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夏休みも近づいたある日、信さんがリクルート・ルックで学校に現れた。
「やっぱ、一年遅れてるからな、ちょっとは焦らねえと」
みんなの皿のような目の集中攻撃を受けて、照れくさそうに言う。
そりゃ、ふだんジーンズばっかの人だから、その意外性に驚いてしまったのも確かだけれど・・・・・。

この人が地道に会社勤めすることを考えてたなんて、みんな、夢にも思ってなかったのだ。

その日は金曜日、スーツ姿でベースを弾く信さんは、なかなか決まってて素敵だった。
だけどこの人らしくなく、なんだか音が疲れてる。

閉店後、例によって私が弾くAs Time goes byを、ピアノにべたーっと張り付いて、じっと聴いてる。
目を閉じて、何かをじっと考え込んでるみたいに。
こんな風に無心に聴いてくれる人がいると、思わず私も必死になって弾いてしまう。

店のどこかから、春菜さんがピアノに合わせて口ずさむ声が聞こえてきた。
あんな風に歌えたら、もっと絵になるに違いないのに。
そんなことをぼんやり考えてると、ふと、目を開いた信さんと、まともに視線が会って、どきっとした。
「やっぱ・・・・毎日弾いてると、音も変わってくるな」
ほ・・・・ほめられてるのかしら。じっと見つめられてそんなことを言われ、私はよけいに頭に血が上る。
「お前って、すげえ下手だと思うけど」
手にもった水割りをからんとならして、信さんは言った。
「音楽してると思うよ。やたら上手いやつよりも。そういうのが、ほんとの音楽ってもんだと思う」
その言葉の意味は、もひとつよくわからなかった。たぶん、曲に対する思い入れみたいなことを言いたかったんだろうと思うけれど。
私は黙ってもう一度弾き始める。
店の中はなぜかしんとしてた。信さんは、少し酔ってるみたいだった。



「ねえ、どうして信さん、就職する気になったの?」
私の素朴な疑問にすぐには答えず、ハンドルを握った信さんは、前を向いたまま、苦笑いの顔になった。
「ふつうは、卒業したら就職するもんだろ?」
「そりゃ、そうだけど・・・・・・」
普通は・・・・なんて常識が、信さんに通用したことなんて、今まで一度だってなかった気がする。
「信さんは、ずっと音楽やっていくもんだばかりと思ってた」

中学校のころからベースをやっていた信さんは、今でもセミプロのようなもので、スタジオミュージシャンのアルバイトを時々やってる。このままいけば、それを本業にできないことはないし、周りの者も、そうするものと思っていたのだ。
だいたい、自分の好きなことで食っていけるなんて幸せ者、めったにいないよ。
「やっていくつもりだよ。チャンスがあれば、気に入った連中と好きな音作っていきたいけどな。あいにく今のところはそれで食っていける見通しもないし」
「仕事選ばなきゃ、じゅうぶんベースで食べて行けるじゃない」」
「それって、俺のほんとにやりたいことじゃない」
「ぜいたく者」
「だから当分は、社会復帰の努力をしてみるのもいいんじゃないかと・・・・」

アパートの前の駐車場に入り、車が止まる。
「着いたよ」
こちらを向いた信さんの疲れた顔が、街灯に照らされてはっきり見えた。
なぜだかわからないけど、私はひどく不安な気持になる。
「大丈夫? 信さん」
信さんはハンドルにもたれ、まっすぐ前を見てる。
何かじっと考え込んでるみたいに、一点をじっと見つめて。
そんな信さんの、焦りや不安みたいなものが、私にもはっきりと伝わってくる。それは、私がいつも感じていたものと、同じ種類のものだったから。

「信さん?」
「疲れるなあ、普通に生きてくってのも」
ぽつんとつぶやいた信さんは、もう一度私のほうを見て、「なぁ・・・・・・」と笑った。
こうやって話をするようになってから、何年もたつのに、いまだにまともに見つめられるとどきどきする。
今日は特にそう、こんな信さんの顔、初めて見たような気がするから。
「本当に好きなことは、ヘタに仕事にしたくないし、自分の選んだことだから、やり通せる自信はあるんだけどな。これからやらなきゃならないことを考えたら、うんざりするぜ、まったく」

他の人たちがどんなに望んでも手にできないものを、信さんはいつも易々と手に入れて、迷うことなんか、ぜんぜんなくて、自信たっぷりに、自分の道を歩いて行く人だと、私は思ってた。
まさか自分と同じように、未来に不安を感じたり、現実に足をとられたりすることがあるなんて。

好きなことを純粋にやっていきたいから、とりあえず普通に生きてみるなんて、信さんらしい考え方だけど、少し酷なことなんじゃないの?
だけどそれは、信さんが決めたことだから、私には何も言えない。

「信さん・・・・・」
「あ・・・・悪い悪い、今日の俺、ちょっと変だから、気にすんな。とっとと帰って寝ろよ」
そうじゃなくて・・・・。
「ねえ、信さん、逃げよう」
「へ?」
「私もいっしょなの。あれこれ考えるとうんざりするし、ずっとこのままでいたいと思う。逃げたいの、未来から。ね、今だけ逃げよう」

あとから思えば、なんと大胆なことを言ってしまったことか。
だけど信さんは、私の気持を理解したみたいだった。
すぐには答えず、少し考え込んでる。
「逃げる? 俺といっしょに・・・・」
うなずいた私に、信さんは、にっと笑った。なんて素敵な笑顔。
そっと顔が近づいて、唇が軽く触れる。

ぽーっとしてる私を乗せて、車は再び動き出した。





私にとって、恋愛というのはいつも、「逃げ」の手段でしかなかったように思う。
少なくとも、私の求めるものは、それだった。
迷って迷って、行き場がなくなったとき、どうにも不安になってしまったとき、気が付けば誰かを求めてる。
だけどうまく行ったことなんてなかった。いつもごたごたしたしがらみが、安らぎ以上に私を悩ませることのほうが多かったから。
恋愛とて人間関係のひとつなのだから、仕方がないといえば仕方ないのだけれど。

ただ私が欲しかったのは、少しの間だけ安心させてくれる何か。
信さんがそれにぴったりの人だってことに、どうして今まで気づかなかったんだろう。ずっと、惹かれてたはずだったのに。
まさか現実にこういうことになるなんて、思いもしなかった。

夜明けの薄闇を通して、車の窓から月が見える。だけど今は、そのゆくえを追ったりしない。
これっぽっちも、不安になんか、ならないよ。
不思議よね。誰かといっしょにいるだけで、なにもかも忘れてしまう、
何ひとつ、うまくいく方法なんて、見つからないのに。

信さんは最後に私をぎゅっと抱きしめて、照れたように笑った。
広くて暖かい胸の中、ぼんやりと窓の外を見ると、目に染みるぐらい真っ赤な朝焼けが、海を染めていた。
どこか遠くで、汽笛の音がする。こういうシチュエーションには、恥ずかしくなってしまうほどぴったりの、夜明けの港。
「よく来るの? ここ」
「ときどき・・・・・・」
誰と? とは聞かなかった。信さんだって、いつもそうやって逃げ場を求めてきたんだろうから。
「信さん、ウェザー・リポートある?」
「ん?たしかあったと思うけど」
「かけていい?」
カーステレオから流れ出したメロディーに、私は黙って耳を傾ける。信さんも何も言わず、静かに海を見ていた。
日が昇りきってしまうまで・・・・・薄あおい天空に、もう月は姿を現さない。
「なあ、美夜子」
「なに?」
「お前、俺のことよくわかってると思うけど・・・・・」
信さんはそこで困ったように言葉を切った。だけど彼の言いたいこと、私にはよくわかっていた。
大丈夫、私も逃げたかっただけなの。またいつか、行き場がなくなったとき、いっしょに逃げてくれたらいい。
それまでは、今まで通り、ただのバンド仲間でじゅうぶん。
「ねえ、信さん、がんばろうね」
「なんだよ、急に」
「私、信さんがどんなことを音にしたいのか、よくわかってる。大丈夫、信さんならできるよ」
信さんは私をじっと見た。
「私、ずっと落ち込んでたの。どうすればいいか、わかんなかったの。でも、こうしてると、なんとかなりそうな気がすんねっ」
信さんは、笑って私の頭をくしゃっと撫でた。








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