大切な日 第2話








葉月は雅彦と出会った日のことを昨日のことのように覚えている。
ビアガーデンでのバイトは思った以上に大変だった。
重いビールジョッキを持ってフロアをひたすら動き回るのは身体に堪えた。
それにトラブルも多い。
ビアガーデンなのだから、ひとり客は皆無で、ほとんどが団体客。しかも静かに飲みたいのではなく、ワイワイ騒ぎたい客が大半だ。
加えて酔っているからたちが悪い。
客側のオーダーミスやグラスの破損、いわれのないクレームなど精神的にも疲れるものだった。
誰もがウェイターなんてただのお運びだと思っていた。
そんな時、初めてかけてもらった「ありがとう」の言葉。
それが雅彦だった。
葉月は自分は同性に惹かれる性癖なのだと自覚していた。
それが原因で嫌な思いもたくさん経験をした。いいことなんてひとつもなかった。
だからもう誰も好きにならないでおこうと決めていた。
それなのに、雅彦のたったひとことで葉月は雅彦に恋をしてしまった。
実は店に入ってきたときから雅彦のことは気になっていた。
おそらく会社の人たちだろう男女数人とやってきた雅彦は、かなり目立つ存在だった。
仕事帰りであろう雅彦はスーツ姿が凛々しい長身で、どちらかというとさっぱりした顔立ちをしていた。
しかし、他の誰よりも存在感があるのは、おそらく余裕があるからだろう。
今の生活にも、そして心にも。
少し冷めたような表情がより雅彦を大人の男にみせているようだった。
何よりも、纏う雰囲気が、葉月の好きなタイプだったのだ。
自分の性格上、葉月は賑やかな性格の人は苦手だった。あまりいい印象はない。
その点雅彦は違ったのだ。
落ち着いた大人の男性。物腰が柔らかく、その場に合わせることが出来る余裕を持っている。
短くカットされた髪を自然と立たせて、仕事帰りだというのに身なりに隙がない。
キリリとした眉毛と涼しそうな目元が、いっそう顔立ちを引き締めていた。
それから雅彦は何度か来店するようになり、話をするようになった。
少しでも顔を見たくて、わざと雅彦のテーブルの近くを通るようになった葉月の気持ちに、聡い雅彦はすぐに気付いたに違いなく、呼ばれては頬を赤く染める葉月に揶揄うような視線を送るようになった。
異性に好意を向けられるのは気持ちのいいものではないだろう。
もし葉月の気持ちを知ったら雅彦はきっと来なくなるだろうと思うと、それ以上近づくことは躊躇われたが、雅彦は動じないどころか、葉月のことを気に入ったようで、どんどん親しくなった。
優しい言葉は寂しさには慣れきっていたはずの葉月の心に簡単に入り込み、大人の包容力は孤独な葉月を包み込んだ。
一線を越えるのに時間はかからなかった。
雅彦がいいなら、葉月は抱かれてもいいと思っていたから。
むしろ願っていたのかもしれない。
雅彦との関係を深めていくことを。
それからすぐに葉月は雅彦の家に厄介になることになり、紆余曲折の後現在に至っている。





***   ***   ***





「葉月とこんな風にデートしたことなかったな」
ちょっと休憩しようと、カフェに入った雅彦が、一息つきながら漏らした。
「そう・・・ですね」
一面のガラスの向こうは冬の太陽にきらきら輝く海だ。
見下ろせば、紙袋をいくつも提げた買い物客が行き来している。
葉月はカップを手に取った。
「おいしい」
オリジナルブレンドだという紅茶をストレートで味わう。
雅彦はオーダーしたコーヒーもそのままにガラスの向こうを眺めている。
再会してからの雅彦はとても優しい。
しかしその優しさに葉月は戸惑ってしまうことがある。
雅彦は葉月を好きだ、愛していると言ってくれた。
その言葉は嘘ではないと今は信じている。
雅彦は、葉月を誤解してしまったことを後悔している。
というよりも、その誤解がもたらした、葉月への行為の数々を。
雅彦自身がそう言ったのだから間違いはないのだろう。
しかし、雅彦から受けた行為を、葉月は酷いことだとは思っていない。
あの時、雅彦が葉月の全てだったから、雅彦から与えられるものすべてを受け入れるつもりでいた。
雅彦がしたいならすればいいのだと、そう思っていたのだから。
葉月が傷ついたのは、料理をゴミ箱に捨てられたことでも、セックスに道具を使われたことでもない。
『出て行け』という言葉、たったひとつなのだ。
それもまた誤解であったのだが。
だから、葉月は思ってしまう。
雅彦が優しいのは、葉月への贖罪なのじゃないかと。
もとから雅彦は、自分のテリトリーに入れたものには、情を与え、優しく接する人だと思う。
気まぐれから葉月を受け入れ、少しずつであるが心を許してくれていく過程で、葉月はそのことに気付いた。
ほんの少しの間だったけれども、葉月は雅彦と蜜月を過ごした。
あの頃は雅彦に本当の意味で愛されているとは思っていなかったけれども。
そのときと同じように、雅彦は優しい。
でも、その優しさの種類が違うように感じるのは、葉月の勘違いなのだろうか。
今日のデートもそうだ。
一緒に出かけるなんて、ほとんど皆無に等しかった。
近所のスーパーやコンビニ、時折の外食と、ほとんどが徒歩圏内の場所ばかりだったのに。
「どうした?」
カチャリとカップが音を立て、雅彦がカップを片手に葉月を見つめていた。
「ううん。なんでもない。あ、ほら、夕陽」
気がつけば海がオレンジ色に変化していた。
「いい時間だったようだな」
雅彦も目を細めて視線をそちらに向けた。
好きな人とクリスマスを一緒に過ごせるなんて幸せなことだと思う。
だから今日は、今日だけは余計なことを考えるのはやめにしよう。
せっかくのデートなのだから、楽しもう。
葉月は気持を切り替えるように、少し冷めてしまったスコーンに手を伸ばした。





***   ***   ***





雅彦が時計を見る。
「そろそろ行こうか」
「はい」
二人そろってレストランをを出る。
すっかり真っ暗な夜の街をクリスマスのイルミネーションがキラキラと彩る。
「おいしかってです。ごちそうさまでした」
「そうか。それはよかった」
ショッピングモールにあるカジュアルレストランで、食事を済ませた。
クリスマスのなのにすぐに席に案内されたのは、雅彦があらかじめ予約しておいたからだ。
格式ばったディナーだと食事を楽しめないだろうと揶揄混じりに雅彦に言われ、葉月は恥ずかしながらも頷くしかなかった。
雅彦と一緒にメニューを眺めながらオーダーした料理は、ほとんどが葉月の好きなものばかりだ。
外食はほとんどしないけれども、葉月の作る料理で雅彦は葉月の好物を理解しているようだった。
葉月からすれば雅彦の嗜好に合わせて毎日頭を悩ませているのだから、お互い好きなものが似ているということなのだろう。
すべてが初めての体験で、心がウキウキして、いつもよりも食欲が出た気がする。
最後にオーダーしたホワイトチョコレートのスフレは、酸味のあるベリーのソースとのマッチングが絶品だった。
葉月がおいしいと顔をほころばせると、フルーツをふんだんに使用したタルトを追加注文してくれた。
クリスマスということでカップルが多いのではないかと思っていたが、意外にも家族連れが多くて安心した。
こんな夜に男ふたりで食事だなんて絶対に浮いてしまうだろうから。
おそらく雅彦はそういう点も配慮して、ここを選んでくれたのだろう。
雅彦がクリスマス特集の雑誌を熱心に眺めていたのを葉月は知っている。
クリスマスにデートしようと誘われた時、葉月は嬉しいと同時に戸惑いを覚えた。
なぜなら、再会前の雅彦は、そういうことに全く無関心だったから。
一緒に過ごした時季の影響で、いわゆる恋人同士が盛り上がるイベントを一緒に過ごす機会はなかったけれども、デートと呼ばれるような外出でさえしたことがなかった。
雅彦に誘われたことは一度もないし、ましては葉月から誘うことなんてありえなかった。
雅彦が優しくないとは思わないし、むしろふたりの時には甘いほうだと思う。
あまり感情表現が上手くないとは思うけれども、それは葉月も同じことだ。
感情を言葉にするのが苦手で、口数も少ない。
だから葉月は雅彦の心を読み取るのが難しかった。
それがあの誤解を生む原因となったのだが。
そんなわけで、再会してからの雅彦の優しさに戸惑いを覚えてしまうのだ。
これが本当の雅彦なのか。
それとも葉月に対しての負い目がそうさせるのだろうかと。
さっき今日という日を楽しもうと誓ったばかりなのに、小さな不安が影を落とす。
葉月自身がそういう扱いに慣れていないだけかもしれないけれども。














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