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一月になると、夏生は推薦試験でさっさと大学を決めてしまい、学校には滅多に行かなくなった。 で、何をしていたかというと、煙草とバーボンと共に部屋にこもり、レコードを浴びるほど聞いていたというのだからどうしようもない。 ジャニス・ジョプリン、エラ・フィッツジェラルド、アレサ・フランクリン、マーヴィン・ゲイ、サム&デイヴ、オーティス・レディング、アルバート・キングにサム・クック、実にさまざまな音楽が、煙草の煙とともに彼女の部屋にしみ込んで行った。 時には家を出てあの街に出かけ、古レコードを漁ったり、いつかマスターの奥さんに連れていってもらったあの店に顔を出してみたりした。 そこには相変わらず脳天気なマージービートが流れていたが、運が良ければ、トモさんに会ってマスターの消息を聞くこともできたのだ。 彼は今病院にいる。体中に染み込んだクスリとアルコールの毒を洗い流し、頭の中をきれいにするためだ。 そして裁判が始まり、結局またどこかに放り込まれることになるのだろう。 その間、彼の頭が本当にマトモになることなど有り得ないし、夏生のことを思い出すことももはやない、そんな気がする。 マスターの奥さんは死んでしまった。 あの日、マスターが彼女を刺し殺してしまったのだ。 二人を置いて店を出たあの次の日の朝、警察から電話がかかってきて事件を知った。あれこれ聞かれたけれどもどう答えたのかも覚えていない。 店に行ってみると警察の人たちやらがいっぱいいて、中に入ることはできなかった。何日かたつと店の入口も、ガラス窓も木の板で閉鎖され、中を見ることさえもできなくなった。 もうすぐこの建物はとり壊され、新しい店ができるのだという。 もう二度とマスターに会えないのだという事実を、そんな形で夏生は少しずつ受け入れていった。それは本当に辛いことだったけれども・・・・。 最近やっと息ができるようになった、と彼女は思う。 古いR&Bを聴き、この街を歩き回ることによって、彼女は癒されていった。 髪をのばして茶色にそめ、耳に穴を開けて重たいピアスをぶらさげる。 ジャニスみたいなしわがれ声になりたくて、煙草をたて続けに何箱も吸ったり、きついバーボンでうがいをしたり。あんたは妙に度胸が座っていて存在感があるから、歌を歌えばサマになるだろうという、トモさんの言葉を間に受けたわけじゃないけれど、最近、歌いたくて仕方がなかった。 たまに学校に顔を出すたびに変わっていく彼女を、みんなは驚きの目で見た。仲の良かった女の子たちも、彼女と話すときは内心戸惑っているのがわかる。 でももうすぐ卒業式だから、そんなことどうでもいいのだ。教室で騒ぐみんなを見ていても、別の世界のことのように思えた。 リョウだけは違った。彼女の心の変化を全てわかっているみたいに、彼は自然に彼女と話した。 そして卒業式の日、彼があの女の子と別れたことを、夏生は彼自身の口から聞いたのだった。 「ふられたんだ。やっぱり俺は萩原のことばかり見てるってね。彼女の友達が五人ぐらい来て、責められて泣かれて、えらい目にあったよ」 「あなたが悪いんじゃないの」 夏生は笑って言った。女の子に取り囲まれて冷や汗をかいている彼の姿が目に浮かんで、気の毒だけど何となくおかしい。 「うん、えらい目にあったのは、彼女の方かも知れない。悪いことしたよ。やっぱ理屈通りにはいかないよね。こういうことは」 「リョウ」と呼ぶ声がし、誰かがこっちの方へ走ってくる。陸上部の子だ。いかにも体育会系といった感じの、スポーツ刈りで体のでかい男の子。 「一年の子が部室で待ってるぞ、写真撮りたいんだと」 そう言って彼は夏生をちらっと見た。制服がすっかり似合わなくなってしまった、茶色く長い髪。化粧をするようになってから、顔つきも少し変わった。 目が合って、彼は少し顔を赤くする。 「先行ってるから、早く来いよ」 そう言って彼は行ってしまった。 さて、と夏生は思う。人気者のリョウをいつまでも独占しているわけにはいかない。 「そろそろ行った方がいいんじゃない?」 リョウはうなずき、少し名残惜しそうな顔をして言った。 「まあ、お互い地元なんだし、また会おうよ」 じゃ、と歩きかけて、彼は足を止める。 振り向いた彼は、今までになく思い詰めた顔をして、夏生をじっと見つめた。 もの言いたげな唇が開かれる。 「あの・・・・」 彼が何を言おうとしているか、夏生にはわかったが、彼女は黙って首を振った。 そんな彼女の姿は、きっと彼にはものすごく遠く見えたことだろう。 リョウはそれ以上何も言わず、歩き出した。 その後ろ姿が人ごみのなかに消えるのを見たあと、夏生はそっとその場を離れた。知った顔をいくつか見たけれど、誰にも声をかけず、自転車に乗って校門を出る。 学校の前の坂を登り切った所で、彼女はペダルをこぐのをやめて振り返った。遠くにはまだ、紺色の集団がざわめいている。 夏生はしばらくそれを見ていたが、再び走り出し、もう二度と振り返らなかった。 大学生になってからも、夏生は毎日のようにあの街を訪れた。 いや、授業なんかそっちのけで通いつめていたといった方がいいかもしれない。 トモさんの店でバイトを始め、そこで出会った連中とバンドを組んでライヴをやるようになってからはますます学校から遠ざかり、とうとう二年生の終わりに中退してしまった。 一年たち、二年たつ間に、この街の景色は刻々と変わる。 スウィート・ソウルの跡地には、チャイを飲ませるエスニックなカフェができた。 日曜日の昼間にお茶を飲むような連中がこの街を訪れるとは思えなかったのに、予想に反してこの店は繁盛し、路上に並べられたテーブルは、雨の日以外はいつもごった返している。 どうやらこの街にも時代の変化が訪れているようだった。 全国的なテレビや雑誌がこの街の特集を組みはじめたのはここ一年ばかりのことだが、大したものでそれ以来、「危ないところ」と呼ばれて誰も寄りつかなかったここが、あっと言う間に誰もが訪れる観光地になってしまったのだ。 かつての夏生のような高校生や中学生の姿は、もう珍しくもなんともない。 会社帰りのサラリーマンやOL、地方からの旅行者、そんな連中がぞろぞろとやって来て、解放感を味わっている。 つまり、そういうもの・・・・ドラッグやアルコールに彩られた頽廃の魅力、ヒッピーやフラワームーヴメントや、六十年代の音楽がどういうわけか受け入れられ、全国的なブームにさえなりかけているというわけだった。 そのルーツであるところのR&Bやソウルをやっていた夏生のバンドもそのおこぼれにあずかり、最近は妙に忙しい。雑誌の取材、レコーディングの話、地方のライヴハウスを廻るツアー、結構充実している。 もちろん、一時的なブームだろうし、今でもそれだけで食べていくには程遠い状態だったけれども・・・・。 ともあれ、最初は面食らっていた夏生も、今ではこの状況を結構楽しんでいた。何であっても変化というものは歓迎すべきだ。 夏生の周りの、昔からここにいた人たちも、同じ考えらしかった。古いものにしがみつくことほど、彼らにとってつまらないことはない。 ただ、浮浪者同然の人や本物のアル中、ヤク中にとっては辛い変化だったのだろう。彼らがあっと言う間に姿を消してしまったのは、少し残念なことだった。 たった一度だけ、リョウがライヴを見に来たことがあった。 競技中のけがが原因で、もう大きな試合には出られなくなってしまったという噂を聞いていたが、意外に元気そうで夏生は安心した。 今年大学を卒業したら、高校の先生になるのだという。女の子を連れていて、もうすぐ結婚するのだとも言った。 「萩原はいるの? そういう奴」 そう聞かれて、少し困る。 何度かの恋愛を経て、いま付き合っているのはリョウみたいなタイプの男の子だったからだ。 人の良さそうな、スーツ姿の彼を紹介されて、リョウも少し驚いたようだった。 同じ歳のサラリーマン、近くの商社に勤めていて、趣味で夏生のバンドのマネージャーをやっている。 どういうことなんだと聞かれれば、何も答えられないのだけれど・・・・。 つまり、夏生にとっても四年間という年月はそう短いものではなかったということ。 街が変わるように、彼女も変わった。 夏生の歌を素直に褒めちぎる彼を見て、リョウも少し安心したみたいだった。 もちろん彼女は今でも、あの恋のことを忘れかねている。 突然断ち切られ、きちんと区切りをつけることのできなかった思いは、心のどこかにちゅうぶらりんのまま、彼女の胸を疼かせる。 だけど今少しわかる気がするのは、高校生の頃の彼女には、彼を救うことなどできなかっただろうということ。 あの二人が何に苦しんでいたのか、あの頃の夏生にはよく理解できなかった。 酒やクスリに走らずにはいられないほど、彼らは何を恐れていたのか、今ならわかるような気がするし、やっぱりわからないような気もする。 ただわかっているのは、真実と言えるものなど、この街の中にも外にもないのかもしれないということ。 ここには夏生の好きなソウルがあり、ここに居さえすれば、何かが見つかると彼女は思ってきた。 だけどここで暮らすようになってから、彼女が見たのはこの街の中で流されながら、転がるように生きてただ破滅してゆく人々。 その空気の心地よさに身を任せていると、自分も同じ運命をたどるのではないかという不安を感じる。 生きる意味など見いだせず、未来が見えないまま無為に時を重ねていくのではないかという不安。会社に勤め、結婚して子供を生むといった普通の人生を送るなら、向き合わずにすんだ不安が、この街には巣くっている。 それでも多くの人はこの生活を捨てる気などさらさらなく、全てを笑い飛ばして見ないふりをするために酒やクスリに手を出して、地獄のような悪循環に陥っていくのだけれど。 リョウと帰ったあの日に見た夕焼けを、夏生はまだ心のどこかに残している。だから彼女は笑い飛ばすことも、酒やクスリでごまかすこともできなかった。 もちろん馬鹿騒ぎは大好きだったし、浴びるようにバーボンを飲むことも時にはあったけれど、どんな時にも彼女の頭はクリアで、いつも何かを探していたような気がする。 そんな風にして見つけたのが、今の恋人だった。 意外にも彼はかつて大好きだったあの人にどこか似ている。 不器用で真摯なところや、あらゆることをさらっと受け流すことができず、考え込んでしまうところ。 それでいて、かつてあの人がやろうとしてできなかった生き方を、彼はやってのけているのだ。 地に足をつけ、自分が求めるものとのバランスを保ちながら生きていくこと。 それは不可能なことではないにせよ、どんなに難しく、疲れることであるか、夏生は知ってる。だから彼を偉大だと思った。 音楽にめっぽう詳しく、この街の空気に自然に溶け込みながら、背広やネクタイを少しも窮屈だと思わない彼を。 そんなわけで、彼とはもう二年近くも続いている。頭のいかれたバンドマン達を相手に半年ともたない恋愛をしてきた彼女にとってこれはすごいことだった。 夕方、いつものように仕事に出ると、めずらしくトモさんが先に来ていて、夏生に封を切ってある手紙を投げてよこした。 「なんなのこれ?」 「彼からよ」 見覚えのある差し出し名に、夏生の手が止まる。 「出所したんだって」 「こんなに早く?」 「正当防衛だったのよ。ナイフ持ってたのは奥さんの方で、彼女を止めようとして刺してしまったのね。クスリやってたから話がややこしくなってしまったんだけれど」 「・・・・・・・・」 「読んでいいわよ、それ」 夏生は少し考えて、首を横に振った。 「・・・・ここに帰ってくるの?」 「ううん、アメリカに行くんですって。向こうで店を持つのが、昔からの夢だったからって」 「そう・・・・」 どうして彼はあんなことをしたのだろう。ずっとそのことは考えまいとしていた。今、その答えを知って、夏生はほっとしている。 「よかった、そういうことだったのね」 「そういうことだったのよ」 トモさんは笑った。 「で、向こうで落ちついたらまた住所を知らせるって書いてあったけど」 「え?」 「その時には教えてあげようか。会いに行きたいんじゃないの?」 彼と聴いたいくつものメロディーが、胸の中に流れ出し、夏生を混乱させる。 手紙を持つ手がふるえ、彼女はうろたえてそれをカウンターの上に置いた。 こんなにも簡単に、あの頃の気持は蘇ってしまう。だってそれを過去のこととして、しまいこんでしまったことなど一度もないのだから。だけど彼女は首を横に振った。 「私のことは、何か?」 「何も書いてなかったわ。忘れたわけじゃないと思うけど・・・・」 トモさんは言いにくそうに答えた。 「それでいいの」 夏生は少し安心して言う。だけどやっぱり迷っている。彼に会ったところで、何にもならないことはわかっているのだけれど・・・・。 トモさんはそれ以上何も言わず立ち上がりレコードをかけた。 アニマルズの「悲しき叫び」が流れ出し、夏生の胸のメロディーと重なる。 彼女は何もする気になれず、カウンターに頬杖をついて、待っていた。恋人がここに来てくれるのを。 彼が仕事を終え、スーツ姿のまま大急ぎでここに走って来て、屈託のない笑顔で、この切なさを吹き飛ばしてくれるのを、彼女はずっと待ち続けているのだった。 end |
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最後まで読んでくださって、ありがとうございました。 (『Love&Peace』 木原美音) メールフォーム |