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リョウに女ができたというウワサは、とうの昔に夏生の耳にも届いていた。  
二年生の、華道部かなにかに入ってる女の子。大きな目とくるくるしたポニーテールが可愛い。ざわざわした放課後のロッカー室に二人して肩を並べて入ってくる姿は何となく人目をひく。  話によると、女の方がリョウに、付き合ってほしいと言ってきたらしい。
そりゃ、そうだろう。
たまに夏生と目が合うと、リョウはばつの悪そうな顔をして「バイバイ」とか何とか言う。
夏生は極力昔と同じような笑顔を彼に向けるように、努力はしているのだ。
もちろんそれは、プライドのため・・・・。
あんたに彼女ができたって、私につきまとわなくなったって、私は淋しくもなんともないのよ。

夏生はチャリ通であるからして、今日も独りで帰る。
別に友達がいないってわけでもなくて、必死になって一緒に帰る相手を探す気にならないだけ。
男の子は男の子、女の子は女の子で群れをなして、たまに男の子と女の子がちらほらとカップルで、その他の奴らは部活に忙しく、放課後の学校はにぎやかだ。
そんな輪の中でキャイキャイやってんのもたまには面白いけど、こう毎日だと疲れてしまう。
独りで自転車をキコキコ、みんなの輪をすいすいと追い抜いて行く。  

・・・・というわけで、夏生はまわりのみんなから変な奴だと思われていた。
時々理由もなく学校を休み、授業中はたいがい居眠りして先生を困らせる。
本人には問題児という自覚は全くなく、悪気があってやっているわけではないだけに、なおさら始末が悪い。
クラスではさして目立ったところもなく、ソツなくやっていた。
・・・・やってはいたが、トイレは独りで行く。流行り物には一切興味がなく、人の噂話にはかなりうとい。
しかし時々ずれたことをやるので妙に憎めなくて、みんなからはそこそこに相手にされていた。ふわふわした茶色のセミロングの髪といい、白い顔、細い手足といい、黙って立っていればけっこう美人なので、リョウのような崇拝者も現れる。  

二年生の時同じクラスだったリョウは、直接夏生に好きだと言ったことは一度もない。
だけど彼が夏生に夢中だったことは、有名だった。
彼がわけもなく夏生の家に電話してきたり、誕生日や何かの時にプレゼントをくれるようになったのは、同じクラスになってから半年ぐらいたった頃だ。
三年生になってクラスが別れてからも、しばらく彼は何かと理由をつけては夏生の教室を訪れた。
夏生はリョウのことが嫌いじゃなかった。インターハイに出たこともある陸上部のホープで、優しげなルックスもなかなかのものだと思う。
恋敵を名乗る女の子が何人も現れたのには閉口したが、いかにもスポーツをやってるっぽい前向きなパワーや、ちょっとやそっとじゃ負けない根性と明るさには、憧れてもいた。
夏生みたいなややこしそうな女に平気で声をかけてくるのはこいつぐらいのものだったし、つきまとわれるのも悪い気はしなかった。
だけど夏生にはリョウの気持に答えられない理由があった。
決して「お友達」以上の態度をとらなかった夏生を、リョウがいつあきらめても不思議じゃなかったのだ。  

大好きな人のことを思うと、リョウのことなんてどうでもよくなってくる。彼と、彼をとりまく世界への憧れが募り、ざわめく教室に身を置いていることが、なんともそぐわなく思えてくるのだ。彼に会える日は一日が長い。終業のチャイムを待ちかね、ホームルームもそこそこに、薄っぺらいカバンを抱えて飛び出して行く。
そんな時彼女の心はすでにここになく、みんなが不思議そうに自分を見ていることにも気づかないのだった。             


夏生のバイト先の喫茶店は、不思議な街の真ん中にあった。
白いビルの立ち並ぶ、オフィス街の近くにぽっかりできた、吹き溜まりのような場所。
だけどビジネス・スーツやハイヒールを身につけた人種は、大きな顔をして歩けない。
むしろヘビのような頭に、ラスタカラーのシャツを着たレゲエのおにいさんや、赤い髪をしたパンクのおねえさん達、破れたジーンズにぼろぼろのスニーカーを履いて、ギターケースを抱えた連中が歩くのに相応しい街だった。
壁という壁はみんなキャンバスで、月に一度は芸術家くずれした危なげな連中が、どこからともなく現れてペンキを塗りたくっていく。
それは抽象画というにはあまりにも乱暴な代物だったが、頽廃の匂いを含むこの街の風景にはあまりにもぴったりしていた。
穴蔵みたいなライヴハウス、怪しげな古着屋や雑貨屋。
ストリートを歩く連中の多くは、いつもクスリをやってるみたいな空々しい陽気さと危うさを身につけていて、最初は夏生も怖くて仕方なかった。  
クラスの女の子達もみんな怖がってこの街に寄りつくことはなかったから、夏生は勇気を出して独りでここを訪れた。
たまに学校をさぼり、電車に乗って街に出る時、いつも窓からNYのダウンタウンのような風景の一片が見える。
彼女はずっと興味を持っていたのだけれど、実際にそこへ行く気になったのはどこかの駅で見かけたアルバイト募集の広告のおかげだった。  

喫茶店、「スウィート・ソウル」。
実際にはカウンターの棚に酒瓶が並び、昼間から飲んだくれる連中が集まる、怪しげな店だったのだけれど・・・・。

夏生はこの店で25歳のマスターと出会った。
彼は年をごまかして来た夏生を高校生と知りながら雇ってくれた。ここで週に三回ウェイトレスをするようになって、もう一年になる。
ぬるま湯のように退屈な毎日、人生に楽しいことなんて何もないと思いながらもわくわくする何かを無意識に求めていた夏生にとって、ここは奇跡のような場所だった。  

おそらくこういうのを一目惚れというのだろうと彼女は思う。
カウンターの中でビールを注ぎ、シェーカーを振るマスターの姿に、彼女の視線が吸い寄せられるようになるまでそう長くはかからなかった。
ミュージシャンくずれしたその風貌や、少し屈折した少年ぽさを残す瞳、男が年下の女の子に示す当たり前の優しさにも、彼女はたちまち夢中になってしまった。
彼が聴かせてくれる、いろんな音楽も好きだった。  
クラスの女の子達が聴く、ロックミュージック、男の子達が夢中になるハードロックなんかとは全然違うひなびた音楽。
ソウルやブルースやR&Bなどを彼はいつも店に流し、そのコード進行のパターンや粘りつくボーカル、古臭いメロディーラインは夏生の体にもしみこんでいった。
たまに街角やテレビのコマーシャルの中でそうした音楽を耳にすると夏生はいつも切ない気持におそわれる。
憧れが彼女の胸を満たし、苦しくさせる。
昔から彼女が慣れ親しんできた感覚、自分はいま独りぼっちなのだという錯覚がなお強くなり、泣き出したい衝動にかられてしまう。  

彼女にそんな思いをさせるのは、マスターが自分のものではないという事実だった。
彼にはジャズボーカルをやっている年上の奥さんがいて、彼女が店を休む毎週木曜日の晩には、二人してどこかへ出かけて行く。
彼女はいつも閉店間際の店に現れ、ビールやジンを飲みながらマスターが支度するのを待っている。  

彼女が自分の恋敵であるという事実に目をつむれば、夏生はこの奥さんがそう嫌いじゃなかった。
茶色っぽいストレートロングのさらさらした髪、化粧もそんなに濃いわけじゃなくて、いつもジーンズや何かのカジュアルな恰好をしてるくせに、妙に女っぽいのは、抱いたら折れてしまいそうな、細い体のせいだろう。
常連の客達と話をしてるときは、よくああ言えばこう言うもんだというくらい、ぽんぽん言葉を返す快活な人だけれど、黙って雑誌や何かを読んでる時は、生身の人間とは思えないくらい、この店の風景に溶け込んでいる。
この人がジャズを歌うときっと絵になるのだろうと思う。この奥さんを見ていると、夏生はいつも絶望的な気持になるのだ。 

だけど、全然希望がないわけじゃないもんね・・・・・・・・。
夏生に閉店の片付けを頼んで、連れ立って出て行く後ろ姿を見ながら、彼女は自分に言い聞かせる。
常連の客達の話によると、この綺麗な奥さんの浮気癖といったらそりゃもう病気みたいなものらしい。週に一度はこうやってデートしているけど、実際は一緒に暮らしているかどうかもわからないのだという。  
必ずしも幸せではないからこそ、彼は夏生に優しいのだ。
だけど、それがわかったからといって、もう彼女にはどうしようもない。
彼らのふとした仕種や言葉から、二人の間に隙間を見つける時、そしてその隙間を見失ってしまう時、どっちにしても夏生は悲しい気持になった。  
誰かを本気で求めるべきではなかったのだと思う。
独りには慣れてるはずだし、淋しいのも平気だった。
彼をこの世から抹殺して、最初からいなかったことにしてくれたらどれだけすっきりするだろう。彼がいる限り、そして彼の心が奥さんのものであるかぎり、どんなことがあっても夏生は満たされるということがなく、いつまでたっても独りぼっちのままなのだった。             


三時間目の数学は自習だった。
ゆんちゃんの姿が見えないと思うと、あんのじょう、廊下の窓にへばりついて一心にグランドを見ている。
夏生もなんとなく騒がしい教室が苦手で、みんなの群れを抜け出して彼女と肩を並べた。
 「あの子、いる?」
ゆんちゃんの顔がふにゃあっとなって、サッカーをやっている男の子の一団を指さした。
あーいるいる。となりのクラスの、軽音楽部のなんとか君。  
 「かわいいの。ほんっとに、可愛いのよ。さっきなんてボール空振りして、ぼてってこけちゃって、苦笑いしてんの。もーお、だから好きよ」
ゆんちゃんの顔を見てると、こっちまでうれしくなってくる。
確かに、体操服の似合う男の子って悪くないよね。
元気にふざけながらボールを蹴ってる姿って、本当に可愛いよねえ。  
 「遠足の時、一緒に写真撮らせてもらったの。今度夏生にも見せたげるね」

見てるだけで幸せになれる恋を、一年生の時は夏生もしていた。  
体育祭で同じチームだった三年生。
額に汗して応援のタイコを叩く姿がお茶目で可愛いと、一言言っただけでまわりの女の子達が色めき立った。
みんなから押されるままに一緒に写真を撮ったり、バレンタインのチョコレートをあげたりした。細く茶色い髪をふわふわと逆立てていて、細身の身体が当時夏生の好きだったロッド・スチュワートにどことなく似ていた彼は、確かに見る価値はあったと思う。 
学生食堂でお皿を三つも四つも並べて、あっと言う間にたいらげる姿に感動したり、手編みのマフラーをまんざらでもない顔で受け取ってもらえると、本当にうれしかったりした。  
だけどそいつから「付き合って欲しい」と言われた時には面食らった。
断る理由もないのでしばらく付き合ってみたけれど、そいつが卒業して就職したこともあって、あまり長くは続かなかった。
女子高生の恋なんて、そんなもんである。  

 「あ、リョウだ」
ゆんちゃんの声に振り向いた。スケッチブックを抱え、渡り廊下を歩いてくる一団の中にリョウがいる。
夏生は手を振った。  
 「自習?」  
 「うん、数学の先生風邪なんだって。リョウんとこも多分、自習だよ」
 「ラッキー、今日六時間目数学だったからさ。早く帰れる・・・・・・・・」
言いかけて、リョウは困ったように言葉を切った。
そう、彼女待っててやらなきゃなんないんだ。
 「夏生、教室に入ろう」  ゆんちゃんが、夏生のスカートを引っ張る。
 「ほんじゃあね」と宙ぶらりんの会話を残してリョウは行ってしまった。
ゆんちゃんはちょっと怒っている。  
 「信じらんないよねリョウって、あんなに夏生のこと好きだって言ってたくせに」
 「仕方ないよ」
夏生は、胸の中に流れ始めた音楽を聴いていた。
下降線をたどるコード、ひなびたオルガンの音、なんていう曲だっただろう。
その音は、一日中夏生の中で鳴りやまなかった。


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