largo 第八話
 








足に絡みつくエプロンが鬱陶しい。
渚はただ走っていた。
きっと追いつけない。
人間の足と車では違いすぎるのはわかっている。
それでも渚は追いかけずにはいられなかった。
走り出した気持ちは制御することもかなわず、ただ渚の身体を動かした。
追いかけてどうなる?
すでに宗治は可愛らしい恋人と楽しく暮らしている。
記憶はどんどん上書きされるものだ。
渚のことなんて今日まですっかり忘れていたかもしれない。
あの時計を嵌めているのも、特別な意味はないだろう。
現に高校時代、宗治は別れた彼女からのプレゼントを、気にすることなく使用していた。
『気に入ってるから』
それだけの理由で。
だからきっと何の意味もないんだ・・・
わかっているのに宗治の腕にあの時計が嵌っているのを見た瞬間、想いが弾けてしまった。
昔、宗治があの時計について楽しそうに話をするのを聞いたときに、絶対に自分がプレゼントしようと決めた。
店で選んでいるときも、宗治の嬉しそうな顔を想像しては、顔が綻ぶのを自制できなかった。
いつも無表情だと言われるのに、『楽しそうですね』と店員に微笑まれ、驚いたのを覚えている。
一緒に暮らした部屋を出た瞬間に、もう見ることはないと諦めていたのに、思いがけない出来事に、気持ちはあっけなかった。
自分にあんなに熱い気持ちがあったことを初めて知った。
おそらく追いつけない。
タクシーのスピードと渚の足なんて比べ物にならない。
でも奇跡的に、もう一度、宗治と会うことができたら。
話をすることができたら。
渚は宗治に言いたいことがあった。
渚はこれからもずっと塚本の店で働くつもりだ。
塚本と山下が身内である以上、今後顔を合わすことも多々ありそうだ。
だから、渚はきちんとけじめをつけようと思ったのだ。
「・・・ナギ・・・ナギ・・・ナギーーーッ!」
ずっと先、薄暗がりの中から、自分の名前を呼ぶ声がする。
その声を、渚が知らないはずがない。
それに、渚を『ナギ』と呼ぶのは、この世でたったひとりだけなのだから。
驚いて立ち止まると、ハアハア息を荒げながら、宗治が近づいてきた。
どこから走ってきたのだろう、肩で息をする宗治は苦しそうに膝に手をつき、一生懸命息を整えていた。
渚はそんな宗治の丸まった背中を眺めていた。
「ナギ」
優しい声音で呼ばれて反射的に顔を上げる。
小さな街灯の明かりだけでは、宗治の表情がはっきり見えない。
「元気に・・・してたか」
問われて渚は頷いた。
「宗治も・・・」
約一年ぶりに口にする名前は案外すんなり言葉になった。
渚の問いに曖昧に頷いた宗治は、それからまた黙り込んでしまった。
宗治はどうして引き返して来たのだろう。
疑問は募るばかりだが、それは宗治が言わない限りどうしようもない。
それに、ここに立っていても仕方がない。
ふと、渚の心にある考えが浮かんだ。
もしかして、山下に、自分達の関係を黙っているように、口止めのために戻ってきたのかもしれない。
一度浮かんだ考えを宗治の行動に当てはめると、とても妥当なことに思えてきた。
言い出しにくいのだろうか。
あの時は、すんなり別れの言葉を切り出したくせに。
宗治も変わったということか。
山下と出合って、親しくなって、宗治にも気持ちの変化があってもおかしくない。
それならそれでかまわなかった。
これ以上ここでふたりして向かい合っていても仕方がない。
「時計、してくれてるんだな」
渚はおもむろに時計の話題に触れた。
「え、あ、あぁ」
気まずそうに手首に嵌った時計を右手で隠す様を、渚は視線で追っていた。
あれは渚が宗治に贈ったものだから、宗治が自由にする権利がある。
だから、そんなに気まずそうにしなくてもいいのに。
逆に、きちんと使ってくれていることは渚にとって喜ばしいことなのだから。
「宗治、ずっと欲しがってたもんな。それに似合ってる」
「あ、ありがとうな」
思いがけず礼を言われて、渚は首を横に振った。
そして視線を宗治に向けた。
「こっちこそありがとう」
これが、渚が宗治に言いたかったことだ。
「宗治には何度も何度も助けてもらった。おれは感情表現が苦手だから、いつだって無愛想で、つまらない人間だったと思う。自分のことも大嫌いだった。でも、宗治に会って、おれは変われたと思う」
渚は時々自分の中の変化に驚くことがあった。
人と接するのは今でも得意ではないが、他人と分かり合おうと努力することを覚えた。
出不精だったが、宗治に強引に連れ出されて、そこで思いがけず楽しい経験をすることもあった。
相変わらず無表情で、何を考えているのかわからないと、何人にも言われたけれども、それを渚の個性と理解してくれる人も少なからずいた。
それらを教えてくれたのは、親でも教師でもなく、宗治だったのだと、今では実感することができる。
渚は宗治のことが好きだった。
いや、好きという言葉ですべてを表すことなんてチープすぎる。
渚にとって宗治がすべてだった。
だから、宗治が渚と別れたいと言ったとき、すぐに受け入れたのだ。
「本当は、あの時、おれがあの部屋を出て行くときに、ちゃんと話すべきことだったんだけど、あの時は上手く言えそうにもなくて。今でも上手く伝わってるのか自信ないんだけど。でも、ちゃんと言っておきたかったんだ」
素直になるということは難しい。
難しいけれど、気持ちを表現することは、心を軽くする。
今さらこんなこと聞かされても、宗治にとっては瑣末なことだと思う。
渚の自己満足でしかないけれども、礼を言われて嫌な気持ちはしないだろうと、渚は割り切った。
「時計、大切にしてくれたら嬉しい。それと、また、山下くんと一緒に店に来てくれ。塚本さんも喜ぶし」
山下には何も言わないから、安心してくれと、続けようとするのを、突然遮られた。
「塚本ってなに?」















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