微かな想い
『悲しみの果て』
〜康介side〜


第ニ話







ぼくが片岡先生に初めて会ったのは、去年の六月だった。
あの時、陸のわがままに亮にいが初めて手を上げて、何だかこじれてしまって、バイト先からなかなか帰ってこない亮にいをみんなで心配していたら、突然あの人がやって来た。
鳴らされたインターホンに、亮にいが帰ってきたのかとバタバタと玄関に駈け寄ったぼくたちの前に現れたのは、見知らぬオトコの人だった。
すらっとした長身に上品そうなスーツを身にまとい、おそろしく端正な顔を隠すように銀縁眼鏡をかけた20代中頃のその人に、ぼくは思わず見とれてしまった。
ぼくが今まで会ったことのない、かっこいいオトナのオトコの人だったから。
「亮くんは・・・帰ってますか?」
その声は、少し冷たそうに見える外見とはまるで違う、とても心地よく優しい響きのバリトンだった。
ぼくが黙り込んで、ただ彼を見上げていた。
「きみは、弟の康介くんかな?」
その声で名前を呼ばれて、耳がさわさわした。とくんとくんと心音が高鳴るのがわかる。
「そうですけど・・・」
やっとの思いで言葉を発すると、彼の表情が和らいだ。
「突然ごめんね。亮くんの学校で数学を教えている片岡っていいます。え〜っと、亮くん帰ってないんだね?」
「先生・・・?明倫館の?」
「そう。一年の時は担任だったんたけど、今でも亮くんの進路の相談に乗ったりいろいろしてるんだ」
「んで、何か用?おれたち亮兄ちゃんが帰ってこなくて心配してんだけど」
黙って聞いていた純平が後ろから口を挟んだ。
「り、亮兄ちゃん・・・きっと怒ってるんだ・・・ぼ、ぼくのこと・・・」
陸はべそをかきはじめる始末だ。
すると、先生は陸の前にしゃがみこんで、優しく髪を撫でると、初めて笑顔を見せた。
「陸くん・・・?たぶんお兄ちゃんは怒ってなんかいないよ?きっとバイトが忙しいだけだよ。すぐに帰ってくるからテレビでも見て待ってな?」
そう言うと、先生はちらっとおれの方を見るから、おれは純平に陸を奥へ連れて行くように促した。
「亮くん・・・家で何かあったのかな?」
遠慮がちにぼくに尋ねてくるその眼鏡の奥の瞳は、とても心配そうだった。
どうして担任でもないこの先生は、亮にいにかまっているのだろう。家にまでやってきて・・・
疑問ばかりが頭に浮かぶが、それでも先生の心配そうな瞳を見ていると黙ってはいられなかった。初対面の人に警戒心もなにもなかった。
「ちょっと、陸とケンカしてしまって・・・家に帰りにくいんだと思います」
やっぱりなって小さな呟きが聞こえたかと思うと、先生は陸にしたようにぼくの頭に手を置いた。
大きな掌が髪に触れたとき、言いようのない感覚がぼくを襲い、全身がかぁーっと熱を帯びたように熱くなった。
「亮くんは必ず連れ帰るから、安心して待ってて?な?」
きっと顔も赤くなってるだろうと俯いていたのに、先生はそんなことおかまいなしにぼくを覗きこむ。
「すみません。お願いします」
搾り出すようにぼくがお願いすると、ポンと軽く背中を叩いて出て行った。
それを確認すると、ぼくは玄関に座り込んだ。
様々な思いがぐるぐる交錯してわけがわからない。
ぼくはどうしてあの人にドキドキするんだろう?
ぼくはどうしてあの人のことが気になるんだろう?
声を、掌のぬくもりを思い出すと、どっきんどっきんと鼓動が高鳴り、締め付けられるようにキュンと唸る。
片岡先生・・・・・・
明倫館高校の数学の先生・・・・・・
志望校は亮にいと同じ明倫館に決めていた。学費免除枠に入るということを大前提に。
ぼくは、俄然受験を頑張る気になった。絶対明倫館に行きたいと思った。
亮にいと先生が仲良しなのなら、きっと弟のぼくとも仲良くしてくれるに違いない。
先生への思いが、恋だなんてまだ気づいちゃいなかった。
ただ、初めて会った、かっこいい先生と、仲良くなりたいと思った。
ただそれだけだった。
それからぼくは一生懸命勉強した。
合格したらあの先生と三年間を一緒に過ごせる。
それだけがぼくの心の支えだった。
ぼくは何度か亮にいに片岡先生について尋ねてみようかと思った。
だけどできなかった。
なぜだかできなかった。
亮にいの前で片岡先生の話題を口にするのは、いけないことのように思えて・・・・・・
どうせ合格したら、先生に親しくなることができる。
きっと「よく頑張ったなぁ」て言ってくれるに違いない。あの優しいバリトンで・・・
その場面を何度も想像しては、問題集に向かった。
そしてぼくは、見事合格した。
何度も夢見たあのシーンが現実のものになる・・・ぼくの心は躍った。








次に、片岡先生がぼくらの家を訪ねてきたのは、亮にいの誕生日のことだった。
その日、亮にいはなんだが元気がなかった。
去年の夏頃から、ほんの少し帰りが遅くなってきた亮にい。聞くとバイトの時間が伸びたとしか言わなかったけれど、ぼくは亮にいに好きな人ができたんじゃないかって思っていた。
だって、どんどんかっこよくなっていくから。
前からかっこよくてモテるのは知っていたけれど、表情が豊かになったように思えた。悩んでいる様子の時もあったけれど、それにも増して楽しそうに笑う時が多くなった。
だから、受験勉強とバイトを両立している亮にいは、バイトの後にその好きな人と会ってたりするんじゃないかって。
だから帰りが少し遅いんじゃないかって思っていた。
それだから、もしかして誕生パーティーはなくなるかなって危惧していたんだけれど、その日はどこにも行かず家にいたようだった。
パーティーの途中で亮にいの恋愛話になったとき亮にいは否定したけれど、ぼくにはうろたえているとしか思えなかった。
そんな時、片岡先生がやってきたんだ。
鳴ったインターホンにぼくが玄関にでると、手ぶらの先生がそこに立っていた。ぼくは、自分の目を疑った。まさか先生が尋ねてくるなんて思わなかったから。
開け放たれた玄関のドアからは冷たい風が吹き込んでいたけれど、そんなものはなんのその、身体が熱くなるのがわかった。









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