largo 第二話
「ここですよ」
山下に連れられてやってきた店は、住宅地にある普通の民家だった。
雰囲気のある洋館だとか、数寄屋造りの和風建築だとか、お洒落な要素は全くない。
「ここ?」
驚くほどにごく普通の一軒家に、山下は思わず躊躇った。
「びっくりでしょ?ここ、叔父が昔から住んでる家。お店するくらいだったら外装もリフォームすればいいのに。中は少し手を入れたみたいなんですけど。さぁどうぞ」
まるで自分の家に招待するかのように、山下はニコリと微笑んだ。
ギィと音を鳴らして開いた門をくくり、ドアの横の呼び鈴を鳴らすと、リンゴーンと派手な音がした。
カチャリとドアの開く音と同時に、「お待ちいたしておりました」と慇懃に頭を下げる男。
そしてその男が顔を上げた瞬間、宗治は凍りついた。
「ナ・・・ギ・・・・・・?」
声が震え、何度も繰り返した愛しい名を上手くつむぐことができない。
しかし、宗治を驚かせた当の相手は、ほんの一瞬驚いた表情を見せただけだった。
声に出して名前を呼んだはずなのに、思った以上に小さな声だったらしく、山下は気づいていないようだ。
「では、こちらへどうぞ」
全く動揺のない淀みない声に促されて、宗治は山下とともに店内へと足を踏み入れた。
山下の言ったとおり、内装は普通の民家とは違っていた。
靴を脱いで、綺麗に磨かれたフローリングの床をスリッパで奥へと進めば、広々とした部屋に突き当たった。
天井は高く、一面を利用した大きな窓からは、太陽の光が穏やかに差込み、綺麗に整備された庭の緑とが目を楽しませる。
表からは想像もできない、思いもよらない広い空間だった。
一段高いスペースに掘りごたつが設えられ、カトラリーがセッティングされている。
「どうぞゆっくりおくつろぎくださいませ」
丁寧すぎるくらいに頭を下げた男は、厨房らしき隣りの空間へと消えていった。
男が消えていったところをみると、どうやら隣りは厨房らしい。
しかし、防音がしっかりしているのか、その方向からは物音ひとつ聞こえてこない。
「以前の面影なんて全くないよ。徹朗叔父さん、気合い入ってるよな」
ひとしきり庭を眺めたあと、山下はちょこちょこと室内を歩き回り、ようやく掘りごたつに腰を下ろした。
「先輩も、どうぞすわってください」
「あ、あぁ」
突っ立っているのもおかしいと、宗治は山下の前に腰を下ろした。
「もうひとつ、奥に部屋があるらしくって、お客は一度に2組だけ。12時から15時まではランチタイムで1時間半ずつで4組。夜は7時から。基本的には2組。すでに3ヶ月先まで予約はいっぱいらしいです」
叔父からリサーチしたのだろう、一生懸命説明する山下の言葉を、宗治はほとんど聞いてはいなかった。
どうしてここに渚がいるんだろう。
ここで働いているのは間違いないだろうが、渚には接客業の経験なんてないはずだ。
大学時代のアルバイトは家庭教師だったし、就職だって建設会社だった。
一度、カフェでのアルバイトを見つけてきたことがあったが、酷く気を張ってしまうらしく、体調を悪くして、1ヶ月で辞めてしまった。
いや、宗治が見るに見かねて辞めさせたのだったが。
そう考えると、ますます今の渚の状況が信じられない。
「食前酒でございます」
慣れた声にはっと我に返り思わず見上げると、宗治の知る、全く普段と変わりない渚がいた。
クリスタルをベースにした綺麗なるり色の切子グラスをサーブする細い指に目を奪われる。
ゴツゴツ感のない、しなやかな指が宗治は好きだった。
しかし、対照的に、指先の爪は極端に小さい。
爪を噛む癖があったからだ。
出会ったころはかなり酷い状態だった。
甘皮はめくれ、深爪で、血がにじんでいることもあった。
まるで欠点のない渚の容姿の中で、唯一痛ましい部分であり、それを知り得たことは宗治におかしな満足感を与えてくれた。
ネットで調べてケアの方法を教えたのは宗治だ。
まるで自分というものに関心のない渚は全く興味を抱かなかったので、無理やりオイルやネイルを施した。
そのうち、世話をかけるのを申し訳ないとでも思ったのか。自らケアするようになったのだった。
指先にキスをするのが好きだった。
甘い言葉を囁いても、身体を繋げても、何一つ表に出さない渚だったが、宗治が与える指先へのキスにだけは、少し表情を変えた。
まるでいちばんの恥部を愛撫されているかのように恥ずかしげな表情を見せていた。
「アペリティフからデザートまですべてお任せにしておきました。佐伯さん好き嫌いなかったですよね?」
宗治の回想を遮るかのように、山下が問いかける。
「あ、あぁ」
返事を返すと、いつも以上に山下がにっこり笑った。
果たして渚はどう思っているのだろう。
渚には、切り出した別れの理由を言ってはいない。
問い質されたら言い訳せずに答えようと思っていたけれど、渚は何も聞かなかった。
あの頃の宗治の態度から気付いていたかもしれないが、その相手がまさか目の前の山下だとは思っていないだろう。
「ワインもおまかせということでしたので、本日のお料理に合うワインをシェフと決めさせていただきました。後ほどお持ちいたします」
心乱れる宗治とは異なり、渚はいたって冷静な態度だった。