beloved




第六話

「どうした?具合でも悪いのか?」
優しく響く声にはっと顔を上げると、片岡が心配そうに様子をうかがっている。
「えっ、あっ、何でもない」
取り繕うように大皿に盛られた料理を小皿に取りわけて箸を動かした。
何も言うつもりはなかった。
何をどう言っていいのかもわからないし、自分自身の心の整理もついていない。
運良く、少し気持ちが落ち着いてから片岡が帰宅したから、いつもどおり振舞えたと思う。
料理を前にボーっとしていたのだろう。探るような視線を感じ、こんなことじゃダメだと言い聞かせた。
付き合い始めた時から、片岡はおれの気持ちを汲み取るのが上手かった。
ひとり悩んでいるとさりげなく手を差し伸べてくれる、その温かさに何回気持ちを救われたかわからない。
「なにかあったのか?」
問われておれは笑顔で首を横に振る。
「合格してホッとしたっつうか、気が抜けたっつうか、そんな感じ。嬉しいことには違いないんだけど、いざ教職につくとなるとさ、おれにも務まるのかなって」
「おれに務まってるんだから、おまえにも出来るさ。何ならアドバイスしようか?」
「いや、余計に不安になりそうだから、いらねえ」
いつもの調子が出てきたことに、安堵したようだ。
おまえはいつまでたっても可愛げがないなぁと、笑いながらワインを飲み干す片岡に、おれも胸を撫で下ろした。
日常の食卓に戻り、たわいもない話に花が咲く。
おれは努めて口数を多くしたが、そのことに片岡は気付いてか気付かないでか、笑って話を聞いていた。
「卒論の提出はいつだ?」
会話が途切れた瞬間、待っていたかのように片岡が口を開いた。
「12月の20日・・・だったと思うけど?」
卒論を提出してしまえば、卒業を待つのみだ。
「それじゃあ、おまえの就職祝いも兼ねて、年末年始、旅行にでも行くか?」
「旅行・・・?」
「教員一年目は研修やら何やらでなかなか長期の休みも取れない。特に公務員だとサボるわけにも行かないだろ。それとも、今年の年越しは家族と過ごす方がいいか?」
「そんなことなはいけど・・・」
突然の申し出に、言葉に詰まる。
「知人がニューヨークにいるんだけど、年末年始と借りてるアパートメントを空けるらしいんだ。使ってもいいと言ってくれているし、それなら往復の交通費だけで済む。それくらいなら、おまえも祝いとして受け取ってくれるだろ?」
外国で迎えるクリスマスやカウントダウンは日本とかなり雰囲気が違うんだと、楽しそうに話しはじめた片岡を、おれは複雑な心境で見ていた。
それくらいと言っても、ニューヨークまでも往復航空券なんて高価に決まっている。それでも宿泊費はかからないのだからと、おれに気を使ってくれていることは十分理解できた。
今まで、いろんな場所に連れ出してもらったが、おれがその費用を出すことはほとんどない。
だいたい、ここにだって、家事をすることを引き換えに住まわせてもらっているのに等しいのだ。
おれは、いつだって対等でいたいと思っているから、ことあるごとに折半してくれと申し出るが、それが受け入れられたことはない。
年上だから、収入があるからと、うまく丸め込まれてしまうのだ。
アンタだって安月給のクセに、と決して本心ではなく皮肉っても、上手くかわされてしまう。
もちろん、与えられた機会は楽しむことにしている。それが礼儀というものだし、事実片岡と一緒に過ごす時間は、幸せ以外のなにものでもない。ちゃんと社会人になって、いっぱしの給料を得るようになったら、いくらだって恩返しできるのだからと、その都度自分に言い聞かせて割り切るようにしている。
その反面、生活レベルの違いを感じるのも確かな事実で、それは少しずつおれの心を侵食していた。
「ニューヨークっていうのは不思議な街なんだ。とてつもないエネルギーを持った場所だ。これから人にモノを教える仕事につくにあたって、きっとプラスになる何かを与えてくれる街だと思う。それをおまえにも感じてほしい」
さらに続ける。
「おまえが社会人になったらもうこんなことはしない。生活費もそこそこは入れてもらうことにする。だからこれが最後だ。就職祝いと卒業祝いと、ついでにクリスマスプレゼントとお年玉も兼ねて、何も言わずおれに甘えてくれ」
こういうところはほんとにズルイと思う。
ちゃんとおれの気持ちを理解して、なおかつ甘えてくれと言う。
そんなこと言われたら・・・どうしようもないじゃないか!
「そんなに頼まれたら仕方ないな。じゃあ連れてけよ、ニューヨークに」
ありがとうと素直に言えるほどおれはかわいい性格じゃない。
それは今も昔も変わらない。
「連れてってやるよ。めいっぱい楽しませてやる」
そんな生意気な返事にも満足そうに笑みを浮かべ、さらにおいしいおいしいと料理に手を伸ばす片岡を、おれは愛しいと思う。
怖いほど、好きという感情に心が支配される。
寝支度を整えて寝室のドアを開けると、先に入浴を済ませていた片岡は、ベッドヘッドに持たれて本を読んでいた。
ベッドに膝を乗り上げてもなおおれの存在に気付かないほど集中している片岡の手から、さっと本を取り上げると、びっくりしてやっと顔を上げた。
本をベッドサイドに落とし、そのままメガネを外すと軽くくちづける。
促され膝を跨ぐように正面に座らされると、自分からキスをしかけたことが恥ずかしくなって、顔を見られないように身体を預ければ、ふんわり抱きしめてくれた。体格は変わらないのに、どうしてだか抱きしめられると、おれの身体はすっぽり片岡の腕の中に収まってしまう。背中を優しく撫でる手の温かさをパジャマ越しに感じて、どうしようもなく切なさがこみ上げてきた。
「おれのこと・・・好き?」
抱きしめられてついこぼれたのは、探り確かめるようでキライな言葉だった。
「どうしたんだ?おまえからキスしてきたり―――」
「そんなことはいいからっ」
強く遮って、返事を促す。
愛されているという自覚はある。答えもわかっている。なのに、聞かずにはいられない。
「好きだよ・・・好きなんて言葉じゃ足りないくらい・・・」
おれの身体をそっと離し、まっすぐ見つめると、薄いくちびるが続きを紡ぐ。
「亮が好きだ。愛してる」
今度は強く抱きしめられ、おれも縋りつくように腕を回した。
あの男の言葉が、優梨子という女の存在が、愛する人の腕の中でさえ不安を落とすから、それらを消し去って欲しくて何度も何度も片岡にその言葉を求めると、求めるだけ耳元に優しく囁いてくれる。
ねだるように頬をすり寄せれば、囁きの合間にキスをくれた。
「今日の亮は甘え上手だな」
クスクス笑いながら、まだ乾ききらない髪をすく指が心地よい。
そして思う。
おれは、この場所を失くしたくないと。手放したくないと。
父親を亡くして以来、ただがむしゃらに生きてきた。残された家族でたったひとりの女である母親と、父親の温かさを知らない弟たちを守るために必死だった。
頼るものがなくても平気だった。みんなが笑顔でいてくれればそれでよかった。
母子家庭でも子供は立派に育つんだと、世間に知らしめたかった。
同情なんてくそくらえだと、虚勢を張って生きていたのだ。
それなのに、片岡に会っておれは変わってしまった。
甘えること、甘やかされることの心地よさを知ってしまった。
片岡の家が、おれの家とは比べものにならないくらい裕福で、育ってきた環境も生活レベルも何もかもが全く違うと知った時、終わりを予感したことがあった。そしてその時が来たら素直に受け入れようと誓ったのだ。
しかし、それから4年の間に、愛する人との生活がどれだけ心を潤すのかを知り、あまりに平穏で幸せな毎日に慣れてしまった。もちろん不安もあったけれど、それよりも片岡がくれる甘い日々のほうが占める割合が大きかったことは否めない。
今日、片岡の兄に言った言葉に嘘はない。
おれの存在が片岡にとって邪魔になるようなことがあれば、おれはいつだって消える覚悟はあると、ずっと思い続けていた。その覚悟があったからこそ、その時がくるまではと、片岡の優しさの上に胡坐をかいていられたのだ。
だが、おれは安易に考えすぎていた。
その時が目の前に形となって現れてやっと、そんな覚悟が机上の空論だったと理解したのだ。
片岡はおれを愛してくれている。しかしそのこと自体が、片岡を苦しめるかもしれない。
さらに、優梨子という女のことをおれに話し聞かせて帰っていったあの男が、諦めるはずがない。
「今日はしつこく酷くしていいからさ」
初めて聞いた片岡の過去も、優梨子という女の存在も、おれの心に渦巻く不安も、全部消して欲しかった。
抱かれている間だけでもいいから、煩わしいこと全て忘れたかった。
「今日の亮はいつもと違うぞ?」
声音の変わった片岡に、それでも本心を気付かれたくないと思うおれは、バカなのだろうか。
「いいじゃん。たまには刺激も必要だろ?セックスのマンネリはよくないって言うじゃん。それとも、もう歳?自信ないとか?」
いつもは冷静な片岡が、ベッドの上での挑発に乗りやすいのは、ありがたいことだった。
噛み付くようにくちづけられると、身体を入れ替えられ、ベッドに押さえつけられた。
「泣いて甘えても許さないからな。覚悟しろよ」
欲望を含んだ声と愛しい重みにゾクリと身体が疼き、おれたちは快楽の世界へと堕ちていった。
最後に瞳が映したのは、カーテンを閉め忘れたままの大きな窓の向こうの、きれいな満月だった。








                                                                    おしまい









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