beloved




第三話




ひとりの夜は長い。
この広いマンションにひとりでいたくないと、バイトを詰め込んで出来る限りの時間を外で過ごす。
重厚な玄関のドアを開けると暗闇に襲われ、ドアを閉めると静寂に包まれる。
部屋には荷物が詰め込まれたままのスーツケースとガイドブック。
つい先日まで意味をなしていたものが、全くの無意味なものになり、乱暴に置き去りにされている。
この部屋でひとり留守番をすることなんて平気だった。修学旅行や研修など、一緒に暮らして3年半、別々の夜を過ごしたことは幾度となくある。
それなのに、どうしてこんなに不安になる?
寝るためだけに帰ってくる部屋。
もう一週間も使われていないキッチン。
どうせ連絡があるのならケータイにかかってくるだろうと、家を空けているのだから、ひとりがつらいなら実家に帰ればいいことだ。
だが、おれはここに帰ってくる。
そして、不安な気持ちとは裏腹に、風呂に入り、ベッドに入ると、きちんと睡魔に襲われる。
広いベッドでのひとり寝は切なさを増幅させるばかりだから、あれ以来日頃は乱すことのない自室のベッドで眠る。
あの日、母親からの連絡を受け取ったものの、動こうとしない片岡の背中を押したのはおれ自身だ。
まるで他人事のように兄の死を受け止め、通夜と葬儀ぐらいは参列しなくちゃなと冷たく言い放ったあいつの眼鏡越しの瞳は、その口調ほど冷ややかではなく、むしろ隠しきれない戸惑いと言い表せない悲しみを映していた。
仲の良い兄弟ではなかっただろう。でも片岡は、兄のことを嫌ってはいなかった。
自分より少しばかり要領が良くて、自分よりも親の愛情を受けていた兄を、羨みこそすれ、憎んではいないようだった。
事実、両親とは顔を会わさなくなり久しいが、兄とはコンタクトをとっていることを、おれはうすうす感じていた。
隠さなくてもいいのにその事実をおれに告げなかったのは・・・やはり優梨子さんのことが関係しているのだろうと気付いたのは、ほんの数ヶ月前のことだけれど。
おれには家族とは絶縁状態だと説明していた手前、兄の死に対する自分の気持ちでさえも隠してしまう。
そんな片岡が居たたまれなくて、おれは無理やり実家に帰らせたのだ。
あの時、おれがそういう行動に出なければ、きっと片岡は本当に通夜と葬儀だけに参列するだけで終わらせるつもりだっただろう。
でも、そんなことおれが許さない。
家族って、そんなもんじゃないと思うから。
「血」というものにこだわるつもりはないが、やはりそこに生まれたことは、それなりの意味を持つのだから。
実家に帰れ、身内としてきちんと弔って来いと、車のキーを押しつけて半ば強引に玄関まで押しやったおれに、驚きながらもさほど抗うこともなく、無言でこの部屋を後にした。
行ってくるとも、すぐに帰るとも、待ってろとも、何の言葉も残さずに。
それ以来、何の連絡もない。
通夜も葬儀も盛大かつしめやかに行なわれたと、地元の新聞が報じていた。
気落ちした両親の変わりに、いろいろと忙しいらしいと、二ノ宮が知らせてくれた。
普通の家ならともかく、あの大きな片岡の家だ。
おれにはわからない、いろいろな問題があるのだろう。
本人と連絡がとれない、それが、今おれが知る全てだ。
最初のころはおれだって心配で何度かケータイを鳴らしてみたけれど、無機質な女性の声が応対するばかりだった。
その声を聞くのがたまらなくて、かけるのを止めた。
鳴る気配さえ感じさせない電話のモジュラーも引き抜いた。
繋がっていると、もしかしてと期待してしまうから。
どうしてそう思うのかわからない。
ただ漠然と、あいつから連絡はこない、そう思った。
見えない確信が存在するのに、実家に帰ることなくここに居座ったり、バイト中もケータイを肌身離さず持っていたりする自分が、情けないやら女々しいやらで、嫌になる。
いつも一緒に座っていたソファにひとりでいると、考え事ばかりしてしまうから、風呂に入って寝てしまおうと立ち上がったとき、ケータイの呼び出し音にドキリとした。
しかし、すぐに実家からのメロディだと気づき、期待してしまった自分が愚かで笑えた。
「はい・・・・・・あ、おふくろ?」
電話の主は、休暇で日本に戻ってきたらしい母親からだった。
帰ってきたからとすぐに連絡を寄越さない、用事があるときしか連絡してこないなんて、端から見ればドライな関係にみえるかもしれないが、それはおれの自立を認めてくれている証であり、親子だからと必要以上にプライベートに踏み込まない、そんなフランクな関係をおれは気に入っている。
だからといって決して冷めているのではなく、困ったことがあれば助け合う。それが成瀬家における『家族』たるものだ。
『年末はどうするの?先生のお家がああいう状態じゃ、亮はひとりなんでしょ?』
片岡の家の事情も、片岡とおれの関係も知らない母は、おれも葬儀に参列したものと思い込んでいる。
『こっちに帰ってきなさいよ。ひとりじゃ寂しいでしょ?きちんと先生に話をして、こっちで過ごしなさい。亮の作るお雑煮、みんな待ってるから』
家を出てからも、毎年大晦日と元旦には片岡と一緒に顔を出した。
けれど、母親の方から帰って来いといわれたことは一度もない。
「なに?なんか話でもあるの?」
図星だったようで、彼女は電話口で口を濁した。
何か理由がないと帰ってこいなんて言わないと思っていたけれど、それでも今のおれにはその言葉は神の救いのように優しかった。
そう、あいつは・・・きっと帰ってこない。
明日帰る、そう告げ、折りたたんだケータイを見つめていると、みっともなく頬を熱いものが伝った。

                                                                      









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