largo 第一話
 








「ねぇ、佐伯さんってば!聞いてます?」
「あ、あぁ聞いてる聞いてる」
山下の咎めるような口調に、宗治は苦笑いする。
通りが見渡せるカフェの席。
こんな場所にいるとき、宗治は通りを眺めるのが習慣になった。
追いかけたくて、追いかけられなかった、愛する人の姿を探して。










渚が出て行ってから1年が経つ。
あの日も今日みたいに快晴だった。
一方的に別れを告げた宗治の後ろめたい気持ちとは正反対の、良く晴れた日だった。
あれ以来、渚には会っていない。
宗治は左腕に嵌った時計を右手でそっと押さえる。
これを見つけた瞬間、宗治は渚のことをどんなに愛していたのか、改めて自覚した。
何も言わず、宗治の言葉を全て受け入れて出て行った渚の気持ちを考え、自分の裏切り行為に心底腹が立った。
探し出して、謝ろうと強く思った。
けど・・・出来なかった。
翌日、いざ行動を起こそうとしたら、猛烈な恐怖に襲われた。
迎えにいくつつもりだった。
謝って謝り倒して、土下座して、もし許されたなら連れ戻すつもりだった。
でも、渚に拒否されたら・・・・・・
渚が出て行ってから1ヶ月。
そのときは宗治のことを好きでいてくれたかもしれないけれど、あんな酷い別れ方をした男に対して、渚が怒りを覚えても仕方がない。
人間、誰にも、行動の後で、気持ちが追いつくことがある。
今回の宗治みたいに。
そう思うと、恐くなった。
渚に拒絶されたら、立ち直れない気がした。
こんなに弱い男だったろうかと驚いたけれど、やっぱり勇気が出なかった。
会いたい、会いたくてたまらないのに、行動に移せない自分に腹が立つが、うまく感情をコントロールできない。
同じ時期、仕事も忙しさを増した。
いや、逃げていたのかもしれないが。










山下にはあれからすぐに別れを告げた。
今度はきちんと理由を説明して、何度も何度も頭を下げた。
山下はあっさりしたものだった。
もしかすると、宗治のどうしようもなく揺れる気持ちを見抜いていたのかもしれない。
こんな酷い男のことは店の移動を機に忘れてしまうかと思っていたのだが、その後も相変わらず宗治を慕ってくれた。
山下自身は「最初からダメもとで告白したのだから、スタートラインに戻っただけだ」と笑い、「これからは尊敬する先輩として接するようにする」とはっきりと言った。
だが、宗治はわかっていた。
笑顔は宗治を思いやってのことで、山下の中にはまだ自分への思慕が残っていることを。
それ以来、山下は宗治への特別な想いを吐露することはなく、ただの会社の先輩として接するようになった。
そして宗治は、そんな山下を遠ざけることができないでいた。
山下の優しさに甘えていると自覚していながら、山下に甘え続けている。
山下にとっても、自分にとっても、今の関係は何のメリットにもならないとわかっているのに。










「で、行ってみませんか?」
「えっ?」
「ほらぁ〜やっぱり聞いてないじゃないですか!」
「悪い悪い」
プイと膨れる山下は、その童顔のせいで、酷く可愛らしい。
すでに社会人3年目ではあるが、高卒での入社のため、まだ二十歳を過ぎたところだ。
しっかり大人の男になりきれていない、危うい雰囲気は、恋愛感情は全くないにしても、見ていて悪い気はしない。
そういう部分でも、宗治は山下を遠ざけることができないのかもしれなかった。
山下への感情と、渚への感情を、今でははっきり区別することができるのに、どうしてあの時は混同してしまったのか。
この1年間、宗治の心を覆う灰色の雲は一度も晴れたことはない。
渚への募る恋情が恐怖を生み、宗治をこの場所に縛りつける。
何もできないままの自分に苛立ちながらも、宗治はどこにも進めないでいた。
「ここですよ。毎晩一組しか客をとらないって評判の」
山下が料理専門雑誌のページを指差す。
「行ってみませんかって、おまえ、予約を取るのが至難の業って書いてあるじゃないか」
宗治は記事にざっと視線を走らせた。
山下とは休みが重なるとよく食事に出かけていた。
宗治から誘うことはほとんどないのは、おそらく根底に山下に対する後ろめたさがあるのだろう。
だからこそ山下からの誘いを宗治は断ることができないのかもしれない。
それに、純粋に山下のリサーチ力に宗治は脱帽していた。
飲食店に勤めるふたりにとって、他店の味を知ることは勉強にもなる。
「実はすでに予約取ってあるんですよ」
へへへと笑いながら話を続ける山下に、宗治は驚いた。
その店は、山下の叔父がオーナーシェフとして経営しているらしいのだ。
そういえば、入社の理由が料理人であるの影響なのだと言っていたのを思い出した。
「うちの会社はチェーン展開してるし、小さな個人経営の店とは一線を引いているけど、おいしい料理を提供したいという点では向かう場所は一緒でしょ?今後の参考になると思うんですよ。叔父の料理はかなり独創的なんです」
誇らしげな山下の態度からすると、評判は決してうわさだけじゃないのだろう。
「そうだな。行くか」
宗治は今日もまた山下の誘いを受け入れることしかできなかった。












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