微かな想い
『悲しみの果て』
〜康介side〜


第七話







軽井沢に来て数日が立ったある朝、前夜に早く眠りについたためか、その分早く目覚めたぼくは、まだだれも起きてないだろうなと思いながら、リビングへと向かった。
あっ、先生・・・・・・
そこには、ソファにゆったり腰をかけて、新聞を読んでいる先生の姿があった。
先生はいつもこんなに早起きなんだろうか。それなら毎日早起きすればよかった・・・
「おはようございます」
ぼくに気づいていないようだったので声をかけると、新聞からぼくに視線を移した先生は、にっこり笑ってくれた。
「おはよう康介くん。えらく早起きなんだね。眠れなかった?」
「いえ、早く寝すぎてしまって・・・先生は・・・?」
「ぼくはここに来ると早起きしてしまうんだ。寝ている時間がもったいなくて・・・」
先生は新聞を折りたたんでテーブルの上に置くと、すくっと立ち上がった。
「朝の散歩でもしようか」
「はいっ!」
早起きは三文の徳だというけれど、諺ってまんざらウソでもないんだなって感心した。
玄関を出ると、朝もやのかかる冷たい外気にぶるっと身体が震えた。
朝はまだ肌寒いからと、先生はぼくに上着を貸してくれた。ぼくには大きいフリースのジップアップは、ほんのり煙草とコロンのにおいがした。
ここに来る時に来た道を、広い通りに向かってゆっくり歩いていく。車一台分しかないこの細道は、両サイドを木々に挟まれていて、まるで森のなかの一本道のようだ。
流れる空気の音が聞こえそうなくらいの静寂の中、時折鳥のさえずりが耳を掠めていく。
並んで歩く先生の肩がぼくの目線の高さで、先生の顔が見えないのは残念だけれど、少しホッとする。
「そうだ、書庫へ行った?」
「はい、たくさんの本にびっくりしました」
「好きなだけ読んでいいからね。難しいのばかりじゃなく現代文学もあるから」
気を使ってくれているのだと丸わかりだけれど、それでもぼくはうれしい。
「先生には兄弟姉妹がいるんですか?」
なにげなく口にした質問に、先生は明らかに顔をゆがめた。
聞いちゃいけなかったのかな・・・?
でも言ってしまったものは取り消せない。
「いるよ、兄がひとり」
無視されるかと思ったのに、先生は律儀に答えてくれた。
この話題はやめようと、他の話題を探すのに必死で頭をめぐらした。
「でもきみたちのように仲良くないんだ」
「ぼくたちだっていっつもケンカしてますよ?ほんと些細な事が原因で」
すると先生は「ケンカするほど仲がいいんだ」と笑った。
「ぼくは弟が欲しかったから、きみたちに会えてうれしいよ」
弟・・・ぼくはどうしても聞いてみたくなった。今しかないと思った。
「亮にい・・・兄のことも?弟みたい・・・?」
先生は一瞬息を飲んだように言葉を飲みこみ、その問いには答えず、逆にぼくに質問してきた。
「康介くんは・・・もちろん純平くんや陸くんもだけれど・・・成瀬、いや亮くんが家を出ることをどう思ってる?」
もしかして、先生はこれが聞きたいがためにぼくを散歩に誘ったのだろうか。それほど真剣な口調だった。
「母は高校を出たら自立しなさいってずっと言っていたから、当たり前のことだと思ってます。もちろん淋しくなるけれど、ずっとみんなで暮らしていけるものでもないし、ぼくもおそらくそうなるだろうし・・・でも・・・・・・」
「でも・・・?」
ぼくに先を促すような優しい声に、躊躇いながらもはっきり言った。
「どうして片岡先生と同居するのかなって思いました。だって先生にも迷惑でしょ?」
先生はすぐに答えず、しばらく黙っていた。先生も躊躇っているようだった。
それでも、さっきみたいにうやむやにしなかった。
「迷惑じゃないよ?どうせ家には部屋はあまってるんだし、部屋を貸すかわりに亮くんには家事を任せようと思ってるし。利害関係の一致ってとこかな?」
「ほんとにそんな理由?」
ぼくは、あまりに当たり前のこじつけたような理由に納得できずに、さらに突っ込んだ。
先生は驚いたようにぼくを見た後、大きく息を吐いた。
「康介くんにとって亮くんはどんな人?」
逆に質問されて今度はぼくが驚いた。しかも話の筋が逸れてる気もするけど・・・
「かっこよくて、頼りがいがあって、強くって、いつでもぼくらのことを考えてくれていて助けてくれる、自慢の兄です」
ぼくは亮にいが大好きだ。忙しい母のかわりに、遊びたいのを我慢して小さかったぼくたちの面倒を見てくれた。お腹が空いたとごねればおやつを分けてくれたし、苛められたら助けてくれた。宿題だって見てくれた。困ったときにはいつだって助けてくれる、亮にいはスーパーマンのような存在だ。
「そうだろうね。亮くんがいちばん大切にしているものは家族だ。家族のためなら彼はとても強くなれる。きみたちを守るためなら彼はずっと頑張り続けるだろうね。でもね、そんな亮くんを誰が守るんだろう。亮くんが疲れた時、誰が癒してあげるんだろう」
「それは、ぼくたちが―――」
「そうかな?」
ぼくの言葉を遮った先生の口調は、ぼくの知っている優しいバリトンではなかった。
「きっと亮くんはきみたちの前では絶対に弱いところを見せないと思わないかい?」
ぐっとぼくは黙り込んだ。先生の言うとおりだ・・・・・・
ぼくは、亮にいのそんな姿を見たことがなかった。亮にいにだって辛いこともあるはずなのに。
気がつくと、あたりは霧に包まれていた。
「霧が濃くなってきたね。戻ろうか」
先生に手を掴まれビクリとした。
「一本道だけど危ないから。絶対に離さないで!」
あっという間に視界が白くぼんやりとなり、ほとんど先が見えない霧の中を、ぼくを引っ張って慣れ親しんだのであろう道を、屋敷に向かって戻って行く。
ぼくの頭を撫でてくれた、握手をしてくれた、あの大きな手が、ぼくの手をギュッと握っている。
視界が見えない分余計に、繋がれた手に全神経が集中して、ドキドキが伝わりやしないかと、汗ばんで気持ちわるくないかと、気が気でなかった。
でも離せなかった。せっかくのぬくもりを、自分から離すなんてできなかった。
ぼくは、ただ夢中で先生の後を追った。
いつ晴れるやも知れない霧におびえながら、もう少し、もう少しと願いながら・・・・・・
「ここ、段差に気をつけて」
気がつくと、目の前は玄関だった。
夢から覚めたように、突然気恥ずかしさに襲われて、ぼくは振りほどくように手を離した。
「あ、ありがとうございました」
先生の顔を見れなくて、一旦部屋に戻ろうと背を向けた瞬間、腕を掴まれた。
「な、なんでしょう・・・」
うろたえ気味のぼくに、先生はさっきの答えだけどと前置きをして、ぼくの目を真っ直ぐに見て、はっきりと言った。
「ぼくは亮くんのいちばんの理解者になりたい。亮くんが息を抜ける場所になりたい。ただそれだけだ」
ぼくは、一礼すると一目散に部屋に戻ってベッドに潜りこんだ。
先生は、亮にいのことを一度も好きだと言っていない。言っていないけれど、最後のあの言葉が、先生の亮にいへの気持ちを如実に表していた。
好きだとかそんな俗めいた台詞よりも、もっと深い愛情がこめられていた。
やっぱり先生は亮にいが好きなのだ。そしておそらく亮にいも・・・・・・
何度も言い聞かせた。
ぼくは先生とどうこうなろうなんて思わない。ただ好きでいたいだけ。
それで満足なはずだった。
先生に付き合っている人がいることはわかっていたし、それで納得したはずだった。
そして、その相手が・・・亮にいなんじゃないかってことも・・・・・・薄々は気づいていたんだ。気づいていたから、心がすっきりしなくて、不安にかられて、そして今日あんな質問をして、先生の亮にいへの想いを引き出してしまった。
付き合っている人がいると知っても出なかった涙が、ひっきりなしに溢れてくる。
初めて好きになった人は同性の先生。
そして、その先生は、兄と両思いだったなんて、メロドラマにもならないくらい、陳腐な結末だった。
もし、ぼくのほうが先に生まれていたら、先生はぼくを選んでくれていたのだろうか。
もし、ぼくのほうが先に先生に会っていたら、ぼくを好きになっていてくれただろうか。
そんな馬鹿げた考えまでが浮かんでは消えた。
温かかった先生の手。どっちかというとニヒルな印象で体温も低そうなのに、とっても温かかった。
こんなことなら、ふれなければよかった。
夢のような霧の中の散歩・・・ずっと続けばいいのにと願ったほんの数分の出来事・・・・・・
ぼくは先生に貸してもらった上着を抱きしめて泣いた。
純平に気づかれないように、頭まで布団をかぶって、声を殺して泣いた。
こんなに悲しい時でさえ、声を上げて泣くことを許してくれない神様を、ほんの少し恨みながら・・・・・・
ぼくの想いは誰にも悟られてはいけない。
悲しい想いをするのは、ひとりだけでいい。
ぼくは亮にいも先生も大好きだから・・・









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