largo 第七話
 








最後まで渚は無表情だった。
すっかり客のひとりとしか見ていない渚の態度を認めるのが恐くて、宗治は渚を見ることもできなかった。
腕時計を確認したときに視線を感じ、ふと顔を上げると、思いがけず渚と目が合った。
渚が残した時計を、未練がましく身につけている己が恥ずかしくて、すぐに隠した。
渚はどんな思いでこの時計を置いていったのか。
買った当時は間違いなく宗治を愛してくれていたはずだ。
大枚をはたいてどうでもいい人間にプレゼントするほど渚はバカではない。
しかし、その相手は別の人間にうつつを抜かしていた。
それを知ったとき、渚は酷く傷ついたに違いない。
別れの言葉に反論することもなく、出て行った渚。
宗治ならこんな時計は返品してしまう。
自分を裏切った人間に大金を使った自分を嘲笑いながら。
本当に渚らしいな・・・・・・
気持ちの切り替えが上手で、去るものは追わない。
失くしたものを諦めるのは、無気力だからではなく、傷つかないように自分を守るための鎧なのだ。
宗治の別れの言葉を聞いた瞬間、渚はすべてを諦めたのだろう。
そして諦めの先にあるのは、無関心。
だから・・・だからきっとこの時計には何の意味もない。
どうでもいいものだから、置いていっただけなのだろう。
それなのに、手放すこともできず、肌身離さず身につけている。
自虐的すぎると自覚しながら。
渚はすでに新しい人生を歩んでいた。
あの時のまま、どこにも進めない宗治とは逆に、きちんと前進している。
苦手だった接客をきちんとこなし、オーナーに信頼され、確固たる地位を得ている。
同時に、渚はいいパートナーも得たようだ。
塚本は渚のことを『ナギサ』と呼んでいた。とても親しげに。
さらに塚本は躊躇いなく渚に触れた。
あれほど他人との接触を苦手としていた渚に。
嫌がるどころか照れくさそうに顔を顰めた渚を見れば、スキンシップが珍しくないことがわかる。
渚の名前を呼び、渚に触れることができる男。
宗治よりも10歳以上年上で、包容力のありそうな、大人の男。
余裕たっぷりで、別れ際には渚の腰を抱いていた。

気がつけば握りこぶしを作っていた。
「運転手さん、悪いけど止めてください!」
身を乗り出し、透明の仕切り越しに訴えると、運転手は面倒そうに路肩に車を寄せた。
「佐伯さん!」
驚いて宗治の腕を引く山下の手に、宗治は手を重ねた。
「山下、ごめん・・・」
宗治には自分に縋るその手を振り解けない。
それが逆に傷つけることだとわかっていても、山下に冷たい態度を取ることができないのは、優しいからじゃない。
弱い心がそうさせるのだ。
かつて渚を身勝手な態度と酷い言葉で傷つけたときと同じように。
すると、山下が宗治の手を振り払った。
「何謝ってるんですか。さっさと行ってください」
つっけんどんな言い方だが、声が震えていた。
宗治は気付かないふりをして、振り払われた手をぎゅっと一握りして、タクシーを降りた。
今来た道を走る。
まだ5分程度しか走っていないから、さほど遠くまで来てはいないだろう。
走りながらふと思った。
山下は知っていたのだろうか。
もし知っていたのなら・・・・・・
そう思ってやめた。
山下が総てを知っていたからといって、もう宗治にはどうすることもできないのだから。
だからといって、渚に会って、何をどうするのか、何をどう言うのか、何も考えてはいなかった。
ただ意思の赴くままに、身体が動いた。心が渚に向かっていた。
日頃の運動不足か、途中で足が縺れそうになるのを、必死で踏ん張る。
走る男をすれ違う人たちは何事かと振り返るが、宗治にはどうでもいいことだった。
住宅地に差し掛かったところで、さすがに息切れして、立ち止まる。
ハァハァと荒い息遣いが、静かな夜の住宅地を少しだけ賑やかにした。
膝に手を乗せ、前屈みで息を整える。
たしか、この坂の上を左に曲がったところだったと、行く先を見上げて、宗治は耳を澄ませた。
パタパタと人が走る音がこだまし、どんどん近づいてくる。
薄暗がりの街灯と住宅の生活光を頼りに、その音の鳴る方向に、目を眇めた。
ギャルソンエプロンが足元に絡みつくのにもかまわず、必死で走ってくるのは。
「・・・ナギ・・・ナギ・・・ナギーーーッ!」
大声で叫ぶと、ピタリと足音が止まった。
ゆっくりと近づくと、向こうもゆっくりとこちらに歩いてくる。
1メートルほどの距離を残して、宗治は・・・渚と対面した。
言葉がなにひとつとして出てこない。
言いたいことはたくさんあるのに、頭の中は真っ白のままだ。
視線が合うと、渚は視線を落とし、アスファルトを見つめていた。
所在なさげに、右手で自分の左肘辺りをギュッと握って、身を小さくしながら。
どうして渚が追うようにここに来たのか聞くこともできず、かといって言いたいことも言えず、宗治は黙ったまま、渚のつむじを見ていた。
髪に触れたくなって、出しかけた手を引っ込める。
宗治は渚にかける言葉を一生懸命に探した。
「ナギ」
ようやく息が整って、宗治は懐かしい名前を言葉にした。
薄暗がりで小さな街灯の明かりしかない中、渚がゆっくり顔を上げる。
その表情には、やはり何の感情も浮かんではいないように思えた。
「元気に・・・してたか」
ありきたりの言葉に、渚がコクリと頷く。
元気そうなのは店で働いている渚を見ればわかることなのに、そんなことしか言えない自分が嫌になる。
「宗治も・・・」
渚からの問いかけに、宗治も「うん」と答えた。
それからまたしばらく沈黙に包まれる。
まだそんなに遅い時間ではないのに、車の一台も通りがからないこの住宅地は、シンと静まり返っていて、お互いの息遣いさえ聞こえてきそうな静けさだった。















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