largo 第九話
 








見つからない言葉に宗治は焦っていた。
衝動に駆られて山下を振り切ったのはいいが、いったい何を伝えればいいのだろう。
いや、いったい何から伝えればいいのだろう。







一年前の自分勝手な別れへの言い訳か。
そのことで渚を傷つけたことへの謝罪か。
それとも、まだ渚のことを愛してやまないことか。







改めて自分の臆病さを自覚し、宗治は突っ立ったままだ。
手を伸ばせば届くところに愛しい人が存在するのに、触れることもできず、ただ視線を落とすだけ。
まるであの時と一緒だ。
渚への愛を再確認するたびに、拒絶されるのが恐くて踏み出せない。
何も言わない宗治に業を煮やしたのか、渚が口を開いた。
時計のことに触れられ、先ほどと同じように思わず隠してしまった。
その行動に、渚が目を伏せた。
そして、思い切ったように気持ちを吐露し始める。
渚は自分の感情を言葉にすることは少なかった。
だが宗治はそんな渚の気持ちを理解することができるのだと自負していた。
自分だけが渚の理解者なのだという驕りが、いつの間にか渚を下に見ていたのかもしれない。
それが、自分にあんな態度を取らせたのだ。
渚が渚であることを否定し、他と比べて物足りなく思い、傷つけ、そして後悔した。
バカとしかいいようがない。
しかし、渚は、そんな宗治に感謝していると言う。
いや違う、そんなことはない、渚がそんな風に思うことはない。
そう言いたいけれど、タイミングも計れず、宗治はただ渚の言葉を聞いていた。
淀みのない渚の声。
淡々としているように聞こえるが、じっと耳をすませると、少し震えているのがわかる。
そして、その言葉が、宗治と渚との関係を、エンディングに近づけていることに気づき、宗治は内心焦っていた。
「時計、大切にしてくれた嬉しい」
なんだか永遠の別れの言葉のように聞こえる。
そしてその後続けられた言葉。
「山下くんと一緒に店に来てくれ。塚本さんも喜ぶし」
塚本が喜ぶから、また店に来て欲しい。
渚はそれが言いたかったのか?
山下と塚本がとても仲の良い関係だということは、山下に聞かされていたし、今日のふたりのやり取りをみていても理解できた。
塚本がどうやら宗治と山下との関係を恋人だと勘違いしているらしいことも。
同時に、塚本と渚の関係も、普通ではないことも。
宗治が渚のことを疎んじて、店に来ないようになると、山下も来店しにくくなるだろう。
たとえ山下がひとりで訪れても、塚本はつまらない詮索をし、心配するだろう。
だから、ぜひ一緒に店に来てくれ。
そういうことなのか?
「塚本ってなに?」
抑えきれない感情が宗治の心に湧き上がる。
「え?」
突然の怒りを押し殺した声音に、渚が驚いたように顔を上げた。
「おまえ、塚本と付き合ってんの?」
遠慮のない物言いに、渚が息を飲んだのがわかった。
しばらく黙り込んだまま、宗治から視線を外し、アスファルトを見つめた後、再び顔を上げる。
「だったら?」
震える声はくちびるをきつく噛んでいた。
そして、驚くことに、その双眸が濡れていた。
渚は一度も涙を見せたことがなかった。
父親に暴力を受けて酷い怪我をしたときも。
悲しい映画のDVDを見たときも。
そして宗治に深く深く傷つけられたときも。
いつだって淡々としていたのに。
キッと見つめ返す濡れた眼差しに、宗治の中で何かが弾けた。
宗治は渚を抱きしめていた。
「ナギ・・・ごめん・・・ほんと、ごめん・・・・・・」
繰り返すだけの謝罪の言葉。
「む、ね・・・はる・・・・・・?」
腕の中でじっとしている渚が愛しくてたまらない。
最後にこの腕に抱きしめたのはいつだったろうか。
腕に残る感触よりも少しやせたように思えるのは気のせいだろうか。
いろんな想いが交差して、宗治の心に押し寄せてくる。
「ナギを傷つけてごめん。ほんとは迎えに行きたかった。ナギに会いたくてたまらなかった。どんなに罵られても、もう一度ナギをこの手に抱けるならそれでもいいと思ってた。でも・・・・・・出来なかった」
「宗治・・・」
「偉そうなことばっか言ってたけど、おれは本当は弱い人間だ。ナギに最後通牒を受けるのが恐かったんだ。だからといってナギを諦めることもできなくて・・・それに、山下とは付き合ってはいない」
聞いた渚の身体がピクリと震えた。
「一年前、ナギを傷つけた原因は、確かに山下だった。おれは山下のことが好きになった。それは事実だ。だが、あれからすぐに山下とは別れたんだ。山下はおれの気持ちを知っていたようだった。おれは・・・おれはなんて自分勝手な人間なんだろうな」
弱い部分を好きな相手にさらけ出すのは難しい。
特に宗治のような人間にとっては。
しかし、宗治は続けた。もう隠しておくことなんてない。
「思い上がってたんだ。誰にも心を開かないナギがおれだけを受け入れてくれた。いつの間にかおれはナギを自分の思い通りに動く人間だと思ってしまったんだ。だから、自分の求めているようにならないナギがじれったく思えて、自分の求めているものを与えてくれる山下に惹かれてしまった。それを本当の愛だと思い込んで・・・おれは本当に最低だ。ナギ、ごめんな」
宗治の腕の中で渚が首を振る。
「宗治だけが悪いんじゃない。おれだって自分の気持ちを宗治に伝えるのが恐かった。嫌われたらどうしようってずっと思ってた。こんな面白くもない男をどうして宗治はそばに置いておくんだろうとずっとずっと不安だった。きっとその不安が知らない間に宗治に伝わってしまったんだと思う。だから、宗治が他の誰かに惹かれるのは仕方のないことなんだ。宗治はいつもおれの気持ちをすぐに理解してくれたから、それに甘えていた。おれだって、きちんと言葉にして伝えればよかったんだ。喜びも怒りも悲しみも楽しみもすべて・・・」
宗治の腕の中、くぐもった声で話す渚を、さらにきつく抱きしめた。
「ナギ、おれたちやり直せるか?ナギはまだおれのことを・・・好きでいてくれるか?」
宗治はありったけの優しさと愛情をこめて渚に問う。
「塚本さんとは・・・何もないんだろう?」
「む、宗治」
渚が驚いて顔を上げた。
ギュッと抱きしめたままだから、至近距離にずっと焦がれた綺麗な顔がそこにある。
「さっき、わかった。やっぱりおまえの瞳には感情がよく表れるな」
どうして気づいてやれなかったのだろう。
渚の宗治を見る澄んだ瞳は、渚の様々な感情を、その表情や態度よりもよりよく表していたのに。
それに気づいたからこそ、宗治は渚を好きになったのに。
「それとも、もう、おれなんか嫌か?浮気はするし、臆病だし、自分勝手だし、都合がいいし、人を傷つけてばかりだし、それに―――」
「もういいよ!」
渚の手がゆっくりと宗治の頬に触れ、包み込む。
「そういうの、全部ひっくるめて、おれは宗治のことが好きになったんだ。これを・・・」
そう言うと、渚は宗治の左手首にそっと触れる。
「これを・・・どんな気持ちで置いていったかわかってるのか?おまえのこと、嫌いになったなら、こんなもん置いていくか、バカ。それに宗治が自分勝手なのはもうわかってる」
今日の渚はとてもよくしゃべる。
こんなに渚の声を聞いたのは、長い付き合いで初めてかもしれない。
きっと渚も変わったのだ。
別々に暮らした一年はもう取り戻すことができない。
宗治にとって渚のいない一年はとても長かった。
今度渚にも聞いてみたい。どんな日々を過ごしていたのか。
「なぁ、おれ、おまえに言ったことあったっけ」
そう問いかけながらも、おそらく言ったことはないだろうなぁと宗治は感じていた。
いちばん大切な言葉を言わずして、よく5年も一緒に暮らしていたものだ。
「ナギ、愛してる」
耳元で囁くと、渚は驚いたように宗治を見上げた。
「愛してる」
照れくさくてなぜか言えなかった。
好きだ、とは何回も言った。
告白したのもその言葉だったし、セックスのときは幾度となく繰り返した。
そのうち、言葉にしなくてもわかるだろうと口にしなくなった。
『好き』と『愛してる』の境界線はいまだよくわからないし、どちらも相手を思いやる言葉だ。
だけど、愛することのほうが、より深く相手の心に入り込めるのだろう。
だから照れくさいのだ。















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