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「夏生、どしたの? 具合わるいの?」 授業が終わったのにも気付かず、机にうつぶせになったっきりの夏生の背中を誰かが突っ付く。 のろのろと頭を起こすと、ゆんちゃんが目の前に立っていた。 「顔色わるいね」 「うん・・・・」 「風邪、治ってないんじゃないの? 帰った方がいいよ」 「大丈夫だよ」 机の上に組んだ手の甲の上に、再びのろのろと重い頭を落とす彼女を見て、ゆんちゃんはため息をついて女の子たちの群れの中に戻っていった。 もちろん誰もが、夏生が昨日休んだのは風邪のせいだと信じて疑わないだろうが、少しだけ後ろめたい気分になる。 いつもならもう少し気を使ってあれこれ話をするのだけれど、今日はとてもそんな気力がなかった。 何しろ、こんなに頭が痛むのも、胃袋が引っ繰り返りそうにひくひくするのも、生まれて初めての体験なのだ。 あれから、脳天気なマージービートの流れる店に連れていかれた。 そこにどのぐらい居たのか、お酒をどれほど飲んだのか、今となっては覚えていない。 気が付けば午前様で、タクシーに乗せられて家の前まで連れて来られ、家族に気付かれないように必死に正気を装って自分の部屋までたどり着いた。 我ながら大したものだと思う。 スウィート・ソウルにどこか似てなくもない、大きなベルのついた木のドアを押して、奥さんが店の中に入っていくと、待ち構えていたようにたくさんの視線が二人を包んだ。 中にはスウィート・ソウルが閉店してからこちらに流れてきたに違いない見知った顔もいくつかあったが、ほとんどは知らない人ばかりだ。 みんなどちらかといえば、間違っても昼間から飲んだくれたりはしない、仕事をきちんと終えてから飲みに来るような、比較的まともそうな人たちだった。 ここで夏生が体験したのは、文句のつけようもないぐらい愉快な馬鹿騒ぎだ。 やっぱりここでも、女子高生の彼女は珍しがられ、ちやほやされた。 テーブルにはジンのボトル。BGMは、マージービート。 ピーター&ゴードン、ハーマンズ・ハーミッツ、マンフレッド・マン、ジェリー&ペイスメイカーズ。 誰かが流れる曲の名前とバンド名を、ひとつひとつ解説してくれた。 心臓をぎゅっと掴まれるような切ないR&Bが好きな夏生だったけれど、この場所では、こんなイージーなパワーにあふれた音楽を聴いているのが心地よかった。 次から次へとグラスを空けるみんなのペースに巻き込まれて、ジンを流し込んでいるうちに、頭がぼーっとしてくる。 ふと隣を見れば、長くさらさらした茶色い髪と、細く白いノースリーブの肩があって、夏生をどぎまぎさせる。 彼女のつけている香水は,柑橘系の少し苦い香りがして、それがよく似合っていた。 時折こちらを向いて話しかけられるだけでも困ってしまうのに、ひんぱんに肩を抱いたり手を握ったりされるのには参った。実は女も好きなんじゃないかと勘繰ってしまう。 いやに気に入られてしまったもんだ。 彼女の明るさは、どこかやけっぱちな感じがしたが、他人の気を滅入らせるほどのものでもない。 それでも彼女がマスターと同じようなロックグラスで、一杯に注がれたジンを次から次へと飲み干すのを見ていると、少し胸が痛んだ。 彼女は確かに、逃げたがっている。マスターとの結婚生活から・・・・というわけではなさそうだった。彼女を苦しめているのは、もっと別のことのような気がする。 一度だけ彼女は、酔っぱらっていながらもふと真顔になって、夏生にこう言ったのだ。 「私昨日で、二七歳になったのよ。私みたいな人間が、二七になるなんて、どういう気持かわかる? 未来なんていらないと思いながら、刹那的に生きてきた人間がよ。 私は三十歳で死ぬわけじゃないってことが最近やっとわかってきたの。冗談じゃないわよねえ。人生って本当に長すぎるわ」 もちろん夏生には答えようがなかった。 彼女の方でも答えを期待していたわけではないらしく、すぐにこう言い足した。 「ま、あなたのような高校生には、きっとわからないでしょうけれども」 夏生の意識が曖昧になりだしたのは、どうやらそのへんかららしい。 気がつくと、タオルを顔に乗せられ、店のベンチに寝かされていた。 店はもう閉めたらしく、辺りは静かで、お皿を洗うがちゃがちゃという音と、ぼそぼそとした話し声だけが聞こえてくる。 「で、もう1時だけどこの子大丈夫なの?親が心配してんじゃないの?」 タオルの隙間からそっと見ると、きょうずっとカウンターの中にいて、トモさんと呼ばれていた女の人の姿が目に入った。前に座っているのは奥さんだ。 他に人はいず、雰囲気から察するに、この二人は親しいらしい。 「けっこう遅くても平気みたいだって、前にだんなが言ってたわ。まあ、もうそろそろ起こしてタクシーに乗せてやった方がいだろうけど」 そう言いながら彼女は立とうとしない。そしてやっぱりお酒を飲み続けているのだった。 もういい加減にすればいいのに・・・・。 「でも、どうしてまたこの子を連れてきたのよ。知り合いだっていっても、まともに喋ったこともないんでしょう?」 「どうやらだんながこの子の事を好きらしいのよ」 夏生は飛び起きそうになるのを我慢した。今起きるのは何だかまずい気がする。 「そんなことあるわけないじゃないの」 「どういう風に好きかはわからないけど、本当よ。なんとなくわかるの」 「自分が浮気ばかりしてるからって、だんなのことそんな風に言うなんてひどいんじゃない? 彼はずっと、馬鹿みたいにあんたに惚れてるわよ。アル中になったのだって、あんたのせいじゃないの」 「私のせいじゃないわ」 彼女はため息をついた。 「彼は私が最初から浮気ばかりしてたみたいに言うけど、そんなことないわ」 「それはまあ、よく知ってるけど」 「わたしたちは、無責任で素敵なものを、一緒にたくさん見過ぎたのよ。人生はそんなものじゃない、世の中はそんなものじゃないってことに気づくまでは、そりゃあもう楽しかったわ。でも今はもうだめ。高校生の時みたいにはいかないのよ」 「深刻に考え過ぎじゃないの?」 「彼と一緒だと、現実を受け入れることが難しいの。それでも何とかしようと、長いこと苦しんできたけど、もう無理みたい。ここから先、長い人生を彼と一緒に歩いていくなんて、想像もつかないもの」 「共有するものが多すぎたってわけね」 彼女はうなずいた。 「で、彼と別れて生まれ変わって生きて行くの? きっと辛いわよ。長いつきあいだったもの」 「だからこんなに苦しんでるのよ。決心がつかないの」 そう言った彼女の声が、冷静さを失って震えていた。 「ねえ、もう少し楽に考えるわけにはいかないの? お酒とクスリをやめて、どうでもいいような男と付き合うのもやめて、一度冷静に話し合ってみなさいよ。答えを出すのはそれからでも遅くないわ」 「何度もそう思ったわ。でもだめなの。しっかりしようとすればするほど疲れてしまって、何もかもどうでもよくなってきて、気がつくと誰か知らない男と寝てる。お酒も、クスリもそう。冷静になるのは辛いわ。今の方がまだましよ・・・・」 彼女はほとんど涙声になっている。 しばらくの沈黙の後、トモさんのため息が聞こえ、お皿を洗う音が止んだ。 足音が近づいてきて、冷たい手が夏生の肩を揺らす。 「大丈夫?」 夏生は今初めて目が覚めたような顔をして、トモさんの顔を見上げた。 「起きれるんなら、帰った方がいいわ。タクシーを呼ぶから」 夏生は起き上がり、恐る恐る奥さんの方を見る。 カウンターにうつ伏せた後ろ姿の、肩が震えていた。 「どうしたの?」 さっきの話の内容も、彼女が泣いている理由も解せなかった彼女は、そう聞いてみる。 トモさんは少しためらって、こう答えた。 「ちょっと混乱してるの。誰だってあるのよ、ああいう時期が」 そしてご丁寧に、こう付け加える。 「きっと、あなたにはわからないでしょうけどもね」 |
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