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その日の体育の時間はグランドのすみっこで、隣のクラスの女の子と話し込んでしまった。 九月も終わりになれば曇り空の下は結構寒い。 半袖にブルマーの体操服でじっと座っているのも辛いものがあったけれど、運痴の夏生には真面目にハードルの練習やってる方がよっぽどかったるい。 先生が自習の男の子達とサッカーやってるのをいいことに、二人とも一度も重い腰を上げなかった。 一年、二年と同じクラスだった彼女と話すことと言えば、他愛もない思い出話ばかり。 昔付き合ってた先輩のことや、誰もが知っている、リョウとのこと。 夏生の心の大半を占めているはずのマスターのことは誰も知らない。 誰にもわかってもらえないだろう深刻な話におちいるのを避けるがために、夏生は極力本音で話さないようにしていた。 学校にいる間、女の子達と話している時くらいは、やっぱり普通の高校生でいたかったから・・・・。 だから、彼女がふともらした一言は妙に胸にひっかかった。 「夏生ってさあ。髪が伸びてきれいになったっていうのもあるんだけど、なんか、変わったね」 「変わった?」 「独りでぼーっと立ってたりするでしょ?なんか、声かけにくいよ。リョウが一時期落ち込んじゃってさあ。しょせん、俺には手の届かないヒトだったんだ、なんて、言ったりしてたの」 「リョウ、彼女とうまくいってるみたいじゃない」 「うん、今わりと幸せそうよね。こんなこと言っていいのかわかんないけど、リョウにはあの子の方がいいみたいね。夏生は・・・・なんていうか、リョウにしてみたら、違う世界の人みたいなとこあったと思うよ。前はそれほどそんなふうに思わなかったけど」 夏生はどう答えたらいいかわからなかった。彼女はあわてて言葉を続ける。 「気を悪くしたんだったらごめんね」 「ぜんぜん、気にしないでいいよ」 チャイムが鳴った。夏生は立ち上がって砂をはらう。 どこがどう違うんだろう。いつも、しっくりこない何かを感じていたことは確かだった。 それを誰かが口にしたところで、傷つくいわれはない。ただ、それが何であるのか彼女は知りたかった。 ふと胸の中が寒くなり、彼女は再びあのブルースのメロディーを聞いた。 今日はバイトじゃなかったのだけれども、夏生は店の周りをふらふらしていた。 だけど店には入らない。いや、マスターに会いたくてここまできたのだけど、これといった用事を思いつかなかったのだ。 用もないのに店に行って、自分会いたさに来ているのだと彼に思われても困る。 だけど夏生はここいらを歩き回るのも結構好きだった。 このへんの古着屋で服を漁るお蔭で、どこへ着て行けばよいのかわからないようなワードローブがロッカーには増えていったし、部屋にはわけのわからないチープな雑貨があふれ、いつもガラム煙草やお香の香りが漂うので家族の不評をかっている。 中古レコード屋に並ぶようなレコードは夏生にはさっぱりわからなかったけれども、ジャケットを見て回るだけで幸せな気持になれた。 そんなこんなであれこれ見て歩くうちに、あっというまに時間がたってしまう。 いつの間にかすっかり日が落ちて空は闇に包まれていたのだけれど、ストリートはこれからが賑やかだ。 あちこちのライヴハウスやパブに灯がともり、ギターを抱えたバンドマン達の姿が目立つ。 何をするでもなく公園に集う人達は、夜になると急に増えた。 街頭の下にはギターを鳴らしてボブ・ディランを歌うストリート・ミュージシャン。 こんなざわざわした空気に包まれているのは心地よく、なんとなく帰り難くて夏生は公園の隅っこに腰を下ろす。 さあこれからどうしようかな。木々の間から月が見える。 みんなそれぞれに忙しく、彼女に声をかける者もいない。 声をかけられても困ってしまうのだけれど・・・・。 どこかで落ちついてビールでも飲みたい。夏生は立ち上がって歩き出した。 メイン・ストリートを横にそれ、今まで入ったことのない小さな路地をたどっていくと、ブルーのネオンサインの文字が光る看板にぶつかった。 「Jazz Spot LEAVES」 その脇に並んだバドワイザーだのハイネケンだのの看板に、吸い寄せられるようにして夏生は扉に手をかけた。 制服こそ着ていないものの、オーバーオール姿の夏生はあまりにも子供っぽい。 店にはなんとか入れてもらえたが、アルコールは駄目だと言われた。 けっ、と思いながらジンジャーエールを頼む。 店の中を漂うのは、苦みのあるハスキー・ボイス。決して甘さはないのに不思議と耳をくすぐる。 ドラムにギター、ウッドベースにピアノのカルテットを従えて部屋のすみに立つシンガーは、白いシャツにブルージーンズという恰好だった。 のばしっぱなしのストレートの髪に、化粧気のない顔、だけど伏し目がちな表情が、どきどきするほど色っぽい。 歌うところを見るのは始めてだけど、この人のスタイルはいつも変わらない。 まったく、かたくななぐらいに・・・・。 そうなのだ。ぐうぜんにも夏生は、マスターの奥さんが歌う店に足を踏み入れてしまったのだった。 そのことに気づいたとき、彼女は落ち込んだ。だって恋敵の顔を見ながらジンジャーエールをすすってるなんて、このうえもなく間抜けな光景だ。 ビールが飲めない悔しさも手伝って、夏生は彼女の顔を睨み付けるように見ていた。 そのうち彼女の方で異様な視線に気づいたらしく「あら」と小さな声を発する。 「なにあんた、ジンジャーエールなんか飲んでんの?」 ステージの上からマイクで声をかけられて、夏生はどぎまぎする。 「マスター、あの子にビールおごるわ。ダンナの知り合いなのよ」 奥さんの一声で夏生は見事に昇格し、カウンターに招かれてハイネケンを与えられた。 「ふーん、スウィート・ソウルでバイトしてるの」 マスター・・・・といってもこの店のマスターはグレーの髭を生やしたいいおじさんだ・・・・はミックスナッツの皿を夏生の前に置きながら興味深げにあれこれ聞いてくる。 きっと現役の女子高生が珍しいのだろう。 そのうちステージを終えた奥さんがやってきて隣にすわった。 「御馳走になってます」 声が震える。 こんなに近くで顔を見たのも初めてなら、まともに口を聞いたこと自体初めてなのだ。 厄介なことになってしまった。奥さんはそんな夏生を見てにやりと笑い、彼女の肩をぽんと叩いた。 「まあ、今夜は飲もうよ。話はゆっくり聞くからさ」 「はなし・・・・?」 予期しなかった台詞に夏生は一瞬、パニック状態に陥る。 「私に話があって来たんじゃないの?」 「は・・・・話だなんて、私たまたまここに来ただけで・・・・」 今度は奥さんの目がまんまるくなった。 「知らずに来たの?私はてっきり・・・・」 頭に血が上って、顔が真っ赤になってくるのが自分でもわかった。 この人は夏生の気持を知っているのだ。 正義感と嫉妬心にかられて浮気ばかりしている恋敵に意見しにきた一途な高校生、という役割を自分はふられているのだと理解し、夏生は情けなさに涙が出そうになる。 いくら彼を好きといっても、夫婦の問題に軽々しく口を出すような子供だと思われるなんて、あんまりだ。 「あなたに言うことなんか何もないわ。もしあったとしても・・・・」 叫び出したい気持をぐっと飲み込んで、夏生は言葉を続けた。 「言っても仕方のないことじゃないの」 奥さんは驚いて彼女を見た。まっすぐ自分に向けられた激しい視線を受け止めかねているようだったが、しばらくして口を開く。 「そうね。そうよね。私が悪かったわ」 そしてにっこり笑い、彼女のグラスにビールをついだ。 「どっちにしろ飲んでいきなさいよ。私はあなたが気に入ったわ」 窓の外を往く雑踏の中に夏生の姿を見かけたような気がして、スウィート・ソウルのマスターはあわててその行方を追った。 だけど見覚えのあるオーバーオール姿はあっと言う間に街の風景にに溶け込み、分からなくなってしまう。 虚しく視線を彷徨わせたまま、彼はストレートグラスにバーボンを溢れさせてしまった。 「なにやってんですか、マスター」 バイトの女の子が布巾を持って走り寄ってくる。 最近ぼんやりすることが多くなったのは、きっと疲れているせいだ。 なにに? 決まっている。 めったに会えない女房のことを思って暮らし、そのくせたまに会えば言い争いを繰り返す、そんな毎日が彼を救いようのないぐらい消耗させているのだ。 どうしてこんなことになってしまったのか、彼にはわからない。 日に日に量が増えるアルコールやクスリがよけいに事態を悪くしているのはわかっていたのだけれど・・・・。 もういい加減、やめにしよう。 身体の内側から、そんな声が響いてくる。 やけっぱちになりながら、なんども繰り返したその言葉。それが彼女を失うことを意味するのだという事実を、彼はやっと受け入れられるようになりかけている。 未来なんかいらない、そう思いながら刹那的に生きてきた彼だったけれど、もうこれ以上、自分の前に広がっている膨大な時間に目をそらし続けているわけにはいかない。 それはきっと彼女にとっても同じことだろう。 疲れきってはいたけれど、相変わらず頭は朦朧としていたけれど、不思議と静かな気持だった。どうしてだろう。彼はまた窓の外に視線を移す。 そこにはやはり、見知らぬ人達のざわめきがあるだけだったのだけれど・・・・。 |
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