beloved




第五話

和みかけていた空気が一瞬にしてもとの緊迫したものへと一変する。そんな空気の中、心の葛藤に勝負がついた。
「優梨子さんって?」
「いや、聞いていないのならいいんだ。忘れてくれ」
「自分から言い出しておいて途中で辞めるなんて卑怯です!」
おれの迫力に負けたような表情で、仕方ないなと囁きながらも、そこに薄い笑みが浮かんでいるのを見てとって、おれはしまったと後悔したがもう止まらなかった。名前を出したのもすべて作戦だったのだと気付いたけれど、そんなことより先を知りたくて堪らなかった。








優梨子って誰だよ???
決して仲が良かったわけじゃない兄までもがなんで知ってんだ??








「優梨子はおれたちの幼馴染みだ。久坂の家の孫娘。久坂くらい知ってるだろ?」
久坂家は、片岡の家と同じくらいこの街では有名な家だ。この街の議席を、もう数十年も片岡氏と久坂氏が守り続けているし、おそらく知らない者はいないというほどの名家である。そして、この二大勢力は、多岐面に渡って争うこともなく持ちつ持たれつの関係にあるんだと、二ノ宮から聞いたことがあった。
とすれば、それぞれ行き来する間柄であるだろうし、幼馴染みになる可能性も高い。
「優梨子は小さい頃に両親を事故で亡くして、祖父母に育てられていた。おれたちと歳も同じだったし、祖父同士が茶の湯仲間だったため、よく一緒に遊んだもんだ。でもそんな無邪気な時代がずっと続くわけもない。ましてや男2人に女1人だ。それぞれがそれぞれを異性として意識するようになるのに時間はかからなかった」
「それは・・・ふたりとも優梨子さんを好きになったってこと?」
先を急かすようなおれの言葉にほんの一瞬視線を向けたけれど、質問に答えることなく俊哉は話を進めた。
「優梨子はどんどん綺麗になっていった。それは蕾がどんどん膨らんで可憐な姿を見せる花のようだった。そして優梨子の美しさはその容姿だけではなかった。心根の優しいまさしく完璧な女性だった。そしてその優しさは、おれよりも峻哉に多く注がれた。あいつは両親の受けがよくなかったからな。愛情を与えてもらうことなく、寂しい日々を送っていた。おれもそれに気付いてはいたけどどうしようもなかったし自分のことで精一杯だった。優梨子はそんな峻哉の良き理解者だった。あいつのことをかわいがっていた叔父が死んだ時も、もし優梨子がいなかったらあいつは後を追っていたかもしれない」
「そ、そんな・・・」
「それくらい、あいつにとって優梨子の存在は大きいんだ」
画家である叔父さんの存在は知っていた。このマンションも、軽井沢の別荘も、その叔父さんから受け継いだものだときかされていたし、相当の遺産を片岡に残した事実は、ふたりの絆を如実に表している。
唯一自分を守ってくれた人だったと、片岡は言っていた。
そう・・・唯一と。
「きっと、母のようで、姉のようで、大切な想い人・・・そんな存在だったんだろうな、峻哉にとっては。それでも峻哉は優梨子に指一本触れなかったらしい。心底大切なものには手も出せなかったみたいだな」
その言葉が胸の奥底の小さな不安をちくりと刺激するけど、おれはそれについて考えないようにした。






峻哉に・・・とっては・・・?
ってことは、優梨子さんは・・・?
どういうことだと考える暇はなかった。






「優梨子は、おれの妻だ」






えっ?なんだって・・・?おれの・・・?






「優梨子が一生を共にする相手に選んだのは、峻哉じゃなくておれだったんだよ」
おれは目の前の男を凝視した。
男の言っていることは真実なのか見定めるために。
同時に頭にはたくさんの疑問符が浮かんでいた。
じゃあ、どうして彼女は片岡に誤解されるような態度をとったんだ?
「優梨子の峻哉に対する気持ちは、恋愛感情じゃなかったんだ。両親に疎まれ行き場のない可哀想な幼馴染み、弟みたいに思っていたらしい。酷く言えば同情ってやつ。優しさが仇になるとはまさしくこのことだ。優梨子はずっとおれのことが好きだったらしい。言っておくが、優梨子が峻哉に好きだとか言ったことはないし、峻哉も優梨子に気持ちを伝えることはなかったようだがな。しかしおれには全てわかっていた。峻哉が優梨子に恋愛感情を抱いていることも、逆に優梨子には恋愛感情なんてなかったことも」
そこまで話すと、空になった湯飲みを水でいいからとおれに差し出すから、それを持つとキッチンに立った。
混乱を沈めようと、ペットボトルのミネラルウォーターを一気に飲み干すと、シンクに手をついた。
じゃあ、あいつの気持ちはどうなるんだ?
散々気を持たせるような態度をされておいて、実は同情でしたって?
しかも、彼女の選んだ相手は、いちばんコンプレックスを抱いていた双子の兄だなんて!
カタンと音がして振り返ると、俊哉が立っていた。
片岡とそっくりなその姿は、そこに本人がいるような錯覚を起こさせ、おれの心を締めつける。
グラスに新しいミネラルウォーターを注いで渡すと、彼もそれを一気に飲み干した。
リビングに戻るのかと思いきや、彼は冷蔵庫にもたれかかったまま話を再開した。
「両親がおれに偏った愛情を注ぐようになっても、しばらくはあいつなりに親の愛情を求めて必死だった。でもどんなにあがいても叶わないと悟ってからは全てを諦めるようになってしまった。執着心がなくなったんだ。そこがあいつの頭のいいところだとも思うけどな。手に入らないものは求めない、それが楽な生き方なんだ、そんな風に考えたんだろう。さらに優梨子のことがあって以来、それに拍車がかかった。何に対しても本気にならない。それがあいつの生き方だ」
俊哉はおれを見ていた。
目を逸らすことなく、じっと。
「だから・・・だから何が言いたい・・・?」
自然と声が震える。
聞かなくても答えはわかっているのに。
「きみは、あいつを信じてるんだったよな。ま、きみの人生だ。おれがとやかく言うのはもう止めよう」
さっきまでのおれなら、散々言っておいて今さらなんだと、嫌味のひとつくらい軽く返せたのに、そんなゆとりさえ失っていた。
「最後の数分は・・・無駄な時間だったかな。峻哉の過去を聞くことができたきみにとっては有意義な時間だったかも知れないがな」
その言葉に、完敗を認めざるを得なくて、おもわずクッと悔しい呻き声が漏れた。
ゆっくりスリッパの音が遠ざかり、最後にガチャンとドアの閉まることが聞こえて、おれはその場に座り込んだ。
もう、心の中はぐちゃぐちゃだ。
何がどうなって、どうすることが一番正しいのかもわからなかった。
ただ、片岡が自分の過去の話をしてくれた時、どうして叔父さんのことしか言わなかったのか、優梨子さんのことを隠していたのか、それだけが胸の奥にずしりと重くのしかかっていた。








                                                                    









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