが、そんなことは気にもならず、ときおり自分の部屋を訪れる彼と顔を合わせることでもなければ、恭平という恋人がいることすら、忘れてしまいがちな有様で……。彼のことは、無意識の内に考えまいとしているのだろうか、その屈託のない笑顔を見るたび、罪悪感にかられて自問してみるのだけれど。
 どうやらそういう訳でもないようだった。今は、本当に余裕がないのだ。仕事に力を使い果たして帰ってくれば、もう、口をきくのも億劫なほど、疲れ果てている。向かい合って、二言、三言、言葉を交わしているうちに、倒れるように机に突っ伏して眠ってしまうこともたびたびだった。
 突っ走る唯の性格を知っている恭平は、今さら唯のそんな姿を見ても、驚いたりしない。少しは心配しても良さそうなものだし、「無理すんなよ」の一言ぐらい口にしても良さそうなものだが、そんな素振りすら見せない。今の彼女にそんなことを言っても無駄なことを、これまでの経験からわかっているに違いない。
 それでも、いつも心ここにあらずな恋人に会ったって面白くもなんともないだろうに、律儀に訪ねて来てくれるのは、彼なりに唯のことを気にかけているからだろう。それを考えると、申し訳なさに身体が小さくなるような心地もする唯だったのだけれど。
 いろんな意味で、今、恭平と向き合うことは到底無理なことに思えた。もう少しして、すべてが終われば、彼のことを考える余裕も生まれてくるのだろうか。

 だけど、この日々が終わったとき、いったい自分はどうなっているのだろう。あまりにも目の前の子供たちに思いをかけ過ぎている彼女には、考えるのが恐ろしいほど、予想のつかないことなのだった。
 もちろん、その日は確実にやって来るに違いないのだけれど…。

Just Lovers 10へ
Just Lovers 12へ

Novel topへ
メールフォーム