始まりの場所





第ニ話






やっぱりだった。
やっぱりダメだった。
侑哉は亨との約束をドタキャンした。
もちろん悪気なんてこれっぽっちもなく、恒例のアレに襲われたのだ。
今回も全く同じだった。
前日までは何ともなかったのだ。
不安がなかったと言えば嘘になるが、それよりも嬉しさが侑哉の心の大半を占めていた。
ここのところアレに襲われることもなかったし大丈夫だと、真樹に指摘されるまでアレの存在を忘れていたくらいなんだからと、強く強く言い聞かせてその日を過ごした。
メールで待ち合わせ場所と時間を決めて、何を着ていくか頭を悩ませ、いつもより長めに風呂に入って、まるで女の子みたいだと思いながらも、恋する気持ちはとめどなく侑哉をワクワクさせた。
冷静に考えれば、最近大丈夫だったのは、侑哉の心をワクワクさせるようなことがなかっただけだったのだ。
案の定、朝起きてみれば身体がだるく、ヤバイと思ったときは遅かった。
いや、ヤバイと思った瞬間に熱が上がったのかもしれない。
とにかく真っ赤な顔をした侑哉にびっくりした母親が熱を計ってみれば、見事にぴったり38度。
それでも平気だと立ち上がってみれば、ふらつく始末。
外出禁止令を出された侑哉は、亨にメールを入れたのだった。
もちろん亨はそんなことで怒るはずもなく、侑哉を気遣うメールを返信して寄越した。
週明けの図書室。
申しわけなくて泣きそうになってしまった侑哉に、亨は「また次な」と笑いかけてくれた。
めったに見せない笑顔を自分には見せてくれる。
侑哉は亨の優しさをしみじみと感じた。





*****     *****     *****





1年の時、変に入試で高得点を取ってしまった侑哉は、前期のクラス委員に任命されてしまった。
もとより真面目で内向的な性格だ。
押し付けられた感はあったけれど断る勇気もなく、不安な面持ちのまま出席した代議委員会で、亨に出会った。
ガラリと扉が開き彼が現れた瞬間、ざわめく教室は水を打ったように静かになった。
整った顔立ちに怜悧な表情を浮かべるその人は、侑哉の知り得る人の中で一番のハンサムだった。
議題を進める議長の隣りで毅然とその進行を見守るその姿に、侑哉は見惚れてしまった。
3年のクラブ部長を相手に堂々と渡り合い、最後には納得させてしまう巧みなディベート術は決して高圧的ではなく理路整然としていて、その真っ直ぐな性格を表しているようだった。
自分にはないものを持っている彼に憧れを抱くのに時間はかからなかった。
ただ、どんな時でもクールな印象を与える彼の笑顔を見たことはなく、侑哉は憧れと一緒に畏怖の念も抱いていた。
憧れが恋にかわったのは、何回目の代議委員会だったろうか。
朝から身体の調子が悪かったのだが、その日侑哉は無理して登校した。
なぜなら月に1回の代議委員会のある日だったから。
誰に遠慮することも咎められることもなく、亨の姿を眺めていられる唯一の日だったから。
よっぽど顔色が悪かったのか、心配した真樹が何度も代理出席を申し出てきたが、侑哉は笑顔で断った。
そして案の定、途中で気分が悪くなって・・・・・・
それでも亨と同じ空間にいるという喜びは、侑哉を何とか持ちこたえさせた。
委員会が終わってほっとしたのもつかの間、帰ろうと立ち上がった途端、軽い目眩を覚え、椅子に座り込んでしまった侑哉を気にするものはひとりもおらず、ガタガタと音をたててみんな教室を出てゆく。
こういうとき、気遣いの声をかけられるよりも放っておいてくれたほうが気は楽だから、侑哉は身体の力を抜いた。
突っ伏した机に頬をくっつけるとひんやり気持ちいいのは、きっと熱があるのだろう。
ある意味こういうことに慣れているので、しばらくじっとしていれば楽になるだろうと、そのまま目を閉じる。
遠くにブラスバンドの合奏練習を聞き、うとうとし始めた時だった。
コンと机に何かが置かれる音を間近に聞き、ゆっくり顔を上げると、ひとつ前の机にスポーツドリンク。
さらに身体を起こせば、そこには憧れの亨が立っていた。
驚いて立ち上がった侑哉の肩に触れ座らせると、無言でペットボトルを侑哉の前に置いた。
「その飲んだら楽になると思う。しばらくしたら送ってくから」
突然の出来事に状況を受け入れずにいる侑哉が全身固まったままでいると、親切にペットボトルのフタを開けてくれた。
差し出されたペットボトルをおずおずと受け取ると、手のひらがひんやりと心地よくて、促されるままにゴクゴクと一気に半分くらい飲み干せば、少しばかりスーッと身体が楽になった。
「楽な姿勢してろよ」
そのまま少し離れた場所に腰を下ろした亨は、侑哉など無関心な様子で参考書に目を落としている。
憧れの人と教室にふたりきり。
そんなシチュエーションは侑哉を緊張させるはずなのに、何故だか穏やかな気分になったのは、必要最小限のことしか口にしない亨のせいなのか。
それとも熱に浮かされている侑哉自身のせいなのか。
無言のまま肩を並べて帰る道のりは、いつもの色とは違って見えた。
あの時どうして緊張しなかったのか、今でもわからない。
憧れの人に優しくされたから、好きになったわけじゃない。
今思えば一目見た時から亨は侑哉の心を捉えていたのだ。
女の子に興味が湧かず、もしかして・・・と自分の性癖を疑い始めた矢先の恋だった。





*****     *****     *****





おかしいな・・・・・・
確かなきっかけがあったわけじゃないけれど、侑哉はそう思った。
例えば図書館で。
広げた参考書に真剣に取り組む亨をカウンター越しに眺めているとき。
以前より視線が合う回数が減ったように思う。
間近に迫った受験のため、これまでになく真摯に勉強に取り組んでいるといえばそれまでなのだが。
例えば帰り道で。
以前より会話の時間が短くなったように思う。
必要以上におしゃべりしない、どちらかと言えばクールで寡黙な亨であったが、それ以上におとなしい侑哉に対しては積極的に話をしてくれたのに。
沈黙の時間が増えたためか、バス停までの道のりがやけに長く感じるようになった。
例えばバス停で。
以前よりふたりの間に距離ができたように思う。
亨の乗るバスがくるまでの時間を、並んでベンチで待つのが暗黙の了解になっている。
そんなに広いベンチではないし、おまけに寒空の下だから、自然と腕と腕が触れ合う距離に腰を下ろす。
厚手のコートを着こんでいても、微かにふれあいを感じるだけでドキドキして、そこに全神経が集中してしまう侑哉であったが、気がつけばふたりの間に微妙な空間ができていた。





もしかして面倒がられてる・・・?





そう思った瞬間、胸の奥が搾り取られるようにギュッと痛んだ。
考えれば考えるほど、そうとしか考えられない出来事が思い出されて、どんどん痛みが増してゆく。
メールの数も少なくなった。
廊下ですれ違っても視線さえ合わない。
それに・・・・・・休みの日に誘ってくれなくなった。
最初にドタキャンした後、怒りもせず「また次ぎな」と優しく笑いかけてくれた亨は、約束通り休みの日に何回か誘ってくれた。
予備校の休講日であったり、模試の後の少しの時間だったり。
それでも忙しい亨が自分を忘れずいてくれることに、その都度侑哉の心は舞い上がって・・・・・・
そしていつものアレを引き起こした。
ドタキャンすること、すでに5回。
どう考えても我慢の限界だろう。
いくら悪気がないと言っても、約束を反故にされるのが気持ちのいいことではないことくらい侑哉にもわかる。
アレが原因で侑哉がドタキャンをするたびに、真樹は亨に正直に告白しろと言う。





『ぼくは楽しみが大きいほど緊張して熱を出してしまうんです』





そんな恥ずかしいこと言えない。
言えるわけがない。
きっと呆れられてしまう。
オトナで、しっかり感情をコントロールできる亨には、侑哉なんてただの弱い人間に思えるだろう。
亨に嫌われたくなかった。
コドモみたいなヤツだと思われたくなかった。
付き合おうと言ってくれた亨だから、少しは自分を好きでいてくれるのだろう。
その『好き』が今以上に増えなくても、絶対に減らしたくはなかったから・・・・・・




*****     *****     *****





亨の合格を知ったのは職員室にプリントを提出に行ったときだった。
3年教師団の机の島から聞こえてきた亨の名を侑哉は聞き逃さなかった。
亨が落ちるなんて考えられなかったけれど、第一希望は超難関校だと聞いていたし、受験なんて運も左右すると思うから。





よかった・・・・・・





ホッと安心して、ポンポンとブレザーのポケットに触れてみた。
そこには、亨に渡すことすら叶わなかったお守りが鎮座している。
お正月にちょっと遠出をして学問も神様で有名な神社で買ってきたものだ。
亨に渡すことはできなかったけれども、侑哉は毎日毎日亨の合格を祈願していた。
気がつけば握っていたから、真っ白だったお守りも手垢で少し汚れてしまっている。
どれくらい亨と会っていないだろうか。
どれくらい亨の声を聞いていないだろうか。
自然消滅とかこういうことを言うのだろうと、侑哉はすっかりあきらめていた。
メールの数が減り、いつかの侑哉の返信を最後にぱったりと来なくなった。
図書館に姿を現すこともなくなり、必然的に一緒に帰ることもなくなった。
それでも学校に行けば亨の姿を見ることができたけれど、3年生が自由登校になってからはそれも叶わなくなった。
だからといって侑哉から亨に連絡をしようとは思わなかった。
受験を目前に忙しいからとかそういう問題じゃないと、侑哉にはわかっていたから。
誰だってこんな面倒くさいヤツ、嫌になるに決まっている。
面倒くさい上に、面白くもないし、一緒にいたって何のメリットもない人間なのだ。
きっと亨にもはっきりそれがわかったのだろう。
ドタキャンのたびに『好き』はどんどん減っていって、いつの間にか消えてしまったのだろう。
逆に、忙しい中をよく1ヶ月ちょっとも侑哉の相手をしてくれたものだと、亨の寛大な心に感謝したいくらいだ。
亨と過ごした時間は夢のようだった。
亨はどう思っていたのか知らないが、少なくとも侑哉にとっては幸せな時間だった。
上手く交わせない会話や、例のアレにたくさん悩まされたけれど、かけがえのない時間だった。
告白される前よりも、ずっとずっと亨のことを好きになっていることが、その証だ。
もうすぐ卒業式。
クラス委員の侑哉は出席を義務付けられているが、欠席するつもりだ。
亨に会いたくないから。
亨に自分のことを思い出して欲しくないから。
きっと亨の中の自分は、素晴らしい亨の高校生活の汚点でしかないはずだ。
つまんないヤツに告白したもんだ、なんて笑われたくなかった。
そんな風に思い出になるくらいなら、いっそのこと思い出して欲しくないし、侑哉のことなんて消してしまってほしい。
そう思って、侑哉は自分の傲慢さに気がついた。
亨の中には、もう自分なんていないかもしれないのに・・・・・・
思い出の一部になっているなんて自意識過剰もいいところだ。





やっぱりオレって最低・・・・・・





侑哉はポケットのお守りをギュッと握り締めた。
 






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