始まりの場所





第一話






「明後日の土曜、映画でも行く?」
遠くにバスの姿を捕らえ、今日はこれでお別れだなってちょっぴり心沈みかけた時だった。
思いがけない言葉に、侑哉は隣りに座る亨の方へ首を捻った。
視線が合うことはなく、亨は向かいに停車しているバスの看板を眺めていた。
「でも、先輩、予備校なんじゃ・・・」
「休みだから誘ってるんだけど?」
そう言ってこちらを向いた亨と目が合って、侑哉は返事もせずに思わず俯いてしまった。
バスの排気音がどんどん大きくなり、同じようにバスを待つ人たちがそわそわと動き出す。
「用事あるのなら無理しなくてもいいから」
「よっ、用事なんてないです!」
慌てて否定した時、ブレーキ音とともに目の前にバスが停車した。
「じゃあ、土曜、東口の改札に11時な」
よいしょ、と亨は立ち上がると、ベンチに座ったままの侑哉を残して、バスのステップに足をかける。
その背中を見送るために、遅れて侑哉も立ち上がった。
ずっとずっと追い続けていた亨の背中を穴が開くくらい見つめる。



振り返ってくれないかな・・・・・・



そんなささやかな期待を胸に抱いて。
くるりと亨が振り返った。
「楽しみにしてるから」
まさか願いが届くとは思ってもいなかったから、驚きのあまり返事もできずに固まってしまった侑哉を残して、亨を乗せたバスはバスターミナルを出て行った。





*****     *****     *****





「へぇ〜やるじゃん!」
「えへへへ・・・・・・」
翌日の昼休み。
侑哉は早速親友の真樹に昨日の出来事を打ち明けた。
真樹と侑哉はいわゆる幼なじみで、侑哉が亨に想いを寄せていたことも、その想いが叶ったことも全て知っているから、侑哉はこの昼休みを心待ちにしていた。
一刻も早く真樹に伝えたくて!
「それならすぐに知らせてくれてもよかったのにさ」
「あ・・・・・・」
「どうせ侑哉のことだ。嬉しすぎて舞い上がってそのことばっか考えて、おれのことなんて忘れてたんだろ」
真樹の言うとおり、嬉しさのあまり興奮してなかなか寝付けなかった侑哉は、寝不足で赤い目を伏せた。
「ごめん・・・」
しょぼくれてしまった侑哉に「どうせおれはそんなもんさ」なんて追い打ちをかけうるような言葉を吐きながらも、真樹の顔は笑っている。
「でも先輩、土曜は予備校じゃなかったけ?」
「そうなんだけどね、明日はお休みなんだって」
「ふ〜ん・・・おまえ、結構愛されちゃってんじゃん」
「な、なんっ、なんで―――」
『愛されてる』なんて思ってもみない言葉を聞かされて、恥ずかしさのあまり動揺する侑哉に真樹は続ける。
「だってそうだろ?先輩、受験生だし。いくら予備校が休みだからって、大事なこの時期に映画なんてさ。
そんな時こそ受験勉強に集中するんじゃねえの?普通なら」

それは侑哉も感じたことだ。
入試が目の前のこの時期、全国の受験生がひとつでも多くの単語を覚えようと寝る間も惜しんで勉強に励んでいるはずで、おそらく亨もその例外ではないだろう。
にもかかわらず、亨は侑哉に交際を申し込み、デートにまで誘ってくれる。





愛されてる・・・?




そんな実感は侑哉には全くと言っていいほどない。
あの運命の日からまだ数週間。
ゆっくり話をしたことも、肩を並べて歩いたことも、片手に余るほどの回数しかない。
いつも優しく接してくれるけれど、亨は誰にだって優しいし、自分だけが特別だなんて思えない。





だけど・・・・・・





期待してもいいのかな?
自分が思っている以上に、亨は自分を好きでいてくれるのかな?
叶うはずがないと思い込んでいた恋。
思いがけない成就にまだまだ感情がついていかない侑哉の心に、微かな自信が芽生えたのだった。





*****     *****     *****





 
それは放課後の図書室。
カウンター越しに受けた突然の告白に、侑哉は驚きのあまり声が出なかった。





『おれと付き合わない?』





見上げた先の、真っ直ぐに侑哉を見つめる双眸の持ち主は、秘めた恋心を抱いていた相手。
2年生から3年生の前期まで3期連続で生徒会長を務め、先生からも生徒からも慕われている、侑哉より1年先輩の亨だったのだから無理もない。
硬直したまま微動だにしない侑哉に亨は続けたのだ。





『いやじゃなかったら一緒に帰ろう』





その日の帰り道は亨の顔すら見ることができなかった。
何かと話しかけてくれる亨に、ただただ相槌をうつのが精一杯だった。
別れ際、駅前のバスターミナル。





『さっきの返事、聞かせてくれる?』





優しく問われて心臓が跳ね上がった。
壊れてしまうんじゃないかってくらいに、バクバク音をたてていた。





『オッケーしてくれる?』





視線も合わせず俯いたまま、侑哉は何度も何度もコクコクと首を縦に振った。
それが数週間前。
図書委員の侑哉には週に一度、放課後の図書当番が回ってくる。
受験生の亨は、授業が終わると予備校に向かうのだが、侑哉の当番の日は図書室で参考書を開き、侑哉の仕事が終わると一緒に帰ることに決めたようだった。
だから、付き合っているといっても、同じ時間を過ごすのは必然的に週に一度。
それでも侑哉にとっては夢のような時間だった。





*****     *****     *****





「でもさ、おまえ大丈夫なのか?」
告白されたときのことを想い起こしてうっとりしていた侑哉だったが、真樹の不安げな問いに夢見心地から一気に現実世界に引き戻された。
「なっ、何がっ?」
「何がって・・・・・・アレだよ、アレ!」
「あっ」
舞い上がりすぎてすっかり忘れていたそれは、侑哉にとってとてもやっかいなクセのようなものだった。
これまでの人生、それのために何度悔しい思いをしてきただろう。
「ま、おまえももうコドモじゃないんだし。心配ないか!」
変なこと言って悪かったと笑い飛ばす真樹をよそに、侑哉の心は鬱蒼とした思いでいっぱいになった。
アレとは。
楽しみなことがあると、必ずといっていいほど侑哉は体調を崩してしまうのだ。
その楽しみが大きければ大きいほど確実に、それは侑哉を襲う。
自覚したのはいつのころだったろう。
何しろ小学校の高学年のころから、侑哉はいわゆる楽しい行事といわれるものに参加したためしがない。
学校での遠足、運動会、修学旅行にいたっては小学校でも中学校でも欠席だった。
学校行事だけではない。家族旅行だってそうだ。
悪いことに、それは前日の夜に襲ってくるものだからたまったもんじゃない。
ワクワクしながら翌日の準備をする。
全く体調に変化は見られないから「今回は大丈夫かも」なんて期待を抱かせる。
なのにいつも朝が近づくにつれおかしくなり、発熱したりお腹をこわしたりするのだ。
さらに腹の立つのは、侑哉のワクワク感に比例してそれに襲われるのであって、侑哉が憂鬱に思っている――例えばマラソン大会など――ことに関しては皆勤賞だったりする。
そんなこんなを全て知っている幼なじみの真樹が不安を口にするのは当たり前のことで。
果たして明後日の自分はどんな状況にいるのだろうと、手放しでは喜べなくなってしまった侑哉だった。






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