beloved




第八話




どうやらあまりに悲しいと涙も出ないらしい。
それともおれは何も感じていないのだろうか。
感情までもが麻痺してしまっているのだろうか。
思い起こせば、店での衝撃の一瞬でさえ、おれは冷静だったように思う。
身体が震え出すこともなければ、叫ぶこともなく、倒れることもなかった。
その足で家に帰ってこれたのだから。
性懲りもなく、片岡のマンションに・・・
案外平気な自分に自分自身がいちばん驚いた。
あれだけ仲睦まじいふたりを見せつけられたら、どうしようもないか・・・
本当に似合いのカップルだった。
ひとつひとつの振る舞いやしぐさが洗礼された上品さを持っていて、それは上辺だけ着飾ってハイソさを装っているような他の客とは雲泥の差で、ふたりの周りだけ別世界だった。
ここ数年、甘やかされてぬくぬくと暮らしてきたから忘れていたけれど、これが本来の姿なんだと実感した。
のこのこと片岡の後をついてはいろいろな場所に顔を出していた自分がとんでもなく恥ずかしかった。
ぐるぐる悩んでいる時期がいちばん苦しかった。
このまま終わるんじゃないかと不安で堪らなくなったり、それでも仕方がないと諦めたり、逆に一抹の希望を持ってみたり、コロコロ変わりすぎる自分の気持ちについていけなくて、おかしくなりそうだった。
そして、誕生日を区切りと考え、見事に玉砕したのだから、本望といえば本望だ。
だいたい、ひとつも連絡がこない時点でこんな結末になることは目に見えていたのに、気付かないフリをしていただけなのだ。
片岡に会うまでは、誰にも寄りかかることなく、全て自分の中で決着をつけてきた。
貧乏性で高望みはしない、そういう生活をしてきたのだから。
だからといって、この数年の生活を否定したくはない。
もし片岡に出会わなかったら、貧乏大学生で、ボロイ安アパートでバイト三昧の暮らしをしていたに違いない。
それこそ学費や生活費でいっぱいいっぱいで、実家にお金を入れることはできなかっただろう。
そして何より、片岡が大好きだった。
好きで好きで、こわいくらいだった。
いつまで続くかもしれない不安を忘れるくらいに、一緒に過ごす時間は濃密で幸せに満ち溢れていた。
片岡がおれにくれたたくさんのキスや言葉も嘘じゃないと今でも信じている。
ただ、ひとつだけ、おれも、そして片岡自身も気付かなかったのは、おれにとっては片岡がいちばんでも、片岡にとっておれはいちばんじゃなかったってことだ。
この歳になっても、おれは片岡以外の誰も好きになったことはないし、他の誰とも恋愛経験もない。
でも、片岡は違った。
本気で愛した人がいたのだ。
その人と結ばれることがなかったとしても、想いはずっとその人にあってもおかしなことではない。
それほど、深い愛情だったという証だ。
実ることのない恋愛感情を心に秘め、片岡はおれを愛してくれたのだろう。
もしかしたら、片岡自身もすでに終わったことだと思い込んでいたから、おれを好きになったのかも知れない。
しかし、何も終わってはいなかったのだ。
片岡の中には優梨子への恋情が消えずに残っていて・・・
そして、おそらくはもう手に入れることがかなわなかった優梨子が、思いがけず腕の中に転がり込んできたのだ。
それは『双子の兄の代わり』という歪んだ愛情なのかもしれない。
それでも片岡はそれを享受することを選んだ。
いちばん愛する人のために・・・
いちばんが手に入れば、二番めなんていらないし、必要ない。
それら全てが理解できるから、おれはどうしようもない。
理解できないくらいバカだったらよかったのだが、生憎頭はいい方だ。
恋愛のプロセスにおいて何度も自分をバカだと思ったことはあるけれど、どうしてだか最終結論だけは簡単に理解できたのだから、どうしようもない。
これから片岡はどうするつもりなのだろう。
そう考えていた矢先、なんと片岡が・・・帰ってきたのだ。




                                                                      









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