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がちゃがちゃとお皿を洗いながら、夏生はちょっと不機嫌な顔をしている。

閉店まぎわのがらんとした店の中、マスターはカウンターの隅っこに座っている、別のアルバイトの女の子と、つまらない冗談にかまけているのだ。
その子は今日仕事ではなかったのだけれど、彼氏とここで待ち合わせなのだとかいって、ついさっきここに来たばかりだった。  

ふーん、今日はなんだか、躁みたいね。こんな騒々しい空気は夏生の得意とするところではない。店の中にはJBが流れていて、かん高いギターのカッティングや、唐突なウ!とかハ!とかいうかけ声が、よけいに彼女の神経にさわる。その子が最近好きなのだと言って勝手にかけたのだ。 きちんと彼氏もいる女の子に嫉妬するなんて、ばかみたい。
だけど、こんな空気の中にも自分を溶け込ませて楽しんでいるマスターを見てると、裏切られたような気がして淋しい。そのくせ、たとえ今だけでも彼の心を掴んでいる、その子の明るさが羨ましくなるのだ。
夏生は少し泣きたくなった。  

だけどそうこうしてるうちに、彼氏が姿を現す。夏生はほっとしてレジに立ち、彼氏の方からお金をもらった。
彼氏の腕にぶらさがって、「ほんじゃあ、またね」と屈託なく言うその子に、彼女はぼんやりとした笑顔を返す。  

二人の後ろ姿が雑踏の中に消えると、マスターはレコードプレイヤーのところに行き、騒々しい音楽がぷっつりと途絶えた。
彼は笑って夏生に言う。  
「普段聴くには悪くないけど、この店にJBは、ちょっとね」
閉店のカーテンを降ろした店の中に、ランプの光が暗くよどんで、夏生はぼんやりとそれを見ていた。カウンターに組んだ腕の上にあごを乗っけて・・・・。
マスターがかけた、サム・クックの静かなゴスペルが、心地良く彼女を包み込む。
さっき入れたばかりのバーボングラスはすっかり空になって、七面鳥の絵のついたボトルと共に、脇に押しやられている。  
看板を降ろして入ってきたマスターは、扉のところに立って、そんな彼女をしばらく見ていた。
「夏生はずい分、変わったな」
マスターの声に、彼女は我に返った。そんな言葉をどこかでも聞いたような気がする。  
「そんなことないよ」  
「若いくせに、落ち着いてて、人生を悟りきった大人って顔してる」  
「疲れて眠いだけだよ」
さっきまでお皿を洗いながら、泣きそうな顔をしていた夏生を、彼は知らない。
彼のいない世界で、彼女がどんな淋しさを抱えているか、これっぽっちも知らないのだ。
強い酒とブルースに、すっかりとろけてしまった時間がここにある。いろんなことが、どうでも良くなってくる。
そんな投げやりな諦めの気持を、人は大人と言ったりするのだ。  

彼は夏生の横に立ち、カウンターの上のバーボンをとって、自分のグラスに注いだ。そして夏生のグラスをとって、氷と酒を放り込み、かしゃかしゃとかき回す。
その短い沈黙の間、彼は彼女の方を見ようとはせず、何か大事なことを言おうとしてためらっていた。

「奥さんと、別れようと思ってね」  
「え?」

驚いて夏生は彼を見る。
いや、この間の奥さんの言葉を聞いて、遠からず二人は別れるのだと思っていた。だけど、どうしてそんなことを今自分に言うのだろう。
重大な告白をするような口ぶりで。  
それ以上夏生は考えることも、言葉を返すこともできなかった。
気がつくと彼女は、彼の腕の中にすっぽりと包まれていたから。
びっくりして顔を上げた彼女の唇はふさがれ、長いキスの間、夏生は息ができなかった。  

「どうして?」
ようやく解放されたものの、顎の下にぴったりおさまった頭を、上げることができないまま、彼女は聞いた。
息が苦しくて、ちゃんと声がでない。かすれた声を聞いて彼は、彼女を抱いていた腕をゆるめた。
「もう限界なんだ。彼女と一緒にいると、先が見えない」
夏生はうなずいた。
わたしたちは無責任で素敵なものを、一緒にたくさん見過ぎたのよ。彼と一緒だと、現実を受け入れることは難しい。それでも何とかしようと、長いこと苦しんできたけれど・・・・。  
「共有するものが、多すぎたってわけなのね」
彼女は独り言のようにつぶやいた。彼はそんな彼女を不思議そうに見たが、その言葉には答えず、話を続ける。  

「人生にわずらわしいことがいっぱいあるのは、世の中が悪いからだと思ってた。彼女と身を寄せ合って、この街の中で暮らしている限り、いつまでも楽しくやれるような気がしていたんだ。だけど今は、彼女といる方が辛い。いろんなことが見え始めてきたから。何が間違っているにしても、俺も彼女も自分を変えるしかないんだ。生き続けたいと思うんならね」  
バーボンを満たしたグラスをじっと見ながら、彼はそう一気に言い、ふと我に返って夏生に視線を移し、笑った。  
「こういうことを言いたいわけじゃ、なかったんだけど・・・・」

夏生は戸惑いながらも胸が熱くなった。
こういう彼の真っ直ぐさと不器用さが大好きだった。でも、つい、心配になってこう尋ねてしまう。 
「でも、奥さんと別れて大丈夫なの? 独りになっても、大丈夫?」  
「うん、その事を言いたかったんだ」

彼ははほっとしたように笑った。  

「夏生がいるから、大丈夫だよ」

レコードはいつの間にか終わっていた。夏生は自分の息づかいが、心臓の音が、彼に聞こえるんじゃないかと心配になる。
カウンターに置いた手が震えているのを、顔が熱く火照っているのを、彼は見ただろうか? 
いや、気づかれてもいいのだ。それらの全てを、彼は今のひとことで、受け入れてくれたのだから・・・・。  
「ほんとなの?」
返事の代わりに、彼はもう一度夏生を抱きしめた。リョウのことも、彼女を友達として受け入れてくれた女の子たちのことも、放課後のロッカー室のざわめきも、彼女の中からすうっと遠のいていった。二度とは帰ってこないであろうそれらを、夏生は一瞬追いかけたい思いにかられたが、それは本当に一瞬だけのことだった。  

その時、ベルの鳴る音がして、夏生は凍りついた。
マスターは気づかない。髪の中に差し入れられたままの手を振りほどき、彼女は恐る恐る視線を移す。  
開いた扉にもたれるようにして立っているのは、マスターの奥さんだった。
夜の風が吹き込んできて、夏生は身を縮める。
マスターの腕は相変わらず夏生の肩にまわされていたけれど、奥さんはそれを少しも気にする様子がなかった。いや、泥酔し、夏生がいることにすらほとんど気づいていないようなのだ。 
「話があるって、聞いたんだけど」
奥さんはしわがれた声で言った。
夏生は思わず、マスターを見上げる。彼は黙ってうなずき、夏生に向かって言った。  
「大丈夫、きちんと話すから。夏生は帰った方がいいよ」
彼は今から別れを切り出すつもりなのだ。夏生はまだ決心がつかないと言った奥さんの辛そうな声を思い出した。不安にかられ、彼の腕を掴む。  
「今はだめよ。奥さんもあなたもすごく酔っぱらってるもの。きちんと話なんかできるわけないわ」 彼は夏生の手を取り、自分の両手で包み込んだ。
「心配しなくていいから。明日また店においで」  
「ここにいたらだめなの?」
彼は黙ってうなずく。

もうそれ以上何も言えない。彼女はカウンターの椅子を降り、壁にかけたコートを取った。
ドアのところで奥さんと目が合い、思わず立ち止まる。
彼女は夏生を見て、少し笑顔を見せた。夏生は何か言おうとしたが、言葉が見つからず、黙って外に出てドアを閉めた。  

窓の向こうに映る、二つの影を見ながら、夏生はしばらくぼんやり立ちつくしていた。
微かに聞こえる話し声が、少しずつ言い争う声に変わっていくようで、耳をふさぎたくなる。
ここにいたってどうしようもない。夏生はくるりと背を向けて、歩きだす。

二人とももう答えを見つけているのに、冷静に話し合いさえすれば、うまく行くに違いないのに、彼はどうしてこんなに急いだのだろう。どうなるかはわからないけれど、嫌な予感がしていた。
さっき自分のものになったばかりの、彼の腕を、優しい声を、早くもあきらめかけている自分が、悲しかった。  

公園の街灯の下に黒人の男が立ち、ギターを弾いていた。聞き覚えのあるイントロ、温かく悲しいメロディーが夏生の頭の中を満たし始める。
それは、初めて会った時に彼が聞かせてくれた、オーティス・レディングのドック・オブ・ザ・ベイだった。

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