無口な空の下






<7>








その日は、仕事が早く終わるおれが、高杉の住む街へ出向くことになった。
久しぶりに訪れた場所はゴールデンウィークを前に活気づいていて、家族連れの姿が目立った。
待ち合わせは夜の8時だが、おれは午後一番の新幹線に乗り込んだ。
意識的に避けていたこの避暑地。
片岡との思い出がたくさん詰まったこの街を訪れる気になったのは、高杉への返事を前に確認しておきたかったからだ。
片岡への気持ちはすっかり消えてしまったのかどうか・・・・・・
思い出してももう胸の痛みはない。
だが、実際に縁の場所を訪れた時、どういう気持ちになるのか、自信がなかった。
駅からメインストリートを北上すると、旧市街に出る。ここの別荘に来るたびに、ちょっとした買い物に訪れた場所だった。
別荘族御用達の老舗と観光客御用達の比較的新しい店が違和感なく融合している不思議な感覚は、少しも変わっていなかった。
ジョン・レノンも大好きだったというフランスパン、それに添えられる数種類のジャム、いくら食べても飽きなかったソーセージなど、片岡のこだわりの品をいつも一緒に買出しに来ていた店を眺めて歩く。
やはり懐かしい気持ちばかりで、思い出したからといって苦しくもない。
やっぱりおれってあっさりしてる性格なんだな。
そのことを少し寂しく感じた自分がおかしかった。
土産にでもしようかとジャム専門店に入って驚いた。
小さな瓶に詰められたそれは、おれの想像以上に高価だったのだ。
事実を知っておれはショックだった。
ここ来ると、いつだっていっぱしの別荘族の気分だった。
片岡のマンションだって身分不相応な豪華な住まいだったが、自分の置かれた環境を忘れることはなかったのに、ここでの生活はあまりに優雅すぎて、おれに自分を忘れさせたのかもしれない。
その証拠に、ジャム一つをとっても普段なら絶対に買いはしない値段だ。
おそらく他のすべても高級食材なのだろう。
おれはそれらを当たり前のように口にしていた。
もちろん、おれの懐は少しも痛むことはなかった。
自分からねだったことは一度もない。
ないけれど・・・物質的にも自分がどれだけ片岡に甘え甘やかされていたのか、おれは改めて自覚せざるを得なかった。
おれは、一つだけ瓶を手に取るとレジに向かった。
無意識に選んでいたのは、アイスクリームやヨーグルトのトッピングによく使っていた、片岡も大好きな山モモのジャムだった。
店を出て、少しばかり沈んだ気持ちのままあたりをブラブラしていたが、終わったことを考えても仕方のないことだと気分転換に珈琲店に入った。
オーダーを済ませてホッと一息ついたとき、何やら視線を感じその方向へと目を向けた。
あれは・・・・・・
小柄な女性が笑顔でテーブルに近づいてきた。
「亮くん!どうしたの?まさかこんなところで会えるなんて!」
「・・・ごぶさたしています」
それは、片岡の別荘の管理人の多恵子さんだった。
「ここ一年くらいお見受けしないわねぇって主人とも言っていたのよ?弟さんたちもお元気かしら?」
「あ、はい・・・・・・」
高校卒業の年に弟たちと一緒に招待されて以来、別荘には何回も足を運んでいる。
弟たちが一緒の時もあったが、ほとんどは片岡とふたりだった。
管理人の西山夫妻はおれと片岡の関係に薄々気付いているらしかったが、おれはこの年配の管理人夫婦に好感を持っていた。
彼らの年齢からすれば、おれたちの関係を理解できなくて当たり前なのに、何も言わずにおれを雇い主の歳の離れた友人として扱ってくれたし、慣れてくるとちょっとした用事も言いつけてくれたりして、おれが滞在中に遠慮することのないように気を使ってくれた。
それまで年に数回しか片岡は別荘を使用しなかったらしいが、おれが気に入ったこともあって、一ヶ月に一度は週末を過ごすようになった。
それがぷっつり無くなったのだ。
西山夫妻が疑問に思うのも無理はない。
「多恵子さんも・・・平蔵さんもお元気ですか?」
「もちろんよ。亮くんはどうしてここに・・・?」
おれの顔色を覗いながら遠慮がちに尋ねる多恵子さんに、隠しておく必要もないかと正直に答える。
「おれ、一年前にこっちのほうに引っ越してきてて。住んでるのはこの街じゃないんですけど、今日はこっちにいる友人と約束してて、それまでの時間つぶしにブラブラしてたんですよ」
もちろん、片岡とのことは言わない。
言わないけれど、あれほど頻繁に顔を出してたおれがぱったり来なくなった状況を考えれば、どうなったかくらいわかるだろう。
片岡だって優梨子さんと別荘を使っているだろうし。
「そうなの・・・・・・」
少し顔を曇らせた彼女に悪い気がして、おれは明るく尋ねた。
「多恵子さんは?ひとりでお茶?」
「あ、ああ私はね、買出しなのよ。明日から峻哉さんたちがいらっしゃるもんだから準備が大変で―――」
そこまで言ってから、彼女はバツが悪そうに口を噤んだ。
その表情から、余計なことを言ってしまったと後悔しているのがうかがえる。
峻哉さんたち・・・・・・?
これまで、片岡を思い出しても全然平気だったのに、針で刺されたようにチクリと胸に痛みが走った。
でも、その痛みは気のせいだと、今さらおれが片岡のことで傷つくなんてありえないと、一生懸命思い聞かせて笑顔をつくった。
「そ、そうなんですか?それは大変ですね。でも多恵子さんの料理の腕のみせどころじゃないですか!おれも、また多恵子さんの手料理、食べたいなぁ」
そんなこと、もうあるはずがないけれども。
「そうね・・・」
きっと彼女もわかっているのだ。
あの頃のように、おれがあの場所へ戻ることがないことを。
その証拠に、彼女は「また来てくださいね」とは言わず「また会えるといいわね」と別れを告げた。
おれも、「元気でいてください」と返事をした。
ひとり残されて、冷めかかった珈琲を口に運ぶと、とても苦く感じた。
慌てて砂糖をドバドバと注ぎ込んだが溶けるはずもなく、店自慢のはずの珈琲がとてつもなく不味かった。
気分転換に入ったはずなのに、おれの気持ちは下降する一方だ。
この街には、片岡との思い出が多すぎる。
この一年、時が経つにつれて痛まなくなっていた胸がキリキリするのに戸惑いを感じ、頭の中をぐるぐる回る余計な思考を取っ払いたくて、無理やり高杉のことを考えた。
不意打ちの出来事に今は動揺しているだけで、おれは高杉に会いにきたんだと言い聞かせる。
もうおれと片岡は何の関係もない。
彼が誰とどこでどうしようがおれには関係ない。
それよりも、そんなことよりも、おれは今日高杉にすべき返事をいちばんに考えなければならないんだ。
そう言い聞かせて、気持ちを高杉へと向けると、ひとつだけため息をついた。






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