beloved




第ニ話




「おれは、伯父に連れていかれたんだけどな。滅多に外出しない伯父との唯一の旅行だった。仕事絡みの旅でさ、伯父は騒がしい街だと落ち着けなかったみたいだけど、おれは気に入った。住んでる人はみんな何に縛られるでもなく自由で生き生きとしてたし。ニューヨーク・・・というよりアメリカという国自体が移民の国だろ?その昔希望や夢を抱いて海を渡ってきた人たちが開拓し作り上げた国だから、エネルギッシュでパワーに満ち溢れていて。おれは中学生でガキだったけど、いっちょまえにスゲェとか思って、夢に向かって生きるんだとか、たいした夢もないくせにやたら向こうでは張り切って過ごしてたな」
何を思い出したのかクスクスと笑いながら、片岡はやけに楽しそうだった。
「仕事の打ち合わせ以外はホテルにこもりっぱなしの伯父に耐えかねて、無謀にもひとりで街に出たり」
「あ、あんた、そんな無鉄砲な性格だっけ?」
いや、どっちかというと、慎重派で落ち着いて考える性格だとおれは思っていたんだけど。
「旅先だと変に気が高ぶって大胆になるんだって。街をうろつきながら思ったのは、自分がなんて小さいんだろうってこと。心も身体もな。高層ビルの間から見上げた空がびっくりするほど高くてさ、自分が嫌になった」
「嫌になった?なんで?」
「細かいことにいちいちこだわって生きてたのがバカらしくて。もっと前向きに生きてもいいかなって、そのとき初めて思ったな。とか何とか言って、そう考えたのはその時だけで、結局はしがない数学教師なんだけど」
『しがない』という言葉が耳に残る。
「てことはさ・・・あんた、何かやりたいことでもあったのか?」
散らかった服をたたんでいた手を止めて、片岡が視線をおれに寄越した。
「その言い方だと、教師っていう立場が不本意だっていう風に聞こえる」
教師になりたくてなったわけじゃないことはすでに承知のことだが、改めて本人から聞くとどうもすっきりしない。
「そりゃおれにだってやりたいことのひとつくらいあったよ。でも実際問題教師という職についてるんだし。おれのことはいいんだって。おれはおまえにもあのエネルギーを感じて欲しいから―――」
「そんなこと聞いてないだろ?おれは、あんたがどんな希望を持っていたのか知りたいって言ってるんだ。あんた、全然話してくれないじゃん、そういうこと。ちょっとくらい聞かせてくれたっていいじゃん」
何を必死になってるんだと自分で戸惑いながらも、おれは引かなかった。
複雑な表情を露わにして、ため息をひとつ漏らすと、片岡はゆっくり口を開いた。
「おまえには話したけど、実家がああいう仕事やってる関係で家にはかなりの本があったんだ。書庫があってそこにある本は自由に読むことができたんだが、とにかくビジネス書の類いばかりだったよ。その中でさ、政治には興味は全くもてなかったけど、経済とか経営に興味がを持って。『リーダーシップ論』とかさ、難しい単語ばかりの本を必死で読んでた。で、大学でもそっちに進もうとか考えてたんだけど、それじゃ親を喜ばすだけじゃないかって。だから、全然関係ない理系に進んだんだ」
片岡の話を聞きながら、おれはあの男との会話を思い出していた。
「結局のところ、おれがどの道に進もうが親には興味がなかったようだし、一人相撲ってやつかな。まぁ理学部もそれなりに面白かったし、経営学を勉強しても兄がいるからおれはお払い箱だし」
自嘲めいた笑みを浮かべながら、吐き捨てるように話す片岡に胸が痛くなる。
そんなことはない!おれは心で叫んでいた。
隣りでおれに話して聞かせる声が、数ヶ月前、それと同じ声でおれの記億に刻み込まれた台詞を甦らせる。
『あいつも片岡の人間だ。家業を手伝うのは当たり前のことじゃないか』
そう、片岡はあの大きな片岡の家の人間なんだ。
『あいつに期待をしているし、あいつならできると確信している』
そう、だれも片岡を見捨てちゃいないんだ。
『ぼっちゃん高校生相手に数式を唱えて一生を終わればいいと思っているのか?』
そう、本来、片岡はもっともっと違う生き方ができる人なんだ。
「―――るせ?成瀬?どうした?」
呼ばれて我に帰ると、至近距離に片岡の顔。心配そうに覗きこんでいる。
「どうした?トリップしてたぞ?まぁつまんない話ではあったが、話せといったのはおまえだぞ?」
「わ、悪い。ニューヨークのこと考えてた」
真っ直ぐ片岡を見れなくて、視線をすっと逸らすと、持っていたガイドブックをパラパラと指先で弾いた。
あの男の言ったことに何一つ間違いはない。上辺では今の生活に満足しているように見えるが、そうじゃないことを、離れて暮らしているあの男は理解していた。それは、同じ遺伝子を持つ双子のなせる技なのだろうか。
「なんかあったのか?それとも、おれ、変なこと言ったか?」
出会ったときから片岡はおれの気持ちを読むのが上手かった。それは嬉しくもあり、愛されていることのバロメーターだと思うこともあった。しかし、こういうときは本当に困る。困るけれど、おれだって一緒に暮らした5年という歳月で、巧みに気持ちを隠す術を会得していた。
「いや、あんたがいろんなことに興味あるのはわかってたけどさ、ニューヨークって世界経済の中心じゃん?向こうでいろいろ語られても、おれ経済とか興味ないし困るなぁとか考えちまった。つうか、あんた、英会話できんの?」
「あ、あぁ。小学校の時から習わされたからな。英語ぐらい話せないと大人になってから困るとか何とか言われて」
英語の歌を歌うときいやに発音がいいとは思っていたが、まさか数学教師が英語まで話せるとは思っていなくて、英才教育を受けてきたと言わんばかりの新事実にさえ、今のおれにはズシリと重くのしかかる。
「ふ〜ん、じゃあ安心だな!言っとくけどおれは全くできないから!ちゃんと通訳してくれよ!」
いつもの調子で遠慮のない言葉を浴びせると、片岡も会話を楽しみ始める。
「それじゃあまるで添乗員扱いじゃないか」
心外だと眉を顰めながらも瞳が笑っているのは、話を逸らすことに成功した証拠だ。
こんな自分勝手な感情を片岡に悟られたくはない。
「なんだよ、文句あるのか?あんたが連れてってやるって言ったんだろ?だからおれは―――ほら、電話電話!」
日頃あまり鳴ることのない電話の呼び出し音を訝しく思いながらも、会話が途切れたことにホッと胸を撫で下ろした。
「早くっ!急用かもしんないだろ?」
シッシと払いのけるように手を振ると、片岡が仕方なさそうに部屋を出て行った。
服や小物がキレイに詰め込まれたスーツケースを閉めると、必要のない余分な服をクローゼットに戻す。
早く出発したい、そう思った。
煩わしい全てから逃げ出して、見知らぬ土地で片岡をふたりになりたかった。
『人生変わるかもよ?』
その言葉を反芻し、どうかいい方向に変わりますようにと願いながら、ガイドブックを開いた。
そして、この旅行だけは純粋に楽しもうと、そう心に誓ったとき、背後に人の気配を感じ振り返ると、ただならぬ雰囲気の片岡がおれを見つめていた。
「なに?どうかし―――」
遮られた言葉にかぶせられたのは、信じがたい・・・言葉だった。
「兄が事故に遭って・・・息を引き取ったそうだ」
抑揚のない、冷たく、何も感情のこもっていない声音を、おれは久しぶりに聞いた。
そしてそれは、おれが聞いた、今年最後の片岡の声となった。

                                                                      









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