beloved




第九話




店で片岡に会って数日後の、最後の客がなかなか帰らず帰宅がいつもより遅くなった寒い夜、玄関のドアを開け灯っている明かりに驚いてリビングの扉を開けたおれは、そこに片岡の姿を見つけ胸がいっぱいになった。
仕方ない、どうしようもない、何度言い聞かせても消えない、片岡への思いが性懲りもなくムクムクと顔を出し始めた時だった。
片岡が言った言葉は『ただいま』でも『おかえり』でもなく、『まだここにいたんだな』だった。
まさか片岡からそんな言葉を投げかけられるとは思わず、疎ましげに聞こえるのはおれの被害妄想じゃないかと思った。
だけどおれの顔すら見ようともしない片岡に、現実なんだと思い知らされ、おれの期待は無残にも粉々に打ち砕かれた。
声も出ないおれに、風呂沸いてるから入って寝ろと言い残すと、片岡は自分の部屋に閉じこもってしまった。
すっかり納得したはずなのに、心がイタイと悲鳴を上げる。
おれは、片岡に一体何を求めていたのだろうか。
勝手をして悪かったという、謝罪の言葉なのか?
ひとりで寂しくなかったかという、慰めの言葉なのか?
それとも・・・・・・
好きだ、愛しているという、甘い言葉・・・なのか?
それが、たとえ二番目のおれに与える言葉だとしても・・・・・・
そして、痛む心を抱えてまでもなお、まだここに居続けるおれは、一体何なのだろう。
こなごなになったはずの希望の欠片が、まだどこかに残っているのだろうか。
おれにふれない、おれに話しかけない、おれを見ない片岡は、それ以来、バイトから帰ってくるといつもリビングにいて、その気配を感じると部屋にこもり、そして朝にはいなくなった。
おれはおれで、ひとりでいたときと同じ生活を送った。
お互いがここにいる意味がないのに、ここにいるのは何故なのか。
このままじゃいけない、いいわけないと悶々と考えて、眠れない夜が続いた。
そんな、いつものように寝つけない数日後の夜、喉の渇きを感じ、キッチンに飲み物を取りに行こうとして、リビングで苦悩の表情を浮かべる片岡を垣間見てしまった。
そこには、あの時優梨子と微笑みを交わしていた穏やかで優しい片岡の欠片もなく、疲労の色が隠せない、やつれた姿だった。
そんな片岡を・・・おれは初めて見た。
同時に、どうしようもなくやりきれない哀しみに襲われた。
片岡にあんな表情をさせているのは、明らかにおれなのだ。
おれは、何よりも片岡の笑顔が好きだ。
喜びの笑顔も、皮肉まじりの笑顔も、揶揄いまじりの笑顔も・・・
最初の頃はなかなか笑ってくれなかった片岡が、一緒に暮らし始めてからよく笑ってくれるようになったのが嬉しかった。
おれは・・・おれは片岡には笑っていて欲しい。
それはおれでなく優梨子に向けられるものであってもかまわないから・・・
ぐらぐら揺れっぱなしだったけど、やっと決心がついた。
おそらく、すっかり終わっているのに、のうのうとここに居座るおれの存在を持て余しているのだろう。
けれど、さすがに4年半も一緒に暮らしたおれを、叩き出すほど片岡は酷い人間じゃない。
それなら・・・あと10日間だけ、卒業式の日まで、その優しさに甘えさせてほしい。
その間に、きちんと気持ちにケジメをつけるつもりだから。
片岡に謝罪の言葉を心で告げると、部屋へと戻った。






***   ***   ***






3月最初の日は、目覚めると震えるほど寒く、部屋の中でも吐く息が白かった。
壁にかけておいた真新しいスーツを認めて、今さらながら胸をグッと掴まれる思いがするのは、感傷的になりすぎているからだろうか。
ここに来たときよりも増えた荷物に、いかに自分が片岡に世話になっていたかを改めて感じた。
大きく伸びをし気合いを入れると、ニットを羽織り部屋を出た。
案の定片岡はいない。
それぞれの部屋は効き過ぎるほど防音がしっかりしているため、一度部屋に篭ると物音は聞こえないから、片岡がいつ実家に帰っていくのかおれは知らない。
冷蔵庫の中の腐りやすいものは全部処分したし、これで完璧だとふと食器棚の中のふたつづつ揃えられた食器に目がいった。
来客用のとは別に、取り出しやすい場所に収納された普段使いの食器はすべて一緒に選んだものばかりだった。
デザインより機能性を重視して買いそろえたそれらは、この冬使われることがほとんどなく、寂しそうに見えた。
きっとそう思うのも、感傷的になりすぎている証拠だと、自然にクスリと笑いが漏れた。
洗面を済ませ、スーツに着替えると、姿見で全身を映してみた。
高校生の時、片岡へのプレゼントを買ったことがきっかけで親しくなった高杉に見立ててもらった、少し光沢がかったチャコールグレーのスーツ、ワイン色をベースに黄色の斜めストライプ模様が入ったネクタイと白いシャツ。
就職すれば何かと入用があるだろうとあまり貯金を使いたくなかったので、入学式に着用したものを着まわししようと思っていたのに、そういう節目には新しいものを着たほうがいいからと、無理やり高杉の友達が勤める店に連れて行かれた。
カジュアルさで人気のブランドは、高杉の勤めるショップよりもはるかに若者向けの値段設定で、しかも少し割り引いてくれたので、靴まで新調することができた。
おれと片岡の関係に気付いているらしい高杉に、一緒じゃないなんて珍しいと突っ込まれたとき、うまく誤魔化せなくて言葉につまったおれに、高杉は『経験すること全てが財産になるよ』って悟ったような言葉をくれた。
店員と客から始まった関係だけど、おれは高杉の穏やかな人柄や気さくな立ち振る舞いに憧れていて、もしアニキがいたらこんな感じなのかなって慕っていたから、何もかも全てをぶちまけたくなったけど、結局は何も言えなかった。
薄情なヤツだと思われようとも、あとで手紙で伝えることにしようとそう決めていた。
もう一度、鏡に映る自分に視線を向ける。
ふたりで並んで見るには小さかったこの姿見が、ひとりだとちょうどいい大きさなのだと初めて気付いて、空虚な笑いをこぼすと、気合いを入れなおした。
「さてと、そろそろ行くか!」
式が終わった後、片岡とここで会うことを約束していた。
毎日一晩中一緒にいるのに、顔を合わすのは1分にも満たない時間だし、向こうもあまり話したくないようだったので、リビングに書置きを残しておいたのだ。
朝起きたらなくなっていたから、きっと読んでくれたのだろう。読んでいても、ここに来るとは限らないけど。
時計を見ると、式まであと1時間。
おれは戸締りを整えると、マンションを後にした。




                                                                      









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