beloved




第十話




滞りなく式は終了し、友人たちと夜の約束を交わした後、卒業証書や記念品が詰め込まれた紙袋を一旦実家に置きにもどり、片岡のマンションへと急いだ。
電車で3駅。
駅からは徒歩10分。
一体何度この道を歩いただろうか。
駅前の本屋は店長の趣味でミステリー小説が豊富に揃っていることも、パン屋は午前11時と午後4時にクロワッサンが焼きあがることも、片岡のマンションに住まなければ知らなかった知識だ。
もう役に立たないであろうこの地域特有の情報を頭に浮かべながら歩いていると、すぐにマンションに着いた。
ちょっとやそっとじゃ崩壊しそうにない重厚なつくりのそれを、感慨深げに見上げてみる。
当たり前のようにここに住んでいたけれど、おれにはなんて不相応な高級マンションなんだと、改めて認めた。
何のためらいもなく出入りしていたことを思うと、おれの価値観も相当麻痺していたに違いない。
付き合い始めた頃、ここに来ては、玄関でロックを外すたびにドキドキしていたのに。
だいたいにしてオートロックというシステムさえよくわかっていなかったのだから。
ホールを抜け、エレベーターで部屋に向かう。
これからしっかり片岡にケジメをつけなくてはならない。
本来なら緊張するものだろうか、おれは結構冷静だった。
それよりも、久しぶりに片岡と会話できることが嬉しいと感じる自分がいて、自分の気持ちを再確認した。
だからこそ、本人にきちんと言わなくてはならないのだ。
約束の時間まであと30分以上あるから、もう一度気持ちの整理をして、穏やかな気持ちで片岡を待とうと思いながら、鍵穴に鍵を差し込み回すと、抵抗がない。
抜いてノブを回すとドアは開いた。
玄関には見覚えのある靴。
履きこまれているけれど、きちんと手入れがされていて、艶やかなレザーの発色が美しいこげ茶色のデザートブーツだ。
まさか約束の時間より早く来るなんて思わなくて、急いで靴を脱いでリビングのドアを開けると、何ら変わりなくソファに腰掛けている片岡が目に入った。
「おかえり」
ガチャリというドアの音に反応して視線を寄越すと、この数ヶ月のことが夢だったかのように、こともなさげにそんな言葉を発するから、おれもつられて「ただいま」と返した。
「卒業式・・・だったんだな。スーツ、よく似合ってるよ」
「あ、ああ・・・」
久しぶりの会話で、どう反応していいかわからなくて、突っ立ったままのおれに、傍に来るようにと促すから、促されるがままに片岡の向かいに腰を下ろした。
昨日までとは一変した態度に戸惑いを隠せない。
一体全体どういうことなんだろうか。
「コーヒー淹れたから、飲むだろ?」
そういえば部屋には香ばしいコーヒーの香りが漂っている。
おれの返事を聞かぬまま、キッチンへと立った片岡の後姿を、自然と目で追っていた。
髪型も、服装も、おれが知っている片岡だ。
何の変わりもない、片岡だ。
コトリと置かれたカップも、ミルクは入れずにほんの少しだけ砂糖を入れたコーヒーも、毎日淹れてくれたものとどこも変わりなくて、日常に戻ったかのような錯覚に陥りそうになるのを、懸命に堪えた。
呼び出したのはおれだけれど、何をどう話していいのか混乱していた。
どうして・・・どうして今日、片岡はこんな態度を取るのだろう。
数ヶ月のふたりの空白の時間には何もふれない片岡の意図するところがわからなくて、おれはテーブルのカップの中の黒い液体を見つめていた。
すべてを終わりにしようと、自分の気持ちに踏ん切りをつけ、やっと片岡と話をするところまで気持ちを持ってきたのに、もうその必要はないのだろうか。
変わりなく、おれはここにいてもいいのだろうか。
自分で決心したことも忘れ、まだ甘い汁を吸い続けようとするおれに、片岡が口を開いた。
「おれに、話があるって?」
「あ、勝手に時間とか決めて悪かったな」
視線を上げると、緊張した面持ちでおれを見つめる視線とぶつかった。
「おれも、おまえに話があるから。ちょうどよかったんだ」
その言葉でおれは悟った。
ほんの数分の間に、諦め果てていた片岡との関係をまだ続けていけるかもしれないと、上昇しかけていたおれの気持ちに釘をさすような口調と、少しばかり申しわけなさそうでそれでいて真摯な視線に、おれの甘い考えは打ち砕かれ、最後の期待もばっさり切り落とされた。







なんだ・・・なんだそうなのか・・・・・・







おそらく、片岡のほうも、おれに終わりを告げにきたのだ。
ここに居座るおれを、そう放り出してはおけないだろう。
だいたい、気持ちの冷めたヤツなんて、他人と一緒だ。
他人をこんな豪華マンションに、しかもタダで住まわせておくなんて、よっぽどのお人よしか金持ちの道楽にすぎない。
そして、片岡が、金持ちだからと他人を住まわせておくほどお人よしでないことを、おれは良く知っている。
とはいっても、ただの知り合いって関係じゃなかったから、せめて卒業くらい待ってやろう、そんなところだろうか。
この数ヶ月の出来事が、数分で好転するはずがないじゃないか。
ここにきてまで、成瀬亮という人物が、まだ片岡の中で価値があるのじゃないかと思った浅ましい自分が、恥ずかしく、情けなく、愚鈍でたまらない。
そして、終わりの言葉を片岡に告げられることも、告げさせることも、おれの意にそぐわない。
「成瀬、実は―――」
「あ、あのさっ」
言葉を遮られ、もろに怪訝な表情をした片岡に気付かないフリで、おれは努めて明るく告げた。





                                                                      









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