Just Lovers 10



 それは、ある日の夕方、少しばかり長引いた職員会議がようやく終わった時のこと。
 例の年中組の担任である後輩と、言い争わずにはいられない立場に追い込まれて、態度にこそ出さないものの、唯はかなりへこんでいた。
 もう2月も終わり頃、年長組の子供たちにとって最後の行事であるサッカー大会を控えて、集中的な練習が始まって間もない頃のことだった。例によっていつものごとく、その練習が厳し過ぎると、かなりきつい口調で糾弾されたのだ。彼女のそういう態度にはもう慣れっこになっていたとは言うものの、やはり、ぐったりと疲れてしまって…。
 子供たちへの思いは人それぞれだということを、どうして彼女は認めてくれないんだろう。

 地域の保育園の年長組ばかりが一同に会して開かれるその大会は、なかなかに、たかが園児のサッカーなどとあなどるわけにはいかないものだった。昨今、どこの保育園もスポーツには力を入れていて、子供たちの大好きなサッカーともなれば、卒園を目前とした行事だけに、親たちも巻き込んで相当な盛り上がりを見せる。毎年、どこもかなりのレベルで、それだけに力を入れずにはいられないのだ。
 勝つにしても、負けるにしても、ベストを尽くした…という達成感だけは味わわせて上げたい。それが唯の切なる思いだった。あとひと月もすれば、子供たちは彼女の元を巣立って行ってしまう。自分が子供たちに何かを与えて上げられるのはこれが最後だと思うだけに、本気だった。そんな唯にこの1年間、きちんとついてきてくれた子供たちなのだ。彼らが何を望んでいるか、何を望まないかということぐらい、自分がいちばんわかっている。
 正直言って、今さら外野からあれこれ言われたくないというのが彼女の本音。かと言って会議の場で負けずきつい言葉を返すわけにも行かず、例によって篤矢があれこれと助け舟を出してくれて、どうにか場は収まったわけなのだけれど…。
 悔しい思いはどうにも消すことができなかった。頭が熱くなっていて、今日自分がゴミ出し当番だということを、忘れてしまっていた。帰る直前になって、あわてて大きなゴミ袋を抱えて飛び出したとたん…。
 作業服を着た舞実の元彼と、思いがけずばったりと顔を合わせることになってしまったんだった。

 そういえば、お掃除関係のバイトをしていた縁で、空気清浄機のメンテナンスの仕事に就いたと聞いたことがある。社名を聞けば、それは唯の保育園にも出入りしている業者で、その地域は今は自分の担当じゃないけれど、いつかまた行くこともあるかも知んねーなと笑っていた。だから、こういうことがあってもおかしくはなかったのだけれど。
「ひさしぶりじゃん」
 唯と会うことを初めから予想していたらしい彼は、余裕の態度で笑って言った。少しくたびれた感じの作業服が、ずい分と板について見える。休憩中だったらしく、くわえ煙草でバンの荷台に腰かけていた彼は、以前よりもずっと、大人びて見えた。驚きの次に、唯の心に懐かしい気持が広がる。
「びっくりした。こっちの方、担当になったの?」
「いんや、同僚が風邪で倒れて、今日はピンチヒッター」
 そう答えて彼は、唯の抱えていた大きなゴミ袋を持ってくれた。ゴミ捨て場まで歩きながら、舞実のことは注意深く避けつつ、お互いに無難な近況報告などをする。
 そこまでは、良かったのだけれど。

「あいつ、また、会ってんじゃないの? あんたの彼氏と……」
 いきなり核心に触れることを言われ、どきりとした。4人で一緒に遊んでいた頃は、それなりに気を使っていたのだろうか。今のその口調はなんだか、あの頃と違って、どこか辛辣な感じがした。
 もしかすると、自分はずっと好かれていなかったのかもしれない、この男の子に…ふとそんな気がする。

「最近、よく遊んでるみたいよ。前は舞ちゃんも、あなたに遠慮してたみたいで、ふたりで遊ぶなんてことなかったけど」
「あんたには遠慮しないの?」
「私?」 動揺を押し隠し、あわてて笑顔を作る。「私はぜんぜん、気にならないもの」
「ふーん…」
 拓はそう相槌を打ったきり、軽く何かを考え込むかのように、しばらく黙っていた。なんだか、居心地が悪い。別れを告げるための口実をあれこれ考えていると、彼は再び口を開き、訊ねた。
「あいつ、俺と別れた理由、なんか言ってた?」
「男ばかりの職場にいるのが気にいらない……って…」
「マジ? そんなこと言ってたの?」
 その口元に苦笑が浮かぶ。「まあ、独占欲が強いってのは、認めるけど」
「違うの?」
「違うよ」
 彼は笑って、言葉を重ねた。
「…って言っても、舞実にははっきり言ってないけど。俺があいつと別れたほんとの理由は、たぶん、このままいくと勝てねーだろうなって、思ったからなんだ」
「あなたが、恭平に?」
 唯は思わず口を滑らせ、しまった、と思う。拓は、さすがに少し驚いて唯を見たが、やがて気を取り直した風に、微かに笑って首を横に振った。
「違う。あんたが、舞実に……」

 さすがに唯は、笑顔を返すことができない。ここまではっきり言ってもらえると、かえって小気味良いかも知れなかった。
「なんていうか、あんたら見てると、ぜんぜん恋人どうしって感じがしなかった。唯さんって、すっげえ、クールじゃん、彼氏に対して。舞実は舞実で、いつまでもあんたの彼氏にベタボレって感じだったし…。気持ってのは、そう簡単に止められねーんだよ。好きな男が、いつまでも目の前にいたら、なおさらだよ。あいつもずっと、辛かったんじゃないかと思うよ。なあ、唯さん」
 淡々とした口調が、むしろ胸に痛い。拓は静かな瞳で唯をじっと見て、再び訊ねた。
「なんで、何かっていうと俺たちのこと誘ったりしたの。どうして、そっとしといてくれなかったんだよ」


 誰もいなくなった教室、唯はいつまでもぼんやりと薄闇を見つめていた。
 帰らなくては、と思う。なのに、どうしても、立ち上がるための力がわいてこない。こんなことは彼女にとって本当に、珍しいことで…。
 どうしてしまったんだろう、と思う。

 どうして、そっとしておくことが出来なかったのか。それはやはり、舞実が友達だったから…としか言いようがない。彼女は大事な友達だった。自分にとっても、恭平にとっても。
 彼女に拓という彼氏ができて、恋愛だのなんだのややこしい感情抜きで付き合えるようになったことが、うれしかったから、自然と彼らを誘うことが増えた。拓もそれなりに気のいいやつで、4人でいることがお互いに楽しいのだと思っていた。
 想像もつかなかったのだ。拓があんなにも鬱屈した気持を抱いていたなんて。あの、舞実に似た真っ直ぐさを持つ男の子は、やはりずっと自分のことを嫌っていたんだった。そう思うと、気持がどこまでも沈みこんでゆくような心地がした。
 気持ってのは、そう簡単に止められねーんだよ…そう拓は言った。そんなこともわからなかった自分のお気楽さが、情けなくなる。
 拓と付き合っている間もずっと、舞実は自分の気持を止めることができなかったのだ。そうしようと努力しても、できなかった。目の前に好きな相手がいるのでなければ、それはそう難しいことではなかったはずなのに。
 どうして俺たちのこと、そっとしといてくれなかったんだよ…拓の言葉は今さらのように、ひとつひとつ彼女の胸を刺す。今さらのように、痛くて仕方がなかった。


「うわっ!!」
 突然、眩しい光と共に、素っ頓狂な叫び声が耳に飛び込んできた。唯は驚いて顔を上げる。
「ゆ…唯先生…。どうしたんですか?」
 篤矢だった。すっかり暗くなった教室に、まさか誰かがいるとは思わなかったのだろう。まぶしそうに目を細める唯を、仰天した瞳で見つめている。
 その顔を見たとき、懐かしさとあたたかさと、なんだかわけのわからないものが入り混じった感情が、不意に彼女の胸をいっぱいにし……。

 子供のように泣き出したくなるのを、唯は必死で堪えた。
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