beloved




第四話

片岡が教職についたのは、志があったからじゃないことは知っていた。
そして、教師という仕事がたいして好きではないということも。
片岡は、最高学府に進んだ兄と比べて自分はデキが悪いと卑下するけれど、明倫館も私立では上位ランクの大学だし、かなりの成績で卒業したことを、教育実習で世話になった片岡と同期の教師から聞いた。
贔屓目を抜いても、片岡は頭の回転が早いし、かなりキレるほうだ。
もし実家の会社経営に携わったのなら、十分発揮できるだけの実力があると思う。
数学教師のくせに、経済新聞や経済雑誌を読んでいるのを見るたびに、もしかしてそういう方面の仕事がやりたいんじゃないだろうかと、おれは密かに考えてあぐんでいたのだ。
「あと数年したら、私も政治家としてのスタートを切るつもりでね。そうすれば我が社の経営の方まで手が回らなくなる」
「だから・・・だから峻哉さんを呼び戻すんですか?」
自分でもびっくりするほど険を含んだ声だった。
「あいつも片岡の人間だ。家業を手伝うのは当たり前のことじゃないか」
「でも、それはあなたたちの都合じゃないですか!今まで気にもかけずに放っておいて、いざとなったら連れ戻すなんて、ご都合主義もいいところだ!」
抑えきれなくて声を荒げるおれに反して、彼はいたって冷静だ。
「今まで自由にしてやったことを感謝されこそすれ、そんなことを言われる筋合いはないと思うが」
怒りが収まらないおれに、彼はさらに続ける。
「峻哉は小さい頃からおれに対して劣等感を持っているようだが、それはあいつの思い込みだと思っている。同じ遺伝子を持って生まれてきたんだ。おれはあいつに期待をしているし、あいつならできると確信している。それとも何か?きみはあいつがぼっちゃん高校生相手に数式を唱えて一生を終わればいいと思っているのか?」
「おれは・・・」
自分の気持ちを言っていいものか悩んだ。
こんなやつ相手に本心を見せる必要はない、そうも思った。
しかし、おれはこの目の前の男が適当なことを言っているとは思えなかった。彼は彼なりに片岡を気にかけているのだ、どうしてだかおれにはそれがわかってしまった。
だから、少なからず、彼も兄として片岡を心配しているのだということを知ってしまった今、おれは思いを伝えることに決めた。
「おれは、峻哉さんが戻りたいというのなら反対はしない。でも彼が見合いを断ったということは、現時点では今の生活に満足しているのだとおれは思っている。おれは、あのひとの言葉だけを信じているし、これからも信じ続ける。だからあなたの指図は受けない」
はっきり言い放ったおれを、メガネの奥の冷たい瞳がギロリと睨んだが、おれも怯むことなく目を逸らさなかった。
しばし考え込むように伏せていた視線を上げると、彼はおもむろに口を開いた。
「きみが峻哉のことを真剣に考えていることはわかった。しかし、はいそうですかと納得するわけにはいかない。片岡の家に峻哉が必要なことに変わりはないからな」
「おれも別にあなたたちに認めてもらおうと考えたことはない。ただおれは、あのひとがしたいようにすればいいと思う」
おれはいつでもそう思っている。
あいつにとっておれが必要ならば、誰の指図を受けようとも離れるつもりはないし、逆にもう必要ないと言われればいつだって出て行くつもりだ。そして、おれという人間があいつを苦しめることになるのなら、自分の意思で消える覚悟もできている。
おれは、もうあいつにツライ思いをして欲しくないんだ。
「じゃあ、峻哉が実家に戻ると言えば、きみには別れる覚悟はあるということか?おそらく実家に戻ればきみたちの関係は終わる。それでも続けていけるほど同性の恋愛に世間は寛容ではないだろうからな」
覚悟?そんなものはとっくの昔にできている。
平穏な毎日はいつだって不安と背中合わせだ。
でも、そんな思いを抱えながらも、片岡と一緒に過ごすことを決めたのはおれ自身なのだ。
おれはあえて返事をしなかった。
それはおれだけの心に納めておけばいいものだから。
口を噤んだおれを、煙草の紫煙が包み込み、その煙草の銘柄が片岡のそれと同じであることに今さらながら気付いてふと思う。
センスよく結ばれているゼニアのネクタイも、片岡と雑誌を捲りながら、片岡に似合うんじゃないかと話していたものだ。おれがそう言った時、おまえもおれの趣味がわかるようになったなとあいつは喜んでいた。
やっぱり双子は嗜好も似るのだろうか。
おれにも兄弟はたくさんいるが、どういうわけだが個々で全く趣味が違う。年齢差も関係するのかもしれないが、おそらく双子として生まれた片岡兄弟は、お互いの気持ちがどうであれ、一緒に過ごす時間が長かったであろうことが推測される。だからこそ、片岡はこの兄と比べられコンプレックスを抱くようになったのだから。
片岡から双子の兄の話を聞かされたとき、おれは冷徹で情のない人間を想像していた。
しかし、目の前の男は、温かさは感じられないものの、片岡のことをある程度は理解しているらしいことがうかがえる。
不肖の弟だとでも思っているのならうち捨てておけばいいのだ。
それを、敢えて家業を手伝わせようとし、こんな年下の男に話をつけにやってきたのだ。
怒鳴られて罵倒されたなら、あんたには関係ないと部屋から叩き出したかもしれないし、こんな風に長々と向かい合っていることはなかったに違いない。
でも、片岡の将来を思う気持ちに共通点を見つけてしまった今、おれはこの片岡の兄を憎めなくなっていた。
おれは、どうすればいいのだろう・・・
しばらく沈黙が続いた後、突然話題が変わった。
「きみは峻哉の過去の恋愛については知っているのか?」
「はっ?」
どうしてそんなことを聞くのかと訝しげな表情を浮かべると、数本目の煙草を燻らせながらゆっくりと口を開く。
「どうやらきみには峻哉が初めての恋人のようだが、あいつにとってはそうじゃない」
「それくらい・・・わかってますし、気にしませんけど」
すると彼は意外そうに視線を上げた。
「峻哉から聞いたのか?」
「まあ・・・でもモテる人であるのはわかっていたし、それに―――」
全部真剣じゃなかったと言っていた。
本気になったのは・・・おれが初めてだと言っていた。
けど、おれもどうして正直にいろいろ答えているんだろう。やはり片岡と同じ顔を持つこのオトコに、おれは弱いのだろうか。それに最初よりも穏やかな雰囲気になっているのは否めない。
緊張感も薄らいで来ているし、冷たい印象には変わりないけど、片岡の知らないところで片岡の身内とゴタゴタしたくはないという保守的な考えがないともいえない。
ふとテーブルの上の湯飲みを見ると、飲み干してしまったようでカラッポだった。
コーヒーでも淹れようかと尋ねようとした時だった。
「優梨子のことも聞いたのか?」
「ゆり・・こ・・・?」
聞いたことのない名前だった。
でも、その響きに嫌な予感が走るのはなぜだろう。
その名前を繰り返したおれの声は、呟きのように小さかった。
その話は聞かない方がいいと、もうひとりの自分が警鐘を鳴らすのに、さらにもうひとりの自分が好奇心を煽る。
そんな葛藤に苛まれていて、おれは俊哉のメガネの奥の瞳がキラリと光ったのに気付かなかった。






                                                                    









back next novels top top