largo 第三話
 








今夜の客は2組。
1組は金婚式を迎えられた年配のご夫婦で、息子さんがプレゼントにと予約されたのだった。
若干ご高齢ということもあり、胃にもたれないあっさりしたものを、デザートまでおいしく食べてもらえるように、盛り付けも幾分か少量にする予定だ。
そしてもう1組は男性の2人連れだった。
オーナーシェフである塚原の甥だとは聞いていた。歳の離れた姉の息子だというその甥を塚原は可愛がっているようで、例外という言葉を嫌う塚原には珍しく無理に予約をねじ込んだ。
こんなことは最初で最後だと苦笑いしていたが。











塚原と出会ったのは1年ほど前のことだ。
困難を極める就職活動の傍ら始めたアルバイト先で出会った。
サービス業ということに少し抵抗はあったがそうも言ってられない状況だった。
客を選びそうな高級感のあるダイニングバーを選んだのは、騒がしさを嫌ってのことだ。
客が悪酔いしそうな店では自分はとうてい働けそうにないし、絡まれた際のあしらい方だってわからない。
未経験の渚が採用されたのはおそらくは整った顔立ちとスマートな物腰のおかげだ思っている。
落ち着いた店の雰囲気は渚にとってありがたかった。
客層も非常に良く、穏やかな客が多かった。
しかし、慣れない夜の接客業ということで、渚はアルバイトを始めて1ヶ月でかなり疲労していた。
もともと感情を内に秘めるタイプだから上手く発散することもできず、さらに思うように進まない就活が追い討ちをかけた。
それでも生活のため休むことも出来ず、ある日、ついに失敗してしまった。
突然目の前が真っ暗になり、一瞬意識が途絶えた。立っていられなくなり、身体がグラリと揺れたと思ったら膝を着いていた。
皿の割れる音がフロアに響き渡り、人の騒ぐ声がそれに混じる。
ダメだ、立ち上がらないと、そう命令するのに身体が動かない。
「大丈夫か?」
優しい声音に応えようとする渚の肩を、声の主は気遣うように抱いた。
手のひらから伝わる温もりがじわじわと身体全体に伝わり、安心感に変わる。
フッと身体の力がいい感じに抜けた瞬間、渚は自分を取り戻した。
立ち上がり、自分のしでかした惨状に声も出ない。
サーブしようとした料理はテーブルにぶち撒かれ、悲惨なことになっていた。
グラスは倒れ、床には割れた皿の破片や料理が散らばっている。
おそらく立ちくらみの際にテーブルに手を付いてしまったのだろう、手のひらもべたついているし、制服も汚れていた。
「も、申し訳ございません!!!」
慌てて駆けつけてきた支配人とともに頭を下げたはいいものの、どこからどう手をつけていいのかわからない。
「それより、君、休んだほうがいいんじゃないか?」
先ほどと同じ優しい声で気遣われ、初めて声の主を確認する。
そこには30代半ばだと見受けられる男性がいた。
このテーブルの客だった。
何度か見かけたことのあるこの男は、今日はこのテーブルでひとり飲んでいた。
たいてい遅い時間に来店するが、誰かと連れ立っているのを見かけたことはない。
渚が担当するテーブルに案内されたのは今日が初めてだった。
とても印象深い男だった。
精悍な顔立ちは男っぷりを見事に引き出し、大人の魅力を醸し出している。
それでいて嫌味がないのは、どことなしか気さくな雰囲気を纏っているからだ。
そんな男の、上等そうなスーツが酷いことになっていることに渚は慌てた。
「お、お客様、お召し物がっ・・・・・・」
「いや、たいしたことはない。それよりもまだ顔色がよくない。支配人、彼を・・・」
「いえ、僕は、いえ、わたしは大丈夫です」
他の店員が後片付けを始めるのを横目で確認してもう一度深く頭を下げた。
「塚原さま。とにかく着替えを・・・こちらへどうぞ。それと本村くん、君も休憩を―――」
「いえ、大丈夫です。後片付けを済ませます」
塚原と呼ばれた客の視線を感じながら、渚は清掃していた店員からモップを受け取ると、自分の不始末を片付け始めたのだった。
そんな酷い出会いから数日後、支配人を通じて渚は塚原と再会した。
あの日の塚原は痛く渚を気遣ってくれていたが、もしや後から怒りが湧いてきたのかと身構えていると、なんと仕事の話だった。
塚原は料理人で、今度新しく店を出すから、手伝って欲しいというのだ。
「どうして、ぼく、なんですか?」
「う〜ん、なんだろうなぁ」
目を閉じてしばらく考えた後、塚原は言った。
「・・・直感?ビビビっとキたってやつかな」
からかっているのかと訝しむ渚に、塚原はいたってマイペースだ。
「きみとなら気持ちよく仕事ができる、そう思ったんだ」
「おれのこと、知りもしないくせに」
曖昧な答えにカチンときて、渚も少しばかりつっけんどうな言い方になる。
それでも塚原は気にする様子はない。
カフェというよりは喫茶店というほうが似合いの路地裏のこの店は、いつもこうなのかそれとも中途半端な時間だからなのかとても静かだ。
カウンターの奥ではマスターが新聞を読んでいて、大学生らしいアルバイトのウェイターはシュガーポットに砂糖を補充している。
コーヒーの芳醇な香りが店内に充満していて、渚たちから少し離れた場所にいる男性客は静かに読書に勤しんでいた。
「君はさっき―――」
しばらく続いた沈黙を破ったのは、塚原ののんびりした口調だった。
「何も知らないくせにと言ったね。だけど僕は1か月分の君を知っている。料理もドリンクもかなりの数あるあの店のメニューを全て覚えていることも、その内容を淀みなく客に説明できることも、サーブする皿の置き方が優雅で丁寧なことも。そしておそらくは接客が苦手だろうに、それでも真面目に客に応対していることも。君と出会った回数にしては十分だと思わないか?」
渚は驚いた。
渚が塚原を常連客として意識したのは入店してすぐだったが、塚原の通されたテーブルの担当になったのはほんの数回のことだ。
担当以外の客のことはあまり意識しないから、一方的に塚原に見られていたと思うと気恥ずかしくなる。
「君は素直だね」
「はっ?」
「思っていることがすぐに顔に出る」
塚原の意外すぎる言葉に渚は目を見張る。
そんなこと誰にも言われたことはないし、自分だってわかっている。
鏡に映る自分の顔を見るたびに、つまらない人間だと嫌悪していた。
「君を理解しようとしない人にはわからないだろうな。上辺だけの君しか見ようとしない、薄い人間にはね。でもね、よ〜く見てるとわかるんだ。そして楽しくなる。まるでだまし絵見たいに」
そんなことを言われたのは初めてだ。
・・・・・・いや、違う。
渚のことを理解してくれた人が過去にひとりだけいた。
他人に理解されることを望んだことはない渚に、理解されることの喜びを教えてくれた。
どうして彼は渚の感情を読み取ることができたのか疑問だった。
家族でさえ本当の渚を理解することができなかったのに。
宗治と別れて数ヶ月が経つ。
日中はハローワークに通い、夕方からはアルバイトをこなす生活は、結構慌しい。
不況のためハローワークは相談を受けるにも長蛇の列だ。
誰もが澱んだ表情を浮かべ、この世の果てのような空間には、なにひとつとして光が見えない。
渚にとっていろんな出来事が重なったが、今ではあれでよかったように思う。
仕事を失くし、他に行く場所もない渚という人間は、おそらく宗治の負担になったに違いないから。
迷惑をかける前に、関係を断ってくれてよかったと思う。
渚は目の前の男をじっと見つめた。
「そんなに珍しいかな?」
「い、いえ・・・・・・」
男のことを信用できないわけではない。
支配人から塚原のことを聞いて、渚はネットで男のことを検索してみた。
料理界では著名な人物らしく、想像以上に情報を得ることができた。
フランスでの修業時代には見事な創造性と伝統を融合させた料理で大絶賛を受け、帰国後は超有名ホテルの総料理長を務めていた。
その後、突然ホテルを辞め、世界中を回っていたらしい。
そして、今度、完全予約制のレストランをオープンする予定だと紹介されていた。
実際のところ、渚にとってはありがたい話だ。
困難を極める就活に、職種の幅をもっと広げないとと考えていたところだ。
就活とアルバイトの二重生活にも疲れていたし、何より仕事が決まらないことはかなりのストレスだった。
確かに接客は苦手だ。
だが、男は渚を雇用したいと言う。一緒に仕事をしたいと言う。
そして何よりも・・・渚をうわべだけで判断していない。
再度、男の顔をじっと見た。
ほんの短い時間しか接していないのに、信用に足る人物だと、渚の本能が感じていた。
「で、条件は?」
突然、条件提示を促した渚に、塚本は双眸を眇め、フッと小さく笑った。
「店は完全予約制。君には接客全般と予約の受付など雑務をお願いしたい。厨房はおれともうひとりサブの男。君と同じ仕事をしてもらう男をもうひとり雇うつもりだ。少人数だがきちんと予約を入れれば回せる人員だと思う。その他こまごましたことはオープンまでに4人で相談する。おれの店だがおれは王様になる気はない。君たちの意見も取り入れていきたいと思っている。給料や福利厚生についてはまだ決めていない。とりあえず人員を確保したいからな」
そして塚本は、渚を正面から見据えた。
力強い眼差しは、希望に満ち溢れ、自信に漲っていた。
「どうだ?おれと新しい一歩を踏み出さないか?」
気がつけば差し出された手をギュッと握っていた。
とても力強く、安心できるぬくもりを手のひらから感じ、渚は新しい一歩を踏み出したのだった。













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