largo 第六話
 








笑っている・・・・・・







渚はにこやかに笑っている宗治を見て、心臓がスーッと冷たくなるのを感じた。
今さら傷ついてバカじゃないかと思うのに、どうしても上手く笑えない。
「オーナー、私はまだ仕事が残っておりますので失礼いたします。みなさまはどうぞごゆっくりなさってください。コーヒーのおかわりが必要でしたら、あちらの向井にお申し付けくださいませ」
渚は、もうひとりの男に目配せすると、テーブルを後にした。
「向井くん、私はワインの在庫をチェックしているから、こちらをよろしくお願いいたします」
向井が頷いたのを見届けて、渚は倉庫へと向かった。
中へ入ると、渚は鍵をかけて、壁にもたれ、天井を見上げた。
蛍光灯の光がまぶしくて目にしみる。
やっぱり宗治は山下ときちんと付き合っているのだ。
食事を進めるふたりに、甘い雰囲気を感じなかったのは、おそらく渚の希望的思考がそうさせたのだろう。
塚本に佐伯との仲を勘ぐられ、顔を真っ赤に染めた山下。
そしてそれを否定しなかった佐伯。
それがすべてだ。
あれから1年が経つが、ふたりは仲むつまじく同じ時間を過ごしている。
この数時間山下という男と接してみて、その可愛らしさと素直さを直に感じることができた。
給仕の渚が料理をサーブするたびに、にこやかに「ありがとう」と感謝の気持ちを表す。
料理の説明を目を輝かせながら聞き、疑問に思ったことは素直に質問する。
笑顔で食事を愉しむ姿は、見ていてとても気持ちがよかった。
全く不快感を与えない、それでいてそれらの行動が全く自然で嫌味でない、渚が初めて会った種類の男だった。
そして納得した。
こんな人に好意を寄せられて、迷惑がる人間なんているわけがない。
おそらく山下は、裏表のない男なのだろう。
渚とは全く逆で、自分の気持ちをストレートに表現できる男。
こんな男に勝てるわけがないではないか。
宗治が山下に心惹かれたとしても仕方がない。
いや、仕方がないではなくて、当たり前なのだ。
こんな非の打ち所のない男と比べられていたのかと思うと、恥ずかしくて消えてしまいたかった。
山下は渚のことを綺麗だと言ったが、そんなことはさもないことだ。
昔から言われ続けてきたことだし、それで得したこともないではない。
しかし渚にとって何の意味も価値もない。
たとえ万人に綺麗だと言われたとしても、本当に欲しいものが手に入らない人生なんて、つまらないものなのだから。







それにしても、塚本がいてくれてよかったと思う。
塚本の懐の大きさは、渚にとっては癒しであり救いだ。
ここで働くのを承諾したのも、塚本にそれらを感じたからだ。
どんなにひとりで大丈夫と思っていても、人間なんてしょせん弱い生き物だ。
誰かに寄りかかりたくなるし、癒しを求めてしまう。
渚の本能が塚本の中にそれを見つけた瞬間、頷いていたのだ。
塚本には何度も心を救われた。
塚本には過去のことをすべて告白してある。
両親のことも、好きだった男のことも。
まさか、その男と佐伯が同一人物だとは気づいていないだろうが、先ほども塚本の陽気さに救われた。
照れる山下とうろたえた表情の宗治を目の当たりにして、そこから逃げ出したくなった。
それでも冷静にいられたのは、塚本のおかげだ。
塚本に頬をつままれて、平静さを取り戻すことが出来た。
触れた指先は温かく、とても優しかったから・・・・・・渚は微かに笑みを浮かべることさえできたのだ。
ギュッと目を閉じると、うっすら雫が滲んだ。
これは涙なんかじゃない。
悲しいなんて感情は今さらだろ?
大きく深呼吸して、それらを隙間のない箱にしまいこんで、鍵をかける。
これで大丈夫。
きっと笑える。
渚はギャルソンエプロンをパンパンとはたくと、最後の客を見送るために、フロアへと戻った。







ちょうど会計を済ませた二人が塚本と話をしていた。
「じゃあな、また来てくれ」
「って、ここ、予約取れないじゃんか!」
「じゃあ、プライベートで来てくれよ。ごちそうするから」
「ほんとに?だってさ、佐伯さん、ごちそうしてくれるって」
無邪気に笑う山下に、宗治が笑いかけるのが見えた。
もう、大丈夫。
何度も繰り返した言葉を心の中で反芻する。
心に鍵をかけてしまえば、何も傷つくことはない。
渚は塚本の隣りに並ぶと「またのお越しをお待ちしております」と丁寧に頭を下げた。
「ねえ、佐伯さん、どうする?タクシーつかまえる?」
「そうだなぁ・・・・・・」
そういって少し袖を捲くった宗治の手元を見て・・・渚は息を飲んだ。
あれは・・・あの時計は・・・・・・
せっかく全てをしまいこんだのに、鍵をかけたのに、どうしようもない想いがぶわっと膨らむ。
ダメだ、何を考えているんだ。
あれは、宗治が一番欲しがっていた時計だ。
宗治にとってはただの憧れていたモノというだけで誰からもらったとか関係なくて、ただ気に入ったから身に着けているに違いないのだ。
でも・・・でも・・・・・・
時計を選びながら、それが宗治の腕に嵌っているところを想像した。
喜び、誇らしげな宗治を想像するだけで心が躍った。
その時は、すでに宗治の心変わりに薄々気付いてはいたけれど、それでもきっと喜んでくれるはずだと信じていた。
結局喜ぶ宗治の姿を見ることはかなわなかったし、自己満足のために時計を置いてきたことを後悔するハメになった。
愚かな自分を自嘲していたのに、ただ宗治が渚の残した時計を嵌めているのを見ただけで、こんなにも喜んでいる自分がいる。
渚は微動だにせず、宗治の手元を凝視していた。
その刹那、渚の視線に気づいたのか、宗治が視線を上げ、視線が絡まった。
眼差しが渚の瞳と捉え、そこから身体中に熱が走り抜けた。
ダメだと叫ぶ自分と、もしかしてと期待する自分がせめぎ合う。
期待・・・何を・・・・・・?
縋るような視線を宗治に向けた瞬間、宗治がフッと笑った。
それは、渚が大好きだった、優しい宗治の笑顔だった。

パタンとドアが閉じた瞬間、我慢できなくなってその場にしゃがみこんだ。
こみあげる涙が止まらない。
もう流す涙なんてないと思っていたのに。
どうして・・・どうして・・・・・・
嫌いになれたらいいのに。
勝手に他の誰かを好きになって、別れを告げて、渚の気持ちなんてこれっぽっちもわかってない。
自分勝手なあんな男なんて。
突然泣き出した渚に、塚本が驚いた風でもなく、背中をポンポンと叩いてくれた。
あの時と同じように、優しい感触が渚を包み込む。
「人間の心なんて単純なんだよ」
何度か聞いた言葉を塚本が繰り返す。
「どんなに隠そうとしても、どこかに気持ちは表れてしまうんだ。表情だったり、口調だったり。だから喜怒哀楽は存在する。時には自分の気持ちを隠さなければならないときもある。自分のためだったり相手のためだったりするけどね。でもね、やっぱり生きてるんだから、自分の気持ちを大切にすることも必要だと思う。でないとかわいそうだろう?」
塚本はいったい何を知っているのだろう?
まるですべてお見通しのような発言をする。
渚が顔を上げると、塚本はゆっくり頷いた。













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