da capo 第二話
 








あれは同棲を始めて数ヶ月たった頃だった。
たまたま仕事が休みで家でゆっくりしていると、突然夕立がやってきた。
慌てて室内の窓を閉めていると、ずぶぬれになった渚が帰ってきたのだ。
すぐに風呂を沸かしてバスタオルで身体を包んだ。
渚は「自分でできるからいい」と断ったが、宗治は聞こえないふりで渚を手伝った。
白いTシャツに空ける胸の突起に目がとまったのは意図的ではなかった。
しかし、そこから目が離せなくなった。
視線に気付いた渚がいつになくうろたえ頬を染めたのに宗治は驚いた。
渚は自分を求めている、直感的にそう思った。
宗治を遠ざけようと腕を突っ張る渚を濡れるのもかまわず抱き締め、くちびるを奪った。
まさしく衝動だった。
熱いものがこみ上げてくるのを止めることができない。
濃厚なくちづけの後、ベッドに引っ張り込んだ。
自分と同じ器官を持つ渚の身体に自分が興奮しているのを自覚する。
嫌悪感は全く湧かなかった。
逆に、触れれば感じてのたうつ渚が可愛くてたまらない。
逆手にシーツをつかんで宗治を受け入れる渚の姿は扇情的で、宗治は夢中で渚を貪った。
快感と痛みがないまぜになっているのか、うつろな渚の瞳を覗き込めば、そこに艶めいた光を見つけ、さらに煽られる。
激情に任せたセックスに渚がどう感じたのかはわからないが、それをきっかけに毎晩のように身体を求め合った。
渚は甘い言葉なんて零さない。
宗治に追い立てられ、我慢できずにねだる言葉を発しても、所詮それは宗治が言わせた言葉だ。
感情を出さないのは渚らしいと宗治はそれすらもカワイイと思っていたし、満足していた。
何よりも渚のそばは少しも気取らなくていい、安心できる場所だったのだ。
渚が宗治のすべてだった。
相変わらず物静かで、必要以上のことは話さないが、淋しそうな表情を見せることは少なくなっていた。
宗治との生活に渚が満足している証拠だと思うと嬉しかった。
このまま一緒に歳を重ねていくんだろうと、思っていた。








そんな渚に不満を持つようになったのは、新入社員の存在だった。
昨年の4月に入社してきた男は、小さくてちまちました男だった。
山下というその男は、可愛らしい顔立ちは渚と同じく中性的だが、全く冷たい印象を持たせない、道端に咲いた小さな花のような男だった。
店の従業員のほとんどがアルバイトで、社員は店長の宗治と副店長、そして山下の3人。
副店長にアルバイトの指導を任していたから、山下の面倒は宗治が引き受けた。
入社して5年。店長として店をひとつ任され、忙しい毎日を過ごす中で、山下の存在は宗治の癒しとなった。
失敗してもへこたれない、顔に似合わず根性のある男は、表情豊かでわかりやすい。
宗治に対しては尊敬の目を真っ直ぐに向けてくる。
早番の日にメシを奢ってやると、おいしいおいしいと嬉しそうに食べる。
失敗をすればシュンと落ち込むが、褒められると嬉しそうに笑う、感情をストレートに出す男だった。
早くに両親を失くし、祖父母に育てられたらしい山下は、早く一人前になって祖父母を楽にさせたいというのが口癖だった。
一緒にいる時間が増えると情もわく。
そしていつしか相変わらず感情を表に出さない渚と比べることが多くなっていることに気づいた。
気にならなかったことが気になり始め、帰宅の時間が少しずつ遅くなる。
その分山下と過ごす時間が多くなっていった。








山下に告白されたのは今から1ヶ月前。
ゲイであることをカミングアウトされ、好きになってしまったと打ち明けられた。
山下がゲイであることには驚かされたが、自分を好きだということには驚かなかった。
好意を向けられていることには薄々気付いていたし、自身もまんざらではなかったからだ。
山下は愛の告白さえもストレートで、宗治のよく知る山下そのものだった。
宗治に同棲している相手がいることは山下も知ってるが、それが男だということには気付いていないようだった。
彼女がいることはわかっている、だからどうこうしようとは思わない、気持ちを知っていて欲しかったのだと、寂しそうに笑っていた。
前日、山下に異動の内示を告げたから、思い切ったことを考えたのだろう。
聞いてくださってありがとうございましたと笑みすら浮かべて声を震わせる山下を、どうしてもそのまま突き放すことができなかった。
自分には渚という恋人がいるのに。
そのままホテルに連れ込んで、山下を抱いた。
山下は快感に対しても正直で、感じやすい身体をしていた。
躊躇いなく濡れた声を上げ、宗治の愛撫に身悶える身体は、この5年渚としか寝ていない宗治にとってとても新鮮だった。
山下と別れた後、さすがに罪悪感が込み上げてきた。
初めての浮気。
どんな顔をして渚に会えばいいのか。
しかし、あの時の宗治は自分の感情を抑えられなかった。
こみ上げてくる愛しさは偽りではなく、気持ちに応えてやりたいと、本当にそう思った。
だから抱いたのだ。
今でも山下を抱いたことに後悔はない。
ただ、渚への罪悪感だけが、どうしても宗治の心に重くのしかかる。
とにかく今すぐにどうこうすることもないだろうと、ある意味開き直って帰宅したら、渚はすでに眠っていた。
卒業後、地元の大きな建設会社に就職していた渚とは、寝室を分けるようになっていた。
お互いが仕事を持つようになると、再び生活サイクルの違いがネックとなったからだ。
それでもお互い欲しがっているときはわかるもので、そのときはどちらかの寝室で抱き合えば問題なかった。
しかし、ここ最近は抱き合うことはおろか、顔を合わすことも少なくなっていた。
山下を意識するようになってから、宗治が避けるようになっていたからだ。
リビングの明かりが消えていることにホッとする。
自室のベッドに腰掛けて、隣の部屋で眠る渚のことを考える。
このことを知ったら渚はどうするだろうか。
おそらく感情を表に出さない渚は、声を荒げることもないだろうと思ったとき、自分は本当に愛されているのかと、今更ながらの疑問が浮かんだ。
好きだと言われたことはあっただろうか。
告白したのも同棲を打診したのも、すべて宗治のほうからだ。
5年も同棲し、肌を合わせておいて、そんな風に考えてしまう自分達の関係はいったいなんなんだろう。
そして、自分の気持ちがすでに山下のほうに傾いていることを自覚して愕然とする。
渚と山下を比べたとき、いつも肯定されるのは山下のほうだった。
感情を表に出さない渚と、ストレートに感情表現する山下。
宗治の愛撫にも決して我を忘れない渚と、奔放に快感を伝える山下。
宗治のことを好きだと言ったことのない渚と、好きだと言ってくれた山下。
すべて宗治の中では渚は否定され、山下が肯定されていたのだ。
それに気付いて、愕然としたと同時にホッとした。
だから、これは浮気ではないのだ。
山下に対して恋愛感情を抱いているのは事実で、そちらのほうが大きいのなら、渚を切ればいい。
本気なのだから浮気ではない。
自分を納得させると、少しだけ心が晴れた。
あとは、渚との関係を終わらせるだけなのだから。






***   ***   ***






「ナギ」
聞こえなかったのか視線を上げない渚をもう一度呼ぶ。
「なんだ?」
怪訝そうな声音の渚に、宗治は告げた。
「もう終わりにしないか?」
問いかけになってしまったのはどうしてだろう。
『もう終わりにしよう』と一方的に告げるつもりだったのに。
しばらく沈黙が続いたあと、渚はひとこと「わかった」と言い残してリビングを後にした。








終わりとはこんなにあっけないものなのか。
翌日、仮病を使い休みを取った渚は、ダンボールに身の回りのものだけをつめて宅配業者を呼んだ。
おそらくは実家にでも帰るのだろう。
遅番で午後出勤の宗治に家具類は処分しておいて欲しいとだけ言い残して部屋を出て行った。
別れの言葉も何もなかった。
普段出かけるときと何ら変わりない様子だった。
出会って8年、同棲して5年の月日はあっけなく終わった。
同時に宗治は親友をひとり失った。
まさか恋人から友達に戻るなんて考えられない。
渚の部屋を覗くと、そこにはベッドとデスクしか残されていなかった。
物に執着するほうではなかった渚だから、荷造りのダンボールは5箱程度しかなかったが、5年もここに住んでいたとは思えないほどの量だった。
必要最小限のものしか買わなかったのは、意識的に荷物を増やさないようにしていたのか。
そんなことをふと考え、感傷的になっている自分に自嘲する。
リビングに戻ると、一緒に購入した食器などが処分されていることに気付く。
今朝早くから片付けていったのだろう。
自分の痕跡を残さないのは渚らしいと、また少し感傷的になる。
さすがに5年も一緒に暮らした恋人と別れたのだ。
自分の心変わりが原因だとはいえ、楽観的にはなれなかった。












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