beloved




第七話




人間というものは単純にできているのか。
それともおれが単細胞なだけなのか。
自分でその区切りを見つけたおれは、毎日待ち続けるというプレッシャーから解放され、気分も幾分すっきりした。
玄関のドアを開けその先が闇に包まれていても、ケータイが鳴らなくても、2月2日を待つことができた。
それより早く何らかのアクションを起こしてくれればラッキーかなって、ほんの少し余裕も生まれた。
卒論の口頭試問も何とかクリアし、あとは卒業を待つのみという日々の中、おれはバイトに精を出した。
夕方まではランチがメインのカフェで、夜はお洒落なイタリアンレストランで、どちらも食事つきということがありがたかった。
特に夜のイタリアンレストランは、お洒落な内装と、本場イタリア人シェフの作る料理が評判で、すべて予約制となっていた。
かなりのキャパを持っていて、それなりにかなりのバイトを雇っていたから、シフトの自由が利くところも気に入った理由で、クリスマスの臨時バイトが終了した後バイトの延長を願い出ると、店長もおれのことを気に入ってくれたらしく、即OKの返事をもらった。
口頭試問の準備中も、昼間のバイトを少し減らしてもこちらのレストランのシフトを優先しつつ、おれは数週間前から、その日だけは休みをもらいたいと、店長に話をつけていた。
おれにとってはただの誕生日ではない。
片岡の気持ちを知る、最後の賭けだった。
帰ってこなくてもいい。
たったひとこと、声を聞かせてくれれば、おれは片岡を信じることができるのだ。
まだ、あいつの心におれは住んでいるのだと・・・・・・
弟たちのパーティー誘いも、翌日に顔を出すからとやんわり断った。
飲みに行こうかという二ノ宮の誘いも断った。
知り合ってこの方、おれの誕生日に連絡なんて寄越したことのなかった二ノ宮から誘いを受けた時に、おれは気付けばよかったのだ。
片岡と優梨子の現在の状況を、親戚である二ノ宮が知らないわけがない。
それなのに、おれを誘ったということは、片岡がおれに連絡を寄越す可能性がほとんどないことを示していたのに。
諦めるだの仕方がないだの、マイナス思考ばかりが大半を占めていた心の中に、その日が近づくにつれて、燻っていた期待や希望がどんどん大きくなっていることを、おれは気付かずにいたのだ。
無意識のうちに誕生日を待ち遠しく思い、片岡の優しい声が苦しい思いを吹き飛ばしてくれると、そう思い込んでいたのだ。
さすがに神は知っているのだと思った。
おれの利己的で愚かな心を。






***   ***  ***






その日の夕方、突然の着信音にドキリとして恐る恐る液晶画面を見やると、店長からだった。
出勤予定だったバイト2名から突然休みの連絡があり、困っているということだった。
数人連絡を入れてみたけれどなかなかつかまらなかったらしく、連絡が取れてよかったと心底ホッとした様子で、何とかならないだろうかと半ば泣き落とし気味に頼まれれば、おれはダメだとは言えなかった。
少し考えて、10時までならという条件でおれは受け入れた。
きっと片岡から連絡があるとしても、夜だろうと予想していたから。
バイト先に向かうと、店長は10時には一段落つくからと申しわけなさそうに頭を下げた。
バイトも立派な従業員だと軽く扱わない店長だから、おれは多少の無理も聞いてしまうのだ。
すぐにリザーブ席のセッティングを始めた。
テーブルの上のメインは料理だというシェフのこだわりから、ささやかな程度にアレンジされた花かごをテーブルの中心に備え、磨かれて銀色に光るカトラリーをセッティングしてゆく。
気後れしそうな程の高級店ではないが、ワインの種類も豊富でそれなりの値段がするこの店を訪れるのは圧倒的にカップルが多く、そんなふたりの語らいの場所となるテーブルをセッティングするのが好きだった。
そういえば、この店の評判を聞きつけた片岡が、今度の誕生日にディナーでもどうだと言っていたのを思い出し、まさかその日によそのカップルのためにテーブルを準備しているなんてと、おかしくなった。
あっという間に開店の時間となり、おれは顔を引き締めて客の接待に努めた。
給仕する料理について問われることもしばしばで、説明をしながらもおいしいと微笑まれると、自分が作ったわけでもないのに嬉しくなるのが不思議だ。
臨時でバイトに入った時には困るばかりだった客とのそういった会話も、今では楽しみのひとつでもあった。
店長の言うとおり、7時スタートの客が多く、9時過ぎには波がおさまった。
バーで飲みなおすカップルが多いのだろう、長居するような客はほどんどいないし、予約しないと来店できないというシステムは、ある程度客の波を読むことができるから、ほぼ決められた時間には仕事を終えることができる。
これなら10時には終われそうだとホッと息をついた時だった。
店長に案内されて店内に入ってきたカップルを見て、心臓が止まるかと思った。
むしろ、止まってしまえばよかったのかもしれない。
店内に流れる耳障りの良い音楽も、カチャカチャと皿とカトラリーの触れ合う音も、楽しそうな客の語らいも、何も聞こえなくなり、耳の奥の方がキーンとした。
上品そうなスーツをスマートに着こなした端正な顔立ちをした長身の男性と、清楚なワンピースと育ちのよさを感じさせる控えめなアクセサリーで着飾った恐ろしく綺麗な女性は、どう見ても似合いのカップルだった。
窓際のテーブルに案内されるふたりを、おれは目で追っていた。
席について、ワインリストに目を通す男性を見つめる女性の眼差しは熱く、ふと目があうと微笑み合うふたりを、おれは呆然と見つめていた。
テイスティングしたワインに頷くと、楽しそうにグラスを合わせるふたり。
蜂蜜色の照明の中で、それは幸せそのものだった。
「成瀬、時間だから、店長が上がれってさ」
先輩従業員に軽く背中を叩かれ、あまりに驚いたおれを、訝しげに見る先輩に頭を下げ、スタッフルームに向かうと、誰もいない部屋の、硬い椅子に腰掛けた。
こんなに離れていたことは一度もなかった。
久しぶりに見た片岡は、何も変わっていなかった。
別に悩んでいる風でもなく、ごくごく普通に見えた。
ただ、あんなに毛嫌いしていた整髪料で髪の毛をセットし、いつもの銀縁ではなくノンフレームのメガネだったこと以外は・・・・・・
俊哉さんがノンフレームだったな・・・・・・
ふと数ヶ月前に会った、片岡の亡くなった兄を思い出した。
俊哉さんを初めて見たときも、メガネが違うと思ったんだっけ・・・
窓際でエスコートした女性に微笑みかける片岡は、髪型やメガネの違いを除いても、まるで知らない、別世界の人のようだった。
二ノ宮の話では、優梨子は片岡のことを自分の夫である俊哉だと思い込んでいると言っていた。
だから片岡が髪型もメガネも変えて、俊哉になりきっているのだろうことは推測された。
それでも、あの恥ずかしくなるくらい甘い雰囲気は、間違いなく好意を寄せ合うもの同士のものだった。
優梨子は俊哉だと思い込んでいるのだからそれはわかる。
ということは、やはりあいつも優梨子さんのことを・・・・・・
そう思った瞬間、おれは自分の愚かさに気がついた。
なにが『やはり』なんだ。
もうわかりきっていることではないか。
今日という日を、片岡が優梨子と一緒に過ごしていることで、決着はついているではないか。
これからふたりは、おいしい料理を、楽しい語らいと一緒に味わうのだ。
おれがセッティングしたテーブルで。
ふたりの絡み合う視線が脳裏を掠め、振り払うように頭をぶんぶん振ると、着替えを始めた。
早くここから立ち去ろう、そう思い、脱ぎ捨てた制服をロッカーに突っ込むと、店を後にした。
パンドラの箱には何も残らなかった。
希望でさえもこなごなに砕けて、何も残らなかった。



                                                                      









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