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最後のお客さんが帰ってしまうと、店の中は急に薄暗くなった。
p.m.1:00、窓の外を通る人影も、もうずいぶん少ない。
さっきまでにぎやかにジョークをとばしていたバンドのメンバーたちも、さすがに少し疲れを見せて無言で楽器を片づけ始めた。
だけど私は、掃除を始めたウェイターさんたちの邪魔にならないように、もう一度ピアノの前に座る。
今日、店に入ったときからやりたくって仕方のなかったことをするために。
流れ出す静かなメロディーは、As Time Goes by。
祭りの後のようなくたびれた空気に、そっと溶け込んでゆく。なんてよく似合う曲なの。
昨日見た銀幕の中の黒人ピアニストを思い出し、私は目を閉じる。
「美夜子、お前カサブランカ見た? 昨日テレビでやってた・・・・」
何時の間にか片づけを終えたベーシストの信さんが、すぐそばにいた。
目が合って弾くのをやめると、にっと笑ってそう聞いた。
「そう、弾きたくて仕方がなかったんだ。この曲」
「お前ってほんと、影響される性格なんだな」
悪うござんしたね。でも、当分は凝りもせず毎日弾き続けるだろうと思う。
カサブランカは素敵だった。バーグマンもよかったけれど、いちばん良かったのは、あの黒人のピアニスト、サム。
彼の弾くAs Time Goes byは本当に心にしみて、絶対真似しようって思ってた。
「ちくしょー、俺もピアニストだったら絶対やろうって思ってたのに」
悔しそうに横から口を出すのは、ドラマーのコジローさんである。
「うんにゃ、この曲は20歳そこらの小娘なんかに弾ける曲じゃないっすよ」
信さんに冷たくそう言われ、私はちょっとむっとする。
よけいなお世話よ。そんなことぐらいわかってるけど、弾いてみたっていいじゃない。
「なあ、美夜子」
そんな私のふくれっ面にはかまわず、急に口調を変えて信さんはピアノに頬杖をついた。
「もっぺん、弾いて」
私は何も言わず弾きはじめる。弾きながら、ちらっと信さんの顔を見る。
まるでボギーみたいだ。端正な顔立ち、一昔前の伊達男のような物腰は、わざとやってるんだろうかといつも不思議に思う。
ひとたび口を開けば憎まれ口ばっかりだし、女の子にはずいぶんいいかげんだけどね。だけど、こうやって黙ってピアノに耳を傾けてるところなど、銀幕から抜け出てきたみたいで、心ならずも胸が高鳴ったりする。
少し物憂げに目を伏せた信さんがそばにいるせいか、けだるい眠気も手伝ってか、キーをたたきながら、ふっと現実感が遠のいてしまう。
すべては夢。辛いことも、苦しいことも、解決しなければならない山のような問題も、もうどうでもいいことだ。
音楽って不思議。心地よい4ビートに身を任せることが、人生最大の解決法であることを、とみに感じる今日このごろ。
しかし、信さんは立ち上がって無情に言った。
「まだまだ音が硬いんだよなあ。やっぱこの曲やろうなんて10年早いぜ」
ごもっともだと思います・・・・・・まあ、なんてことのない金曜日の一場面なんですけど。

コジローさんの車で送ってもらって、一人暮らしのおんぼろアパートにたどりつく。
a.m.3:00。電気をつける元気も、シャワーを浴びる元気もなく、手探りで服を着替えてベッドに転がる。
薄闇の中に浮かぶのは、霧のマンハッタン。壁いっぱいのニューヨークの夜明け。
友達のバイトしてる店で特注して作ってもらった特大ポスターである。
ベッドにはもぐりこんだものの、眠れない。いつもそうだ。すっかり固くなってしまった指には、まだピアノの感触が残っている。
頭の中には4ビートが今も鳴り響いてる。
ステージのあとはいつもそう。不思議な胸騒ぎが、私を眠らせてくれない。初めてバンドでピアノを弾いたときからずっと。
こんな胸騒ぎと一緒にベッドにもぐりこんだ夜は、もう何度目になるのだろう。時の流れなんて、ほんとにあっという間だ。
ラジオのスイッチに手をのばせば、FMから流れ出すのは、タイムリーにも、ウェザー・リポート。窓の外に白みかけた空に、透明なお月様がぽっかりと浮かんでいた。
朝になれば、月はどこへ行くのだろう。私はこのまま、時の流れに漂って、どこへたどりつくんだろう。
独りでいると、あれこれ考えることが多すぎる。
ウェザー・リポートは無機質で、哲学的で、そのくせ妙にセンチメンタルで、ノスタルジーをかきたてる。
だから私はわけもなく、泣きたくなるのだ。

私が大学のサークルの先輩たちといっしょに、ジャズクラブ「LEAVES」の金曜日のステージに立つようになってから、1年ちょっとになる。
思えばクラシックピアノこそ少しはかじっていたものの、ジャズなんてそれまで聴いたこともなかった私が、よくここまでこれたもんだ。
2年先輩の信さんに、バンドに引っ張り込まれたときも、正直言って迷惑だった。
だけど今は夢中。毎週金曜日が楽しみでしかたない。
いつかはニューヨークに本場もんのジャズを聴きに行こうと、今必死でお金をためてる。おかげでバイトと練習にあけ暮れて、学生の本分はどこへやら。親が見たら泣くような生活をしてる。
そんな私も、もう3回生になってしまった。
めでたく留年が決まった信さん(そしてめでたくプータローになってしまったコジローさん)は別として、卒業してやめてしまった人もいて、バンドのメンバーも若干、変わった。
そして実家からは、不良の生活をしている娘を案じてか、はやばやとお見合いをすすめる手紙がくる。
「ほんとに? 美夜ちゃんお見合いするの?」
「しませんてば、そんなもん」
「しないんなら、私にまわして、その話」
春菜さんは卒業5年目の28歳であるからして、世間の風当たりはもっときつい。なのに残業をすっぽかしてステージにかけつける、その根性は見上げたもんだ。
「なーんにも考えずに、歌っていたいんだけどなあ、いいなあ、学生って」
それが最近の、春菜さんの口癖。
大学生活も折り返し地点を越えて、先が見え始めた私にも、その言葉は少し切実に響く。
本当に、私だって今という時の中でなら、精一杯生きる自信はある。
だけど先のことなんて、わかんないじゃない。
未来になんて、何も望まない。どこへ行きたいとも思わない。ただ、いつまでもここにいたいと思う。
だけど、本当に時は無情に流れてゆく。
少しずつ、少しずつ、トコロテンのように押し出されてゆく気持。
どうすれば、止められるの?
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