−6− |
独りでいると、時間のたつのが速い。 気がつくと、もう十二月になってしまった。ここ最近、人が変わったみたいに勉強を始めて先生を驚かせている夏生は、今日も図書室にいる。 ブラバンの練習の音や、野球部の怒鳴り声もいつの間にか消えて、がらんとした部屋は薄暗い。あまり遅くならないうちに、そろそろ帰ろうかな。 鉛筆をくるくる回しながら、ぼーっとしてると、ふと首筋になまあったかいものを感じた。驚いて振り返ると、缶コーヒーを両手にもったリョウだった。 「最近、萩原ずっとここにいるって聞いたからさ」 こんなことはあまりにも久しぶりなので、夏生は目を丸くする。 「彼女は? 今日は一緒じゃないの?」 「そんなにいつも一緒にいるわけじゃないよ。俺、今日はスポーツ推薦のことで先生に呼ばれててさ」 「スポーツ推薦?」 「受かったんだ。○○体育大学」 「へえ、すごいじゃん。おめでとう」 「すごいんだかなんだか、これしか能がないもんでさ」 少なくともあと四年間、リョウは何も考えず安心して走っていられるのだ。そう思うと何だかうれしかった。 「萩原は、勉強してんの?」 「一応、受験生だから」 「そんなガラじゃないって思ってたけど」 ガラじゃないよねえ。確かに。だけど今の夏生にはとりあえずこれしかやることがない。 恋にかまけることのない毎日は、なんてどうしようもなくヒマなんだろう。息づまる空虚さに、彼女は未だ慣れることができない。 「ほれ、差し入れ」 「ありがとう」 ぱっかんとフタまで開けて差し出してくれた缶コーヒーだから、素直に受け取る。実を言うと、今はちょっと胃の調子が悪いのだけれど・・・・。 「わざわざこれ持ってきてくれたの?」 「うん」 短く答えたきり、何か言いたげな沈黙。辞書をぱらぱらとめくりながら、夏生は次の言葉を待つ。 「最近、元気ないんだって?」 「私が?」 「うん、クラスの奴らが言ってる」 「それで? 心配してくれてるの?」 「うん」 「参ったなあ」 陽の落ちかけた教室は急に肌寒くなって、夏生は少し身を縮める。きついバーボンが飲みたくなった。 「なんか、あったのかなって思ってね」 世界の終わりみたいに落ち込んでいるつもりはまったくない。 今までマスターのことを全然悟られずにきたように、今だって教室では普通の毎日を送っている。元気がない、だなんて、全く心外だったのだけれど・・・・。 「優しいのね」 「そういうんじゃないよ」 リョウは静かに答えると、夏生の隣に腰を降ろす。 「勝手に、気にしてるだけだから・・・・」 いつも遠慮がちに自分の思いを口にする。彼のそんな物言いを聞くのも久しぶりで、夏生は少し切なくなった。 でも、もうそれは私だけのものじゃ、ないんだもんね。 何も答えず彼女はノートを片付け始める。リョウは少し慌てたみたいだった。 「萩原、今日はチャリンコ?」 「ううん、今朝雨が降ってたから」 「駅まで一緒に行こうよ」 こんなふうに肩を並べて帰ったことが、今まで何度となくあったような気がする。 さすがにチャリ通のうえ帰宅部だった夏生とは、偶然を装ったって一緒に帰れることなんてめったになかったけれど、それでもリョウは根性でチャンスをものにした。 だけど、いつだって話すのは他愛のない冗談ばかり。夏生を退屈させないように気ばかり使って、意味深な沈黙を作り出すことなんて、彼には思いもよらないみたいだった。 今日もリョウは先生の噂話やなんかでひとしきり夏生を笑わせる。だけど駅に着いて二人ベンチに座ると、自然に言葉は途切れてしまった。 ホームには人影がなく、吹きつける風に夏生はコートの襟を合わせる。リョウはいつになく真面目な顔で、夏生を見た。 「元気になってくれて、良かったよ」 「元気ないつもりなんて、なかったんだけどな」 「何かあったんだったら、話聞くけど」 「うん」 話・・・・と夏生は思う。 どんなことを、この人に話せばいいんだろう。一年以上の間、胸を焦がしたこの恋のことを夏生が誰にも話せなかったのには理由がある。 「すごく好きな人がいたの。去年の夏ごろから」 「・・・・・・・・」 「だけどその人には奥さんがいて」 リョウの表情が変わる。夏生はさっそく話し出してしまったことを後悔した。 「奥さんはジャズシンガーだったんだけどアル中で、浮気はするしクスリはやるし、どうしようもない人だったのね。その人は奥さんに本気で惚れてたから、ずっと我慢してたんだけど、とうとう別れる決心をしたの」 「萩原を好きになったから?」 「そうかも知れない。でもわからない」 今となっては本当のことを知る術なんて何もない。 「とにかく、それで彼女と話をつけようとしたんだけれど・・・・」 「どうしたの? それで・・・・」 「それ以上言えない。でも、もう二度と彼には会えないの」 勘のいいリョウは、何かを感づいたかも知れない。 少し前に起きたあの事件を、夏生が事件の起こった店でバイトしていたことを、彼女のことをいつも気にかけているリョウが知らないはずないのだ。 だけど彼はそれ以上何も聞かず、しばらくの沈黙のあと、口を開いた。 「萩原は・・・・・・・・」 大きく息をついてリョウは言葉を続ける。 「ずっと誰かを好きなんだって思ってた。単なる勘だったんだけどさ。萩原がひかれるのは、俺の全然知らない世界の何かなんじゃないかなって」 じゅうぶんひかれていた。リョウと、リョウを取り巻く世界にも。だけど夏生はそれを口に出すことができなかった。 「それでも良かったんだ。そういう萩原が好きだったから。自信がないわけじゃなかったんだけど、好きだからどうこうしようなんて気持はさらさらなかった。自分はまだ高校生で、先は長いんだから、そんな恋をしててもいいんじゃないかって思ってさ」 「へんな奴」 夏生はぼそっと言ったが、心の中では結構動揺していた。 リョウが、好きだなんて言葉を口にするのは初めてだったから。 だけどそれは恋の告白なんてものとは趣を異にするものらしかった。 「まあね」と、リョウはこともなげに笑う。 「だけど三年生になってからの萩原は何だかおかしくて、独りでぽつんとしてることが多くなったし、たまに話しかけてもいつもぼんやりしてるしさ。真剣な恋愛をしてるんだなってことは、傍目にもわかったから、そろそろ潮時だと思ったんだ。なんか淋しかったけどさ」 もう何本か電車を見送っていた。 どうしてリョウは、今日に限ってそんな話をするんだろう。夏生はたまらなく淋しくなった。こんな季節にこんな所で、リョウの告白めいた話を聞いていると、自分の中で何かが終わっていくような気がする。 彼はただ単に、夏生を元気づけようとして、自分の思いを口にしているに過ぎないのだけれど。 でも、ついこんな皮肉を口にしてしまう。 「それで、他の女の子と付き合うことにしたのね」 リョウはいつもの、あの困ったような笑顔を見せた。 「でも萩原には未練たらたらなんだ。情けないけど」 胸が痛んで夏生は少しだけ目を閉じる。ホームには、何本目かの電車が着いた。それはリョウの乗る電車だった。 「元気出してよ。こんな不毛な恋愛をしてる男もいるんだからさ。萩原には、幸せになって欲しいって思ってる」 「じゃあ・・・・」と言ってリョウは電車に乗った。 夏生は曖昧な笑顔を浮かべて手を振り、何となくそこを立ち去れないまま川を渡る電車を見送っていた。 川の向こうの丘に夕日が沈みはじめ、息をのむほど鮮やかな空が川面に映り、夏生の目を痺れさせた。 あの日の光景を夏生は今でも覚えている。それは夏生がそれまで過ごしてきた、苦さと甘さの入り交じった暖かい時間の、最後の瞬間だったのだから。 あの時彼女の心の中には見えない壁ができてしまった。 教室の賑やかなざわめき、他愛ないおしゃべり、焦がれることのない幸せな片思い、それらのもの達を彼女は本当に愛していたのだけれど、もう未練なんてなかった。リョウの言う通り、彼女が本当にひかれていたのは、そんなものじゃなかったのだから・・・・。 |
back next |