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九時半を過ぎるとマスターは閉店の準備を始め、店にはほとんど客はいなくなる。 ゴミを出して看板を片づけると、夏生はカウンターに腰を降ろした。 「何か作ろうか? 腹へっただろ?」 「ビールが飲みたい」 そう答えて煙草に火を点ける夏生を見て、マスターは軽く顔をしかめる。 「一年前の夏生はもう少し可愛かったような気がするがなあ」 「別にいいよ、可愛くなくて」 マスターは肩をすくめて冷蔵庫からバドワイザーの瓶を出し、蓋を開けて山盛りのチップスと一緒に夏生の前に置いた。 「仕方ないな。付き合ってやるよ」 「自分が飲みたいくせして」 マスターは笑って、レコードをかけるために立ち上がった。パーシー・スレッジが流れ出す。 もう一本、ビールを出して、彼はカウンターの夏生の隣に座る。 瓶のまま乾杯をして、いろんな話をした。 高校のこと、最近見たヘップバーンの映画のこと、いままでに一番感動した音楽のことなど、普段はあまり饒舌でない夏生も、マスターと一緒だといつも不思議と話がはずむ。 彼が女の子の扱いに慣れているというせいもあったのだろうけど、多分それだけじゃない。 夏生が同じ歳の男の子や女の子と喋っていて、なんとなく興ざめしてしまうのは、彼らがいつも今さえ楽しけりゃいいような顔してるくせに、結構堅実に人生を考えていることだった。 別にそれが悪いってわけじゃないのだけれど、夏生の感じてることはちょっと違う。 適当な言い方が見つからないのだけれど、マスターは自分と同じように人生を感じてる、と夏生は思っていた。 へんな言い方かもしれないけれど、彼はいつも何かに傷ついているみたいで、だから夏生は彼が好きなのかも知れなかった。 大人らしく全てを割り切ることのできない彼は、いつもどうしようもないことをなんとかしようと努力して、結局自分の非力さに傷ついているのだ。 奥さんのことにしたって、つなぎ止めておけないのは自分のせいだと思ってる。 仕方のないことを割り切ることのできない彼の真剣さは本当に悲しくて、なんとかしてあげたくなる。 他人とていろいろ考えることもあり、辛いこともあるんだと知ったのは彼に出会ってからだった。 同時に彼を好きになってしまい、そのために辛い思いをしなければならなくなったのも事実だったけれど・・・・・・・・。 「今日は奥さん来なかったのね」 彼は驚いてカレンダーを見る。 「ああ、今日は木曜日だったっけ」 「忘れてたの?」 「うん、最近はお互いによく忘れるんだ。今日が何曜日なのか、朝なのか夜なのかもわからない生活をしてるから」 彼はうつろな目をして言った。 今日が何曜日かわからないのはお酒のせいかもしれない。 彼は仕事中でもお客の相手をしながら四六時中飲んでいるものだから・・・・。 ビールなんかは水がわりだ。今、彼の大きなロックグラスにたっぷりと入っているのはゴードン・ジンのストレート。 これを客のおごりで一日に何杯も飲む。 これだけ飲んでいても彼がまったくアル中に見えないのは奇跡としかいいようがない。 「夏生はいいな。朝起きて学校に行って、日曜日になれば休む。そういうことって、大事なことだよ」 「時々うんざりするけど・・・・」 「高校生の時は、俺もうんざりしてたけどね」 彼はそう言って笑った。 夏生は彼が高校生だった頃の姿を想像してみる。何だかしっくりこない。 「真面目に通ってたの?」 「まあね。彼女と会うまではだけど」 「彼女って?」 「奥さん」 まだ酒に慣れてない夏生は、缶ビール二本でぼーっとしてしまう。 窓ガラスに揺れるランプの炎と、通りを歩く人達の姿を、うつろな目で追いかける。 彼女はカウンターに置いた腕の上に、あごを乗せた。 「まだ帰らなくていいの?」 「いいの。もう少し話を聞かせて」 マスターは笑って、うつむいた夏生の髪に手をやる。 彼はきっと、自分の気持に気づいているのだと彼女は思った。 「二年生の時、知らない女の子に廊下で声をかけられた。それが彼女だったんだ」 その時に一目惚れしまったのだと彼は言う。 彼がピアノを弾けることを、彼女は誰かから聞いたらしかった。 彼女のバンドでキーボードをやってほしいと言われて、彼はすぐにうなずいた。 「あの頃からずっと、彼女に夢中だった。彼女の生き方、彼女の聴かせてくれる音楽、酒や煙草。彼女と出会ったことで、あらゆるものが俺の人生を変えてしまったんだ」 「今も、夢中なの?」 「いいや」 夏生は顔を上げ、彼をじっと見た。 急に青ざめ、疲れたような感じがするその横顔を。 少しの間考えこんでから彼は言葉を続けた。 「俺たちは別々に暮らしてる。週に一度のデートでさえ、ともすれば忘れてしまう。彼女は毎日のように、ろくでもない男たちと寝ている。いちいち気にしてたらきりがない。何もかもどうだっていいんだ。彼女だけじゃないよ。今の俺が夢中になれるものなんて、何もない」 夢中になれるものなんて、何もない。 夏生にはきつい言葉だった。いや、そう言った時の彼の表情の方が、こたえたかもしれない。 それでも彼がこんなことを話すのは初めてだったから、もう少し聞いていたかった。 「原因は、奥さんの浮気?」 「いや、彼女は最初からああだったわけじゃないよ」 「じゃあ、どうして?」 「埋もれてしまったんだよ。自由で気ままな生活に。俺たちにも、少しは秩序ってものが必要だったんだ」 「秩序だなんて・・・・」 夏生は少し、笑ってしまった。 彼の言おうとしていることはよくわからなかったけれど、そんな言葉をはからずも口にしてしまう、彼が好きだった。 「今日は飲みすぎたみたいだな。こんな話を聞かせるつもりはなかったのに・・・・」 夏生は首を横に振った。 「ううん、話してくれてうれしい。マスターのこと、もっと知りたかったから」 言ってしまった先から、顔が熱くなった。彼が少し驚いた顔で彼女を見たので、ますます焦って何か言葉を探そうとするが、みつからない。 彼の顔に笑顔が浮かんだ。 「夏生がいてくれてよかったよ」 彼は真っ直ぐに彼女の目を見て言った。 その瞳の暖かさに彼女は泣きたくなってしまう。 「今ここに、たった独りじゃなくてよかった。感謝してるよ」 わかるわ、その気持。夏生は心の中でつぶやいた。 その時流れ始めた音楽は、彼女の胸を切なさで一杯にした。 「男が女を愛する時」、パーシー・スレッジの古いソウル・バラード。 それは昼間、リョウに会った時に、彼女の胸に流れ出した音楽だった。 夏生がいてくれてよかった・・・・。マスターがたった今口にした言葉について考える。 独りの夜にたまたま夏生がそばにいたこと、そんなことを彼が言っているんじゃないのは彼女にもわかる。 自分を好きでいてくれる夏生のような存在が、今の彼には救いなのだということ。 自分の好きな相手じゃないにせよ、淋しさを埋めてくれる誰かが必要なのだ。 ちょうど夏生にとってのリョウがそうであったように・・・・。 音楽が終わり、静寂が訪れる。マスターは我に返り、立ち上がった。 「そろそろ帰ろう、送ってくよ」 カランとドアのベルが鳴り、彼は反射的に振り返る。 もちろんそこには奥さんの姿はなく、強い風がベルを揺らしているだけなのだった。 夏生はみんなが思っているよりもずっと、リョウに執着していた。 リョウの存在、リョウの気持はいつだって夏生の救いだった。 彼女の中で、自分の占める位置がそんなにも大きいことを、リョウはきっと少しも知らないにちがいない。 いつも始業のチャイムとともに自転車で滑り込んでくる夏生を、朝練を終えたリョウはロッカー室で待っていた。 彼女を見つけるとその顔がぱっと輝く。それを見ただけで、夏生はしばらく元気でいられる気がした。 彼がいる限り彼女は本当の独りぼっちじゃなかった。 彼の思いはいつも屈託がなく、前向きで明るくて、夏生の恋とはずい分違う。 だけど友達を装った会話がふと途切れるとき、時折遠くから静かな視線を感じるとき、夏生は心地よい暖かさを感じてふと瞳を閉じてしまう。 なぜ自分がリョウに恋することができないのか、彼女は不思議だった。 だけど彼に恋することなく安心して寄りかかっていられたからこそ、そんな関係は長く続いたのかもしれなかった。 もし彼が切ない思いの切れ端でも見せたなら、夏生は申し訳なくって、彼に話しかけることさえできなくなったに違いない。 もし選択をせまられていたならば、彼女はどうしただろう。 だけど彼はそうすることもなく、あっさりとあきらめてしまった。 そして恋する気持にも少し似た、切ない淋しさが彼女に残された。 そんなふうにして彼女はなぜか、失ったものにひかれてしまう。 いままでの習慣なのだろう。リョウは今だって雑踏の中で、ごった返す朝や放課後のロッカー室でさえも、一番最初に夏生を見つけだしてしまうらしかった。 時には話しかけることもあったけれど、ポニーテールの女の子が隣にいたりする時、不器用な彼はあまりにも露骨に目をそらしてしまう。 そんな彼の当惑した瞳が夏生は好きだ。そして最初から最後まで、彼女の胸のなかにはずっとあのメロディーが流れている。 |
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